聖女が、慈しまれるまで
※あとがきにイメージイラストを追加しました
とある王国に、アリシアという誰もが見惚れるほど美しい聖女がいました。
清らかな白金の髪に、海のような碧眼。
白くほっそりした手を組んで祈りを捧げる様子は、天使様そのものだと言われていました。
アリシアはいつも大忙し。
争いがおきたと聞けば、民を諭すために遠くに馬車で出かけます。
神様に祈りを捧げるために、歌の練習を欠かしません。
豊穣の舞いも完璧に美しく踊ります。
優雅に立ち振る舞い、いつだって優しい笑顔と声を届けます。
これを、毎日毎日毎日毎日毎日。
ゆっくりと眠る暇なんてありません。
アリシアほどの素晴らしい聖女は、この世にひとりきりなのですから。
アリシアは疲れ切っていました。
(いつか、ひとりきりで静かに過ごすことが私の夢なの)
胸の内に、ささやかすぎる願いを秘めていました。
いえ、聖女がひとりきりになることなんて、強欲とも言えるほどの莫大な願いなのかもしれません。
アリシアは16歳になり、成人を迎えました。
たくさんの男性から求婚を受けます。
みんな、この時を心待ちにしていたのです。
アリシアは笑顔でいつものように対応しようとしました。
でも、美しい笑顔を浮かべるほどに、目の前で男性たちがお互いを牽制して喧嘩になるのです。
一見にこやかな男性も、腹の中には黒い願望が蠢いているのを、聖女の目で見ていました。
ついにアリシアは言いました。
「私がこの王国にいると、争いの火種となってしまいます。
聖女として、それは見過ごせません。
森林の中の塔で、ひとりきりで、神様にひたすら祈りを捧げさせてください」
聖女として、とまで言われると、信仰深い人々は頷くしかありませんでした。
こうしてようやく、アリシアは願いを叶えられたのです。
*
森林の塔で暮らし始めたアリシアは、幸せでした。
生を謳歌する鳥の声で目覚めて、きれいな森の水で顔を洗い、自分のために洗濯をします。
それから日中はひたすら神様にお祈りします。
もともと聖女になれるほど信仰深かったアリシアですから、祈り続けることは苦ではありませんでした。
民衆に届けるための大声ではなく、鳥のさえずりに似た小さな声で可憐に祈ります。
そして夜を迎えて、ぐっすりと眠りました。
朝になって目を開けると、世界がきらめいて見えるほど、この生活は素晴らしいものでした。
そうして、数ヶ月が過ぎました。
「たまには、歌を歌おうかしら」
アリシアの声が、風に乗って森に響きます。
すると、こんこん、と窓を叩く小さな音がしました。
まさか、こんなところまで登ってくる人間はいないでしょう。
アリシアが警戒しながら、おそるおそる窓を開けてみると、
「まあ、なあに……?」
ころりと果物が置かれています。
熟した桃でした。
あたりを見回すと、なんと塔の天井に小柄なドラゴンがとまっています。
「あなたが下さったの?」
ドラゴンは頷いてみせました。
アリシアはとても久しぶりに、誰かに対して、心からの微笑みを浮かべました。
(神様から力をいただく聖女となった私には、もう食事も必要ないのだけれど)
桃はアリシアの喉を甘く潤しました。
*
それから、アリシアとドラゴンの交流は続きました。
一日一回、ドラゴンが何かしらの果物を持ってきてくれるのです。
ある日は林檎、
ある日は梨、
ある日は鈴生りのさくらんぼ。
アリシアは自然の恵みを、神様とドラゴンに感謝して、すべて美味しくいただきました。
聖女が穏やかな気持ちで祈りを捧げるので、森林には以前にも増して多種多様な果物が実り、とても豊かになっていました。
「あなたに触れてもいいかしら」
ある日、アリシアは聞きました。
ドラゴンが頷いて、窓辺に降りてきます。
羽ばたきによる風が、アリシアの髪を揺らして、ドラゴンは眩しそうに目を細めました。
「あなたって大きかったのね」
アリシアの体をすっぽり翼で覆ってしまえるほどもあります。
アリシアは優しい手つきで、ドラゴンの頭を撫でました。
