第2話
少女の季節が移ろうのは早く、その興味も風見鶏のようにくるくると変わっていく。
千春がその青年に出会ったのは日差し眩しい夏の頃。駅前で買ったばかりの本を落として、それを拾って追いかけて来たのが彼だった。
映画というより月九のような、定番すぎるベタな出会い。
彼は黒髪で色白で棒切れのようにひょろりと背が高い。千春が小柄なのもあるけれど、それでもうんと見上げる高さだ。黒のスラックスに革靴、清潔そうな白いシャツを着て、小脇に薄い鞄と洋書らしき数冊の本を抱えていた。年は二十歳前後で若そうだが雰囲気は静謐で落ち着きがある。顔は取り分けて格好良いという感じでは無かったが、例えば古い恋愛映画に出てくる明治や大正の書生役などが似合いそうな、暑気を取り払う涼やかな空気を纏っていた。
「これ、落し物」
息を切らせる素振りも無く、カバーの付いた文庫本を差し出す。小振りな書籍がすっぽりと収まりそうな大きな手からそれを受け取り、礼を述べた声は自分でも分かるほど蚊の鳴くような細さだった。
「踏まれたら大変だから。気を付けて」
彼が発したのはその二言。最初の出会いはそれでおしまい。時間にして五分も無い、短い邂逅。けれど本を受け取る一瞬に触れた手が、いつまでもいつまでも火のように熱くて。
映画と文学ばかりに傾倒して、人付き合いには少々鈍い千春にも分かった。
恋に落ちるとはこういうことだと。
以来、駅前の人混みに、彼の姿を見ることが多くなった。
青年が抜きん出て長身というのもあるだろうが、人の目というものは、一度意識すると精度が上がるらしい。彼はいつも初めて出会ったときと同じような服装で、変わるのは小脇に抱えた本の冊数くらい。制服では無さそうだけどスーツでも無いラフな格好だから、きっと大学生か何かだろうと推察した。千春の下校時間と合うのは月曜日と水曜日。いつも一人で、誰かと連れ立っている様子は無い。
(どうしよう。話しかけてみようか)
駅の出口が見える広場のベンチでページの進まない文庫本を広げながら、千春は逡巡するばかりだった。今日こそ声を掛けようと腰を浮かせかけ、またすぐに座り込んでしまう。本を拾ってあげた小さな高校生のことなど彼はきっと覚えていないだろう。同じ制服の少女たちは駅前で珍しくないし、その中でも千春は埋没している。
悶々と過ごすうち出会いから一ヵ月が過ぎていた。恋愛映画の主人公なら、とっくに再会をこなしている頃だろう。こんな風に、いつ彼の隣を歩くきれいな女性が現れないかと、やきもきなんかしていない筈だ。
何も出来なかった夜の自室、眠れずに窓のカーテンを開くと、月が笑った口のように弧を描いていた。
(私ってなんて駄目な子だ)
振り向くと部屋に差し込んだ月光が揺らめき、部屋の壁に貼ったポスターを照らし出す。色褪せた『Moon Jelly』のポスターは少し前、受付の老爺に頼み込んで譲って貰ったものだ。
千春はカーテンを開けたまま、ベッドに潜り込んで部屋の中をぼんやりと見渡した。月の光がポスターに反射して部屋全体がほんのりと青く染まっている。
(こうやって、また何にも出来ないまんまで、今日も終わってしまうんだ)
自己嫌悪に陥りながら、電気を消した部屋にぽつりと浮かぶクラゲの絵を眺めて微睡んでいると、ポスターの中の海が膨らんで千春を巻き込み飲み込んでいく。上が明るい、下が暗い、無限の青色の中、主人公である夏休みの少年がこちらを覗き込んでいた。
「勇気を出しなよ。この出会いは偶然なんかじゃないんだ」
これは『Moon Jelly』の中の台詞だ。作中、幽霊の少女が落ち込んだときに少年が励まそうとして言った台詞。元の映画は字幕だけれど、今は何故か吹き替えられたようにはっきりと日本語で聞こえる。
「夏は何度も来たけれど、今年の夏はとびっきりだ。だって君に会えたもの。だから秋も冬も春も、次の夏も、ずっと特別なんだ。ねえ、遊ぼう。君ともっと色んな話がしたいんだ」
そうだ、と千春は声に出さずに同意する。彼ともっと話したい。どんな名前で、何が好きで、どこに住んでいて、何に興味があって、何をするのが楽しいのか。
(それなら、踏み切らないといけないんだ。でないと何も始まらない)
澄み切ったアクアブルーの光の中、励まされた少女が少年の手を取ってはにかむ。その天使のような表情に、少年が初めて恋心らしきものを自覚するとても美しいシーン。
そんな二人の姿からゆっくりと遠ざかって、千春は本格的な眠りの闇へと落ちていった。
