独眼竜の末裔(すえ)
処刑に望んで、男は四通の遺書を立て続けにしたためた。
その筆に迷いはない。上海監獄特別刑事第二法庭においてである。ポツダム宣言受諾後の旧帝日本戦犯の死刑は、簡単な身元調査の確定後、監獄東の臨時刑場において即時、行われた。
昨晩午前一時、憲兵に引き連れられて、取り調べののち裁かれた男は椎の実型の形のいい禿頭、わずかに白髪残る好々爺で、草色の軍平服に、茶皮の靴を履き、日向のように穏やかな笑顔をあくまでも崩さなかった。
張宗援。狗肉将軍とまで蔑まれた張宗昌の義兄弟。宗昌の兄の名は、かの張作霖である。しかし清王朝崩壊後の満州に覇を唱えた張家の義兄弟、宗俊のそもそもの素性は渡満した大陸馬賊、実は純然たる日本の家柄であった。
男は和名を伊達順之助、その四百年前に群雄割拠の戦国の世で若干二十歳にして東北に百万石の大領の覇者となったかの独眼竜、仙台初代藩主、伊達藤次郎政宗の末裔である。
順之助の祖父は、幕末の賢候と名高き伊達宗城である。土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽と並ぶ開国派の急先鋒にして、国産第一の蒸気船を建造したと言われる四国は宇和島藩主である。
その三男、宗敦(岩手水沢藩主)の末っ子として順之助は産まれた。明治二十五年(一八九二年)一月六日のことだった。
順之助は六男、さらには姉が二人いると言う八児の末である。家柄の大きさに基づいて華族の子らしく、麻布は箪笥町の純然たる東京育ちである。本来なら名家の末として、家格に相応しい教養に恵まれた優雅な生涯を送れるはずの人物であった。
それが学習院、慶應義塾、立教、海城と名だたる旧制中学を放校になっている。遠祖独眼竜政宗さながらの苛烈な気質が原因であった。不良華族の子弟どころか、町の地やくざ、ごろつき少年たちすら目を背ける無鉄砲な気質が、順之助を正規の学歴から遠ざけたのだった。
(気づいたときにはただ、身体がぱッ、と動いてやがる)
獄中で順之助が来し方を振り返るときにも、そんなことで起こした事件がみな、人生の転機になっていたことをよく、思い出した。がらっぱちの江戸弁気質と自他ともに認める順之助は、生まれつき後先のことをとやかく議論したりしない性質の人間であった。
末路はいつも、殺人であった。放校生活の果ての十八歳の頃、順之助は隅田川でやくざものと揉め、その諍いに相手を射殺してしまった。このときも気がついたら、相手は死んでいたのであった。
順之助は生まれに救われた。名族伊達家から殺人者を出すことを恐れた実家は、名探偵、岩崎三郎を雇い、どうにかこうにか当義殺(正当防衛のこと)を成立させたのだ。こうして順之助はどうにか罪を逃れたが、軽はずみに友人や大切な人を射殺してしまうような事件は、その一生に晩年までついて回ることとなる。
(そんなおれもようやっと、撃ち留めってわけだ)
順之助は獄中、そらでうそぶいてはそこに存在しない拳銃の引き金を絞ってみせる。戦犯として死刑囚となってもなお、自分の人生の後先を考えぬ、無頼漢の性は健在であった。
本土で殺人を犯した順之助は、逃げるように大陸に渡った。日本を持て余した無頼漢には、それにふさわしい苛酷な政情がそこに拡がっていたのだ。
清王朝倒壊後の混乱に乗じ、大陸には様々な勢力が蔓延っていた。彼らの多くは元は王朝以来の軍人たちであり、彼らは自分たちの根拠地を守り独立して、軍閥を名乗った。
順之助はこのうち、満州の覇者となった張作霖率いる直隷派に取り入った。張宗援の中国名は、のちに戦時下総理大臣となる小磯国昭少佐の斡旋によって移した中国籍の名であった。
匪賊と言われる野盗団が蔓延る満州の曠野で、順之助は三十名前後の配下を引き連れ、暴れまわった。もっとも畏れられたのは、その拳銃の腕である。