「冷たくていい気持ち。土色の鱗がとてもキレイ。あなたはきっと大地に愛されているのね」
ドラゴンが嬉しそうに喉を鳴らしました。
*
またある日、アリシアは鳥たちの喧騒で目覚めます。
いつもと違って、よくない予感がする朝でした。
遠くから、多くの人々が歩いてくる足音がします。
アリシアは塔の扉に鍵をして、一番高い部屋の窓から、下を見下ろしました。
なぜか、色とりどりの制服を着た軍隊が、アリシアを訪ねてきたようです。
「どうなさったの?」
尋ねると、
「聖女アリシア様、とつぜんの訪問をお許しください。
この森にドラゴンが住み着いたようなのです。
あなたのために、危険なドラゴンを討伐しにやってまいりました」
アリシアは目を丸くしました。
人々の黒い思惑が透けて見えます。
(ドラゴンを倒して、聖女様に気に入られて、結婚したい。
この森は驚くほど豊かになったので、自分たちの国も豊穣に恵まれるだろう)と……。
訪れたのはさまざまな国の王子たちで、それぞれ「自分のために」この森にやってきたようです。
アリシアが「ドラゴンは危険ではない」と説いても、まるで耳を貸しません。
「人の言葉を知らぬケダモノにまで、聖女様はご慈悲をかけていらっしゃる。
とても尊いことですが、だからこそそんなあなたを守りたい」
自分勝手に嘯きます。
言葉を持たないドラゴンのほうが、なんて誠実なのでしょうか。
アリシアは泣きたくなりました。
昼前になり、いつものようにドラゴンがやってきます。
みんな我先にと、弓矢を空に向けました。
驚いたドラゴンは、持っていた桃を落としてしまいました。
アリシアが涙を拭いて、神に祈りを捧げはじめます。
いままでで一番強く、清らかな声で、愛を込めて。
ーーすると、どうでしょう。
放たれた弓矢は、白い炎に焼かれてしまいました。
そしてドラゴンは光に包まれ、なんとも美しい若者に変身しました。
白金の衣を纏い、まるで神様のようです。
恐れおののいた人々は、頭を地にこすりつけてひれ伏しました。
「大切なものを守るときに、聖女の力は発揮されます。
このドラゴンは私の大切な存在なのです。
神様もお認めになりました。
なにも心配することはありません。
私はここで、この方とともに暮らしていきますので、立ち去ってください」
アリシアは若者を手招きします。
若者はすんなりと、アリシアの隣に降り立ちました。
背中に生えたドラゴンの翼で、そっとアリシアを包みます。
寄り添う二人は輝くように美しく、どのような人間も敵わないでしょう。
軍隊はしょんぼりと帰って行きました。
それぞれの国にこの時の話を持ち帰ったので、もう人々が森に踏み入ることはありません。
アリシアは隣を見上げて、微笑みます。
「あなたを人の姿に変えて、驚かせてしまってごめんなさい。
でも、ずっと求婚してくれていたでしょう?
私のことを考えて、一番美味しい熟した果物を届けてくれていたもの。
ドラゴンは求愛のために、宝物を捧げるのよね」
若者の目が柔らかく細められます。
「そう。君の歌声に魅せられて、姿に一目惚れして、やがて存在を愛したんだ。
今、とても幸せ。
一番美味しい果物は捧げたけれど、かけがえのない宝物が手に入ったから」
「まあ」
アリシアはうっとりするほど美しく微笑みました。
*
アリシアは森で幸せな日々を送ります。
ずっと、ずっと、生涯幸せでした。
「ひとりきりが一番だと思っていたけれど、想いやってくれるあなたが側にいてくれる今が最高に幸せよ」
若者と手をつなぐと、温かさにほっと表情を緩めます。
「たくさんの人に必要とされる昔よりも、ひとりぼっちよりも、愛する人との生活は素晴らしいものなのね。
きゃあっ」
ドラゴンの若者が、アリシアを抱きしめて頬ずりしました。
20年生きた彼はまだ子竜だったので、仕草がどうにも子どもらしいのでした。
アリシアは幸せです。
「純粋な愛情を表してくれるところが、とても好き。
だからあなたの名前は光の愛」
「真実の愛」
何度だって名前を呼び合います。
世界は二人を祝福して、そっと見守ってくれました。