決行は九月も半ばを過ぎた水曜日。じりつく熱さは残っているけれど、日が傾けば夏には無かった涼しさが吹き抜けていく頃。
高校受験のために買って返し忘れてしまっていた合格祈願のお守りを、今回だけお願いしますと鞄に忍ばせ、駅前の蝉時雨の中で彼を待つ。
夢として編集された映画の台詞を真に受けてこんなところに立っているのを人が知ったなら、どれほど滑稽に思うだろう。台詞に背中を押された行動なんて本当に自分のものと言えるだろうか。今の自分を動かしているのは恋心や情熱なんかではなくて、シナリオのト書きでは無いのだろうか。そんなとりとめのない考えが湧いては残暑に溶かされていく。そうだ何もかもきっとこの暑さの所為だ。
じりじりと晩夏の日差しに焦がされながら待っていると、いつもの時間、改札を抜けて彼が出て来た。
そこだけ空気の流れまでが変わるような清涼感のある佇まい。細身で長身でまるで映画俳優のよう。だけど周りの人々は誰もそれに気付かない。振り向きもしない。きっとあの映画館のように、分かる人にしか見つけられないのだ。
すたすたと歩いていく背中を見失わないよう人混みを泳ぐように追っていく。
「あの」
ようやく追いついた本屋の前で上擦った声を掛けた。疎らになった人通りの中、青年がくるりと振り返る。取り立てて美形だとか格好良いという訳ではないが、知的で繊細で賢そうな印象を持たせる細面の顔だ。
「……何か?」
怪訝そうに問われて千春は気付く。何も考えていない。ただ声を掛けたい一心で、その後のことが抜け落ちている。冷や汗で体温がさあっと下がるのを感じた。
「あ、あの……ええと……この間は、落し物を……落し物を拾っていただいて、そ、それでお礼を言いたくて」
呂律が回らない。酔っ払いだってもう少しましな喋り方をするだろうに。
「落し物?」
青年は怪訝そうに首を傾げる。それはそうだ。ひと月も前の落し物のことなんて普通は覚えていない。
「え、ええと、一ヵ月くらい前なんですけど……そこの本屋で買った本を、拾って持って来て下さって……」
「……ああ」
思い出した、と彼は言って頷いた。
(良かった、覚えててくれた!)
「あの時、お礼言えないままだったんで、ちゃんとお礼言わなくちゃって待ってたんです。私、緊張しちゃってこんなに経っちゃいましたけど、その節はありがとうございました」
「そんな、わざわざいいのに。律儀だね。ここら辺の子?」
「いえ、大事な本だったので本当に助かったんです。本当です。あ、高校はそこの、ちょっと行ったところに通ってます。中学も近くです。家も近所です」
何だか余計なことまで口走っている気もするがブレーキが利かない。見上げれば青年はきょとんとした顔で千春を見ている。きっと呆れられているのだ。
「あ……すみません。変なこと言いました」
「いや、元気があって良いと思う……でも、人が沢山いるから、女の子があんまり自分のことを大っぴらに話すのは危ないよ」
少し引き気味のようだが、どうやら気遣ってくれているらしい。
(すごい、優しいんだ)
思うと同時に、やはり変なことを言ってしまったんだと顔が熱くなった。
「すみません。ご迷惑をお掛けしました」
「いいよ。こんな長いスパンでお礼を言われるのは初めてだから、少し楽しかった」
「や、やっぱり変でしょうか」
「変ではあるかも知れない。でも嬉しかったよ。こちらこそありがとう」
そんな言葉一つで、顔だけでなく全身の体温が上昇するような気がした。
それから暫く本屋の側で立ち話をした筈なのだけれど、内容を全くと言っていいほど覚えていない。
帰った後も頭の中は青年のことでいっぱいだった。夕食は喉を通らず宿題も手に付かない。早々に自室に引きこもり、ベッドに寝転んで壁に貼ったポスターを見遣る。
『Moon Jelly』の主人公は言っていた。自分の変化を無二の親友であり悪戯仲間である従兄に話すシーンの台詞。
「今までのどんな冒険より楽しくてわくわくして、とても疲れてしまうのに心臓だけは元気なんだ。なあ兄ちゃん、悪い病気に罹ったんでないなら、俺は一体どうしちゃったんだろう」
今ならあの少年の気持ちが解る。年齢も性別も離れているけど抱え込んだ想いは同じだ。
ロマンチックな映画のシーンと青年の姿が、枕を抱いて眠りに落ちる頭の中でぐるぐると混ざり合っていく。
水族館の涼しい青は、あの人に似ていると思うのだ。
三度目の出会いは普通に始められた筈だ。
