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少女の秘密とロビンのうさぎ  作者: 一里 郷
2/6

第1話

 矢野千春が初めてロビン・フェローの映画を観たのは中学一年の秋だった。

 駅前への近道をしようとして、迷った路地の奥に見つけた古い小劇場。

 そこで誘われるように観た一本の映画。

 そんな、それ自体が一つのお話のような出会い。


 コンクリート打ち放しの壁に貼られたポスターには、真っ青な水中にぽつりと浮かんだ小さなクラゲ。そして少年のシルエットと、細いフォントのタイトル『Moon Jelly』。

 とある夏季休暇、廃墟の水族館に忍び込んだ冒険好きの少年が幽霊の少女と出会い、彼女が消えるまでの数日間を描くファンタジー映画だ。

 独特で幻想的な光と影の表現、夏の日射しが照り付ける鮮やかな日常とモノトーンに近い青色で描かれた水族館シーンの対比は美しく、悪戯とポップコーンが好きなやんちゃで腕白な少年が仄かな恋心を知り、儚い別れを経験し大人になっていく過程の繊細さは秀逸という他ない。

 幽霊の少女は水の無くなった水族館を泳ぐような姿で表現され、白くふわりとしたスカートが広がる半透明の姿は波に漂うクラゲを思わせる。月光が淡く照らす空っぽの水槽の中、彼女が少年に見送られながら昇っていくラストシーンは何度思い出しても切なく魅力的だった。

 そんな美しい映画は夢見がちな少女を虜にした。

 この作品のことは、誰も知らなかった。他の映画館のパンフレットにも、立ち読みしたコンビニの映画雑誌にも、タイトルはおろか監督であるロビン・フェローの名さえも見つけることは出来なかった。映画に疎い家族は勿論のこと、それなりに劇場に足を運ぶという友人たちですら首を傾げた。

 一度、そんなすごい映画なら是非観てみたいという友人を思い切って連れて行ったことがある。けれどその日に限って小劇場は閉じており、その古めかしくぼろぼろな外観も相俟って、もう何年も廃墟でございといった佇まいでシャッター通りの隅に鎮座ましましていた。

「夢でも見たんじゃないの? あんたファンタジーと映画好きすぎだもん」

 彼女は千春の背中をばんばん叩いて、期待してたのになあと笑っていた。

 確かに出来すぎた展開だ。幻想小説が好きな女の子が、迷い込んだ古い劇場で誰も知らない素晴らしい映画を観て、次に他の人を連れて行ってもそこには廃墟があるだけ。少しの不思議とノスタルジーを盛り込んだ、ジュブナイル小説や少年少女向けの夏映画のあらすじになりそうなストーリー。

 けれど物語は終わりにはならなかった。

 それから一年以上、千春はこの映画館に通い詰め、立派な馴染みの常連客になっている。


 件の小劇場は、家から学校までの往復ルートから大きく外れたところにある。

 チェーン店の立ち並ぶ繁華街を離れて曲がりくねった路地を抜けた先。シャッターだらけの寂れた商店街の隅にトンネルのようなぽかりと暗く開いた入口は、本来子供向けに可愛らしくメルヘンチックに飾られたものだったのだろう。だが今は壁に描かれた虹や気球も塗料が罅割れ剥がれかけ、お化け屋敷の方がまだ友好的と思える不気味さを漂わせている。館名も削れて読めない。

 滑り止めのゴムの無くなった暗い階段を降りるとチケット売り場があり、いつも煙草の匂いをさせた老人が無愛想に座っている。顔も見ず、年齢確認も禄にしないでチケットを切る岩のようなこの翁以外、職員は見当たらない。

 色褪せたソファや閉じっぱなしの売店を横目にロビーを抜ければ、席数百五十ほどのこじんまりとしたホールに入れる。狭く、薄暗く、中学卒業を控えたうら若き少女には似つかわしくない陰鬱なムードが立ち込める空間。けれど幻想の幕が開く前のひとときには、大劇場の賑やかさより、この雰囲気こそが望ましい。夜明け前の深い闇、夢見る前のまどろみを感じさせる静寂こそが。

 上映時間が近付くと、どこからともなく他の観客が現れて疎らに席を埋めていく。繁華街の若者たちのような騒がしい洒落た者はおらず、垢抜けないが落ち着いた年配の人々が多い。若い女性などは一人もいない。千春が通い始めた頃は遠巻きに物珍しげな視線を投げてくる程度だったが、半年経つうちに少しずつ言葉を交わすようになり、今では毎日ではないが、その日観た映画について語るようになっている。放課後の上映時間後、外は夏でも暗いので、そう長々と話してはいられないけれど。