騎馬で行動し、機動力を旨とした馬賊たちは、重火器を装備できなかった。ときにライフルすら、ふいの戦闘では邪魔であった。そこで珍重されたのが、拳銃である。現代の軍事用語でもサイドアームと定義される拳銃は、正規の軍人にとってはいわば急場しのぎの補助武器の扱いでしかなかったが、当時の馬賊にとっては必須の主要武器であった。
中でも順之助の拳銃の腕は、満州全土に鳴り響いていた。馬賊の撃ち方は投げ撃ちといい、騎馬で散開・突撃してくる相手に対して立て続けに弾丸を浴びせかける射撃術なのだが、順之助はその名手であった。
例えば当時の馬賊たちは好んでモーゼルを使い、大前門と言う中国名の通称をつけるほどに愛用していたが、これはライフル並みの装弾数と速射性を誇るモーゼルの機能性に頼ってのことと思われる。
しかし順之助は、主に小回りの利くコルトやブローニングを用いたと言われる。無駄撃ちが極端に少なかったのだ。順之助は酔うと余興に、人の頭にリンゴを乗ってけてそれを撃ち抜くと言う曲撃ちをよくやってみせたと言う。
気づけば順之助は全盛期には数千人を超える馬賊たちを束ねる、大頭目になっていた。彼らは何れも、清王朝崩壊後の中華民国から満蒙独立を志す、日本人と満州人、そしてモンゴル人からなる混成部隊であった。
(だがそいつに、けちがつき始めたのはいつだ)
順之助は、上海監獄の昏い天井を眺めつつぼんやりと考える。彼が率いていた馬賊たちと言うのは、いわば独立戦争を戦う革命義勇軍のはずだった。この男にとっては、義侠心に富む張作霖兄弟のような満州人やモンゴル人たちの方が、親しみやすい存在だった。しかし関東軍が満州を掌握しようと、強引な政策を推し進めたせいで、結局は日本人と言う風に順之助も、裏切り者の扱いに堕してしまったのである。
と言って、日本軍自体も順之助を重用したりはしなかった。先の小磯国昭や石原莞爾、寺内寿一と言った気脈を通じる軍人たちは組織内にいないこともなかった。しかし結局は縦社会のヒエラルキーの厳然とした帝国軍人からみれば、順之助はどこまでいっても、正規の軍人とは認められなかったのだ。
いわゆる私設の武力を擁した順之助を、関東軍は持て余した。華北駐屯軍に移されたのは今考えてみれば、完全なる左遷であった。その後、山東自治連軍の指揮をさせられたときは、多くの古くからの部下に見限られた。次々と赴任してくるエリート気取りの官僚軍人たちは、はっきりと現地の協力軍を見下していた。その親玉の順之助にしろ、彼らの目から見れば、自分たちの階級社会の中にいないいわば『よそ者』と蔑んでいたのだ。
「…小馬鹿くせぇべ」
いつしか順之助の監獄に夜ごと、見覚えのない鎧武者が現われるようになった。三日月の前立てを夜陰に煌めかせた、黒糸縅の鎧武者である。
武士は物々しい甲冑姿で床几に腰かけ、瓶子から大杯に酒を注いでは豪気に煽っていた。隻眼である。手酌で杯を呷りつつ、江戸育ちの順之助には聞き慣れぬ、東北弁の訥弁で、ぼそぼそと話しかけてくるのだが、ほとんど聴き取れなかった。
ある晩だ。
「お前は、なんのためさ戦った?」
そう言っているのが分かったとき思わず、順之助から失笑の息が漏れた。この伊達の大棟梁の訥弁を嗤ったのではない。言われてこれまで振り返りもしなかった自分の来し方を振り返っていた自分に、ふと失笑が漏れたのだ。
「さあ、なんのためだったかな、よく分かりません」
そのとき初めて、順之助は答えた。
「それよりおれにも一杯、注いでくれませんかね?」
気づくと異国の月明かりの中で、鎧武者は消えていた。そのときおぼろげながら、鎧武者は、心なしか唇を綻ばせたように見えた。
順之助の遺書『経歴』に謂う。
「伊達家は藤原鎌足に出づ、朝宗を初代とし、第十七代政宗を中祖とす、世々武人を以て東北地方に居城し該地方の重鎮たり。儒学及び禅学を以てその家風となす。余は朝宗第三十四代の直系にして明治二十五年生まれ」
さてなんのために戦ったか?