ごく普通に話しかけて、普通に話をすることが出来た。自然とどこかに腰を落ち着ける雰囲気になり、駅前の喫茶チェーンに入ることになる。
青年の名は藤沢修二といった。
いつもの駅から三駅先の短大の一年生であり、入学と同時に近くの下宿に引っ越して来たのだという。今の趣味は町の散策だそうで、どこか良いスポットは無いかと彼の方から訊いてきた。
「できれば古書店とか、アンティークショップとか、古いものが置いてある店、無いかな」
女の子はこういうのあまり興味無いかも知れないけど、と少し申し訳なさそうに付け加える。
勿論、そんなことは無い。いや確かに古いもの自体にさほどの興味は無かったが、修二が希望することなら喜んで興味を持てる。
千春はお腹を撫でられた子犬のように張り切って、行き付けの店や公園、穴場について、小学校からの現地知識を披露した。古いものの店についてはあまり自信が無かったが、知りうる限りの場所を教えることにする。
だけどあの映画館のことだけは、寸でのところで口を噤んだ。
知る人ぞ知る小劇場。まさに穴場中の穴場と言えるスポット。だからこそ軽々しく人に教えるのは憚られる。特別な人には教えようと決めた場所だけど、彼とはまだ三回会ったに過ぎない。
「いろいろ教えてくれてありがとう。今度巡ってみるよ」
メモでいっぱいになった手帳を閉じて修二は礼を述べる。千春は机の下、膝の上でぎゅっと掌を握り、澄ました顔で申し出た。気持ちだけが先走り前のめりにならないように注意して。
「藤沢さん。良ければ、私、案内しますよ」
「でも、迷惑じゃない?」
「テスト期間以外は暇ですから」
一緒に過ごす大義名分が得られるならそのテスト期間すら返上したって構わない。
修二は千春の熱心な顔を見てゆっくりと瞬きをし、ほんの小さく頷いた。
「じゃあ、お願いしようかな。でも、勉強はきちんとやった方が良いよ」
「わ、分かってます」
勉学を蔑ろにしがちな自分の心を見透かされたようで、千春は思わずどもってしまう。その姿を見て、そうした方が良いよと柔らかく言いながら、修二は紅茶を一口啜った。
次に会った日から、二人きりで町中スポットを巡るツアーが始まる。それはまるで夢のような時間だった。
時間は放課後の待ち合わせから日没まで。女の子なんだからあまり遅くなると危ない、が彼の口癖である。そのためツアーは自ずと一日一店を攻めていく形になっていた。
町は小さいくせに歴史が長く、チェーン店が立ち並ぶ駅前や主婦層をターゲットに生き残っている商店街のアーケードを離れれば、昔ながらの熱心な常連客を命綱に古くからやっている店がぽつぽつと残っている。その殆どが採算度外視で年老いた店主が趣味で開いているようなこだわりの強い店である。あの古い小劇場もその中の一つなのだろう。千春が脇目も振らず通っていたため、いつも素通りしていただけで。
週末に事前調査と称してうろついて得た町の知識と地図のメモをポケットに詰め込んで、千春は修二を先導する。
案内先の店の数々は修二の好みと合致したようだった。彼は傍目に分かるくらいに、けれど静かに喜んでいた。一度店に入ると彼は陳列された様々なよく分からないものに夢中になってしまうので、出るまで二人の会話は中断されてしまう。残念ながら彼がどれだけ目を輝かせても、謎の文字の書かれた木片や大きいだけの石ころやどぎつい色の不気味な仮面などにはとても興味を持てない。
しかし、ここぞと思って案内した場所を彼が気に入ってくれるのは千春も鼻が高い。
ただ折角平凡なりに彼の前で可愛らしくしていようとしているのに、そういったことは眼中に無いらしいのが少し残念だった。
「こういうのって、男の人はみんな魅力的に思うものなんですか?」
とある店先の笊の中に無造作に詰め込まれた前衛的なガラスの何かを手に取って、ある日、千春は尋ねてみた。彼の気分を害してしまわないよう、うんざりしたなんて思われないよう注意を払って。
「男がみんなそうかは分からないなあ。君は、ここにあるもの全部、興味無い?」
幸いにも修二は至って平静で、逆に質問を返して来た。
「全部、って訳ではないです。ブローチとか、鏡とか、キャンドルとか、細かくて綺麗なのは良いなあって思います」
「良かった。僕も、ここにある全部が好きって訳では無いよ。今、君が持ってるガラスの花瓶とかは、ちょっと、どうしようも無いと思うし」
後半の声を潜めたのは、煤けたガラスの向こうで寝惚けている老店主に配慮したものだろう。千春は手の中のものに目を落とし、これは花瓶だったのかと愕然とした。