 これが映画鑑賞を趣味と自称する千春の、週に一度の恒例行事である。

 夜道の不安も便の悪さも乗り越えてここを気に入っているのは、ロビン・フェローのためだと言っても過言ではない。

 初めて彼の作品に出会ってから二年半。遠い大都会では独特な味を持つファンタジー映画監督としてコアなファンを獲得しているらしいが、ショッピングセンターが娯楽施設に入るような地方都市ではそんな盛り上がりは期待できるはずもなく、足を延ばせる範囲ではこの小さな劇場でしか上映していない。

 ここでは他にも、千春好みの幻想的で不可思議で、ときに理不尽でホラー要素もあるような作品を公開している。多くが余所では知られていない、或いは自主制作の空気漂うマイナーな洋画である。吹き替えはまず無く、一部は字幕すらない。

 それが恐らく劇場主の拘りであり趣味であり、常連たちが年経ても通う理由なのだろう。


「千春ちゃんは今日もロビンがお目当てかい?」

 開演前のロビーに珍しく人がいると、大抵こんな言葉を掛けられる。万年閉店中の売店前で話し込んでいるのは顔馴染みの初老の男二人で、小洒落た劇場よりも赤提灯が似合いそうな顔でにこにこと笑っている。

「そりゃあね、千春ちゃんはここではいっとうのロビン贔屓だもの」

 千春が返事をする前に、尋ねた方とは違うもう一人が茶々を入れた。

「封切りすると一番に観に来るし、楽日までは他の時よりよく来るからね」

「ああそうだ。再上映も全部チェックしてるものな」

「もう、お二人とも、そういうところばっか見てるんですから」

 初めの頃はこんな会話にいちいち赤くなっていたものだが、今ではあしらいも慣れたものである。千春の『ロビン贔屓』はここの仲間内ではもはや常識だ。

「まあでも、千春ちゃんみたいに若い子が来てくれると、ここにも華がある感じがするよ」

「俺らじゃ枯れ木も山の賑わいってことになっちまうからね」

「そんなこと無いですよ。皆さんがいるから私も怖がらずにここに来れるんですから」

「確かに誰もいなかったらお化けくらいしか出るもんが無いだろうなあ、ここは」

「いや、誰もいなくたって、ロビンがやってりゃ千春ちゃんは来るだろな。賭けてもいい」

「そんなあ」

 大袈裟に肩を落とす真似をした少女に、初老の男たちはけらけらと笑い合う。

「けどね、やっぱり若い子一人じゃつまらなくなっちまうんじゃないかと思ったりもするんだよ。お友達なんかは、ここに連れて来ないのかい?」

「おいおい、こういうところに興味のある子はなかなかおらんぞ? 千春ちゃんが来てくれるだけで御の字だろうに」

「ああ、やっぱそういうもんかね」

「うーん、それもありますけど」

 勝手に頷き合う二人を気遣いながら、千春は言葉を選んだ。

「私こういうとこは静かに楽しみたいかな、って思ってて。ほら、私たちくらいの年の子がいっぱい来ると、煩くなっちゃいますし」

「そりゃあそうなんだろうけどね。過疎ってくばっかりじゃここも遠からず閉まっちまうんじゃないかと思うとな」

「だねえ。昔はここも賑やかで……ああ、いや、偲べる栄華が欠片も無いってのも寂しいもんだ」

「ここはこの雰囲気も含めて良いところですから、そんなこと仰らないで下さいよ」

 急に醸し出された老人の悲哀めいた空気を慌てて振り払う。

 ひとしきり万年過疎の小劇場の数十年の歴史を嘆いた後、二人の大人はホールに消えていった。

 その後を追い、今日も千春は一人でスクリーンを仰ぐ。

 流れているのはロビン・フェローの再放映。初期作の『Candy Cane』だ。

 お菓子の国に迷い込んだ姉弟と友人たちが、案内役を自称する白ウサギに翻弄されながら異変を正す、メルヘンな冒険映画である。

 初めて観た『Moon Jelly』のような透明感のある話もあるが、こういった改訂前の古い童話のようなナンセンスさも彼の持ち味だ。いや、作風としてはこちらがメインだろう。

 ごく若い頃の作品だからというのもあるだろうが、小狡く立ち回るウサギの台詞や社会を皮肉ったような描写の数々は、斜に構え尖った作り手の棘をひしひしと感じさせる。ロビン巡りをした後に『Moon Jelly』を見れば水のような透明感に紛れた翳りを強く感じられるし、光と影の表現を主とする映像的な手法は共通していて、印象深く記憶に刻まれる。

 そしてロビン・フェローのもう一つの持ち味は、現実と非現実の融合だ。彼の作品中では扉を開ければ、階段を下りれば、そこは自然と異界に繋がっている。『Moon Jelly』ならそれは廃墟になった水族館の崩れかけた壁一枚だし、『Candy Cane』で言えば移動遊園地の奥にあるバルーンキャッスルの滑り台だ。それは行けば必ず開いている入口ではないものの、一度繋がればその境界はどんどん曖昧になり、主人公たちの日常を呑み込んでいく。