この問いかけは、そのまま、なんのために死ぬのか、と言う問いかけに通ずる。処刑のその日まで、後先を考えなかったこの男は、考えたに違いない。遺書に遠祖、伊達政宗からの経歴を認めたのも、ただの戦犯・張宗援としてここに果てることを潔くしない、想いの表れだったかに、筆者には思える。
「焼酎はありませんか」
遺書の他に、順之助は酒を望んだ。そこで刑吏は外で焼酎をひと瓶、購ってきた。
(ふん、やっぱりおれにはこの匂いだ)
順之助は杯に注がれた焼酎の香りを偲んで、大きく息をついた。
馬賊たちが好んで飲んだ焼酎は、高粱から作られる。いわゆる白酒と言われるものであり、色は無色透明、アルコール度数は四十四度もあると言う強烈なものだった。
臨時刑場での死に際の酒は、陽気なものだった。北面する処刑椅子に座り一杯、二杯、滞らずに酒を傾けながら、順之助は陽気な冗談を言って、見物人たちを笑わせた。
(そう言えばおれは、なんのために死ぬんだろう?)
懐かしい馬賊の酒の味が順之助に、ふとした記憶を思い起こさせた。
そう言えばあれは、昭和十一年(一九三六年)、河北省天津市の日本人租界での出来事だ。当時、亜細亜会館と言うキャバレークラブが順之助のお気に入りだったのだが、そこで例の余興をやってしまった。
女給の頭にリンゴを載せてこれを撃ち抜こう、と言うのだ。伊達はこの芸を何度も見せている。女給は喜んで乗ってきた。いざ順之助がその女給の頭の上のリンゴを撃ち抜こうとした時だ。
「伊達!何をやってるんだ!」
友人が突然、銃を持った腕に飛びついて取り押さえようとしてきたのだ。
即死であった。その刹那、暴発した弾丸はリンゴではなく、女給の頭を撃ち抜いていたのだ。
(思えばおれは、ただの悪党だったな)
後先を省みぬ順之助もあのときばかりは、後悔した。女給は無邪気に、憧れの順之助を信じたまま、殺されたのだ。
(ならいっそ、悪党として死ぬのが筋か)
順之助は処刑椅子に座ったまま、集まった観衆を見渡した。この中にも恐らく、順之助率いる満州人部隊や馬賊に、肉親を殺されたものもいるだろう。それならばその恨みを最期まで引き受けて、憎まれて死ぬのが、筋と言うものではないか。
(決めた)
ふと順之助の目に、三日月兜の武者姿が留まった気がした。顔貌に見覚えがある。独房で見た独眼竜である。政宗はぐいと大杯を傾け、床几の上から、干した杯をこちらへ差し伸べてきたように思えた。
ぎょっとして順之助は二度まで見直したが、そこにはやはりそんな人物はいなかった。
(やっぱり、おれはおれでしたよ。ようく見ていてくださいよ)
いよいよ処刑のときが迫った。
焼酎を干した順之助は、高らかに笑った。声を限りの哄笑であった。悪党の死にざまに相応しい、そんな死に方をするのだ。それが順之助最期の想いだった。思えば、死に方を択べなかったものばかり見送ってきた。野辺に独り、遺体を晒して骨になった同志ばかりだ。刑場で遺体を引き取ってもらえる自分は幸せ者じゃないか。
刑吏・徐希賢は、その哄笑がやまぬうち、死刑を執行したと言う。昭和二十三年(一九四八年)九月九日午前十二時十分、中国では重陽節の祝いのさなかであった。その夕刻の号外が第一報だった。
『上海中央日報』謂う。
「弾丸は後頭部から入り、左面部を貫通した」
独眼竜の末裔は、後ろからその片目を撃ち抜かれ、五十六年の波瀾の生涯を閉じたのだった。
【参考文献】
本編執筆にあたって以下の資料を参考にいたしました。
『馬賊 日中戦争史の側面』(渡辺龍策著、一九六四年、中公新書)
『馬賊頭目列伝』(渡辺龍策著、一九八七年、徳間文庫)
『昭和史発掘2』(松本清張著、一九七八年、文春文庫)
『馬賊で見る「満州」』(澁谷由里著、二○○四年、講談社)