「でも古い物を見て回るのは、何だか良いんだ。今のものが悪くて昔のものが全部良いってことじゃないよ。昔だって量産品はあるし、粗悪なものもある。だけど今のものは大体普通に手に入るから、たまにこういうところに来て、現代まで残っている古くて良い物を探すんだ」
「何だか化石の発掘みたいですね」
「そうかも知れない。全部手に入れるほどお金は無いし、部屋も狭いけど、心にぴんとくる良い物を見付けたら何が何でも欲しくなってしまうんだろうな。それで誰にも内緒で押し入れに隠して、とっておきの時にだけ出して楽しむんだ」
「それなら……私にも分かる気がします」
一番大事な宝石は大勢に見せびらかしたい欲に駆られるが、やっぱり誰にも見せたくないと鍵の付いた箱に仕舞いたくもなる、そんな想反する気持ち。対象が大衆受けするものでなく、自分だけに価値が解ると思うものなら尚更だ。がらくた愛好はおよそ一般女性に好かれる趣味では無いと思ったが、そこだけは千春にも理解できる。
これは、修二への贔屓の気持ちには左右されていない筈だ。
「分かってくれて嬉しい。正直、若い女の子には理解して貰えないと思ってた」
「若い女の子にだって、アンティーク趣味の子はいますよ。たぶん。私は、そうでもないですけど」
「そうみたいだね。でも、僕もこれが趣味の全部ではないから、きっと丁度良い」
少し気になる言葉を残し、彼は店の奥へと入っていった。千春はその意味を計りかねて、歪なガラスの花瓶を持ったまま店先に立ち尽くしていた。
古い店を巡るようになってから、他にも新しく分かったことがある。
それは、小劇場に通う他の常連が、こういった古い店の主なことが多いということだ。初めて遭遇した時は心臓が止まるほど驚いて思わず知らない振りをしかけたが、その前にあっさりと看破されてしまった。
彼らが映画館への千春の足が遠のき気味なのと同伴の青年を早々に結び付け、訳知り顔に頷いたり目配せをするのが妙に居心地が悪い。確かにその考えは、恐らく間違っていないのだが。
うち一軒の骨董屋の主などは修二が棚を眺めているときにこそこそと手招きをし、こんなことを囁いてきた。
「最近見ないと思ったら、千春ちゃん、浮気は良くないよ」
「ど、どういうことですか」
「だって千春ちゃんの恋人はロビンだろう? あんなに来るたびロビンロビン言ってたんだから」
「ち、違いますよ! どうしてそうなっちゃうんですか」
「ははは、冗談冗談。そう真剣に怒りなさんな。いやあ、若いってのは良いもんだね」
悪気が無いのは分かっている。表情や口調からひしひしと感じるのは応援の気持ちだけである。ただ、遠慮もデリカシーも無いだけだ。
それが原因で新しい店に赴くのが嫌になりそうな時期もあったが、修二のためにと乗り越えた。そんなことが続いた結果、野次馬気質な中年男性のあしらい方が板についてしまったことには驚くばかりだ。元々短い付き合いでは無かったので、お互い踏み込む加減を心得ていたというのもあるけれど。
勿論、プラスの要素もある。
店の主人が知り合いということで顔が広いねと修二には褒められるし、常連たちが千春ちゃんと一緒の人ならと奥から掘り出し物の物品を出してきて、それがまた彼を感嘆させる。
自分の力でないにしろ、修二の喜ぶ顔が見られるのが千春は嬉しかった。
今の状況は、ちょっと変わってはいるが世間的にこれはデートに見えるだろう。小劇場の常連改め、古書店や骨董店の店主たちにもそう見えている筈だ。彼らの反応を見る限り、自分たちは初心な恋人同士という設定になっているらしい。
だが修二はそう思っていない。引っ越し先で出会った地元の女の子に、おすすめのお店を教えてもらっている感覚が精々だろう。色気の欠片も感じられないシチュエーションだ。
(告白したら、そんな風に思ってくれるのかな)
少し腰を屈めて棚を覗き込む後姿に、まだどこかふんわりした想いを打ち明けそうになる。
でも、結局言葉は喉よりもずっと下で止まってしまう。
初めて話してからここまで、まるでシナリオをなぞるように上手くいっている。映画館の常連たちも、二人の行く店行く店に誰かが配置しているのかも知れないと勘繰ってしまうくらいに。
だけどこの先も上手くいくとは限らない。気合を入れて告白をしても、その先に何も無かったら、何も起こらなかったらと思うとただただ怖い。
(今のままでも悪くないし、楽しいし、無理なんかしなくたって良いよね……)
そんな風に思ってしまう。