 このところ千春は、今送っている日常が全て映画の中なのではないかと思うことがある。

 何も起こらない、何かが起こる前の、例えば主人公がやってくる前の、セットのような舞台。主人公がやってくれば瞬く間に異界への扉が開き、誰もが驚きあっと言うような事件や冒険やロマンスが巻き起こって物語を動かしていく。今はそうなる前の準備段階。

 そんな大仕掛けの歯車の一部になってしまったような気分だ。感情も行動も、きっと全て脚本通りに動いているだけ。けれどひとたび主人公が現れれば、その活躍をリアルタイムで追いかけることが出来るのだ。

 映画の主人公たちはいつでも、迷いはあっても勇敢で、落ち込むことはあっても最後の最後は前向きで、そして綺麗で強くて格好良い、銀幕に輝く永遠のスターだ。平凡な田舎都市であるこの町にも、小さくて野暮ったくて地味な女子中学生である千春にも、物語の舞台として、味のある脇役として、きっと素敵なライトを浴びさせてくれる。

 だけど実際はそんなことなど起きない。

 夢見がちな少女の妄想だと、本当は分かっている。

 日常は日常のまま、何の事件も起きずに冒険もロマンスも始まらない。舞台装置は錆びついて、いずれ古くなって取り壊されるまでそのまんま。町は主人公不在の映画のように、いつまでも同じ日々が続いていく。きっとそう決まっている。映画の中の出来事は映画だからこそ起こるのだ。

 スクリーンに映る世界はこんなにも面白いのに、その欠片すらこの町には降って来ない。

 スタッフロールもとうに終わって誰もいなくなったホールを出、電気を半分落とされたロビーを通って階段を上ると、ひんやりとした夜気が頬を包んだ。春先、日没後の風はまだ肌寒い。

 白い息を吐きながら見上げた空には、鈍く星が光っている。

(本当に、何か起こったら素敵なのに)

 夢を夢として完璧に押し込められるほど、千春は大人になり切れていない。


 間もなく春が来て、少女は装いも新たに高校へと進学する。

 とは言っても高校生活というものは、中学の頃とあまり変わり映えがしない。新しい生活は千春が期待していたようなものでは無かった。地元の学校だから顔ぶれも通学経路もほぼ同じなせいだろうが、目新しいのは校舎と、少し増えたり名前を変えたりした授業内容程度。あとはバイトが出来るようになったので、金銭面の余裕を見込めるようになったことか。こちらは単純に嬉しいことだ。映画の料金も高大生料金になってしまうのが痛いけれど。

 千春の映画好きは中学時代の学友によってさりげなく広められた。すると同好の士が自然と千春に話しかけ、中学のときよりマニアックな話題で盛り上がるようになる。残念ながらその中にロビン・フェローを知っている者はいなかったし、少年少女たちのきゃらきゃらしたハイペースな会話に同じテンションで付いていくのは正直苦手だったけれど、今まで出来なかった同世代の若者との深い映画の語らいに耳を傾けながら相槌を打っているだけでも、とても充実した時間に思えた。

「矢野さんはどういうのが好きなんだっけ。オススメとかある?」

 彼らとの会話ではそう振られることも少なくない。その時は一般的ではないけれど好きな幻想映画を挙げていたが、ロビンの名は出さなかった。

 言えば興味を持たれ、見たいと言い出す者たちであるのは明白だったが、家庭用の映像媒体の露出はしない主義なのかテレビ放映もDVD化も無く、行ける範囲の上映館はあの小劇場だけという状況。それ故に、千春は口を噤んでいた。

 理由は二つ。

 一つは、中学生時代のあの日のことに起因する。紹介を楽しみにしていた友人の落胆顔と、彼女を裏切ってしまった罪悪感、そして次に誰かを連れてきたとき、今度こそ本当にここが廃墟になって二度と来られなくなってしまうのではないかという不安。

 人に話せばまた映画の観過ぎと笑われるのかも知れないが、分かっていても拭い切れない。

 夢は見る人の心を映し、見ている間はそれと気付かないものだから。

 もう一つは単純に、秘密の場所を大っぴらにしたくないからだ。理由としてはこちらの方が圧倒的に大きい。

 訪れるのはひっそりと本物の映画を楽しみたい格別の映画好きたち。秘密の花園は限られた人にしか門戸を開かない。普通の人は誰も知らず辿り着けない。そんな設定を信じられそうな、古びた小さな小さな劇場。

 実際、騒がしい日常から離れた秘密を持つことは特別感があった。ロビン・フェローの映画なら間違いなくあそこは異世界への入口になる。

(映画の世界にはいけなくても、もしどこかで特別な人が出来たら、私が案内人になって連れて行くんだ)

 そんな雲のようにふわふわとした予定だけを頭に浮かべ、千春は劇場に通い続ける。

 クラスメイトにも映画仲間にも、勿論親にも秘密の場所へ。

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