悪女と猿の手
麗らかな春の日差しが、ロンドン郊外の瀟洒なオースティン邸を包む、とある午後。
主の一人娘であるローズが、自室に招いた従姉妹に向って突然、声をひそめて訊ねた。
「ねえ、ダイアナ。ジェイコブズの『猿の手』っていう小説は知ってる?」
ローズと同じ十六歳で、良く似たブロンドの少女が、彼女の芝居がかった声音に笑いをこらえながらも、すらすらと答える。
「ええ。持ち主の願いを三つ叶えてくれるっていう、干乾びた猿の手の話でしょう? それがどうかしたの?」
「もし、本物がここにあるとしたら、あなたは何をお願いする?」
「私なら絶対に願い事なんてしないわ! だってあのミイラは、持ち主の望みを叶える代わりに、大切な物を奪ってゆくのよ」
怖がりのダイアナが、澄んだ空色の瞳を瞑ると、軽く身震いしながら返事をした。
『猿の手』は、有名な怪奇小説だ。
老いたホワイト夫妻が、知人から貰ったこのミイラの魔力を試そうと、家のローンを完済する為の二百ポンドが欲しいと頼む。
翌日に彼等の願いは叶った。だが手に入れた二百ポンドというのは、息子が勤務先の工場で機械に挟まれ、服でしか身元が判別出来ない程に無惨な姿で事故死したことに対する、会社からの見舞い金だった。
そして、二マイルほど離れた墓地に息子が埋葬されてから、一週間後の夜。我が子を諦めきれない夫妻は、自然の摂理に反すると知りながらも、「息子を生き返らせて欲しい」と再び猿の手に頼んでしまう。
しばらくの後に夫妻は、家のドアを何者かが激しくノックする音に気付くのだが……。
「あの話の最後は、ぞくぞくするわよね。息子が帰って来たと思ってドアを開けようとするホワイト夫人と、無惨な姿のゾンビになって帰って来た息子を想像して、『入れちゃいけない!』って必死に妻を止める夫……」
「やめてよ、もう! 今晩眠れなくなっちゃうわ!」
興奮で白磁の頬を紅潮させている悪趣味な従姉妹を、ダイアナが睨む。
けれどもローズは、彼女の反応などお構いなしに続けた。
「結局、最後は夫人がドアを開ける寸前に、ホワイト氏が三つ目の願いを唱えたのよね。だから彼女がドアを開けた時、外には誰もいなかったのだけれど、あの時来ていたのは本当にゾンビ化した息子だったのかしら。それとも……」
「やめてって言ったのに! まったく、何でいきなり猿の手の話なんて始めたのよ」
「だって、お父様がこの前、本物の『猿の手』を手に入れたんですもの!」
みんなには絶対に内緒よ。ローズが小声でそう言いながら、後ろ手に隠し持っていた包みを開けると、中から枯れ木のようなミイラの手を取り出して見せた。
かろうじて悲鳴を飲み込んだダイアナが、恐る恐る小さな曲った手を覗き込む。
「これ、本当に本物なの……?!」
「本物だっていうお墨付きだそうよ。見たところ、これは右手よね。お父様から、どこかに左手もあるって聞いたわ。右手はあの女が父親から譲り受けて持っていたのを、心配したお父様が預かったんですって」
父の恋人であるイザベラを、侮蔑を込めて『あの女』と呼ぶ従姉妹に、怖さも忘れたダイアナが、窘めるように言う。
「イザベラさんは、れっきとしたイギリス貴族のご出身よ。異国の血は混じっていらっしゃるようだれけど、その呼び方はないわ」
「元貴族といっても、落ちぶれたイザベラは、お父様に引き取られた時には屋敷すら持っていなかったのよ! しかも借金の形に、娼館へ売り飛ばされる寸前だったんだから!」
「お気の毒なかたよね」
「お気の毒なのはお父様のほうだわ! いくら知人の娘だったからって、有名な悪女の後見をする破目に陥ったのだもの。お人好しのお父様ったら、タウンハウスまでイザベラに貸し与えているのよ。オースティン家は裕福なジェントリーだから、さぞかしいいカモだと思われてるに違いないわ!」
ローズの母は、彼女を産んですぐに他界している。だから彼女はイザベラが現れるまではずっと、父の愛情を独占して来た。
父親の恋人に対して小姑根性丸出しの彼女に、呆れたダイアナが反論する。
「彼女が純粋にお金目当てだというのなら、賛成は出来ないわ。だって彼女、伯父様にぞっこんに見えるもの。しかも、イザベラさんは若くてエキゾチックな黒髪美人よ。伯父様だって、彼女が可愛くて仕方がないといったご様子じゃなくて? それに彼女、伯父様とのご結婚だって、あなたが将来嫁ぐまで待つと、親切にも約束して下さったのでしょう?」
「もう、本当に二人とも、何であの女の本性が見抜けないのかしら! この間なんてイザベラは、私のシリウスの顔に、わざと香水の瓶の中身をぶちまけたっていうのに!」
「シリウスって、あなたの大切なアフガンハウンドの猟犬じゃない! 彼女がそんなことを? ちょっと信じられないわ」
「本当よ! この目で見ていたんだもの!お父様は人が良過ぎて、私が何を訴えても全然相手にして下さらないけど、あんな悪女との結婚なんて、絶対に阻止して見せるわ!」
翡翠の瞳に闘志を漲らせてそう宣言する従姉妹をよそに、ダイアナがぼそりと呟いた。
「悪女、ね……。傷付くのが怖くて周囲に悪女として振る舞う人と、一見淑女なのに、悪気すらなく恐ろしい事が出来る人って、どちらが本物の悪女なのかしらね…………」
「何よそれ、誰の話?」
「何でもないわ。それよりあなた、イザベラさんと伯父様の結婚を、猿の手を使って止めようだなんて考えてはいないわよね?」
一瞬、ぎくりと視線を泳がせたローズだったが、すぐに開き直って堂々と答えた。
「別に私はイザベラに死んで欲しいと願うわけじゃないもの。単に結婚しないでとか、お父様に近付かないでって願う位なら、大した災いにはならないわよ」
「ローズ!」
「大丈夫よ。この猿の手だって、本物かどうかは怪しいし」
そんな従姉妹の面を探るように見つめながら、真顔でダイアナが懇願した。
「お願いだから、馬鹿なことは考えないで! 魔術や呪いに関われば、ろくな結果にならないわ」
「ダイアナったら、心配しすぎよ」
「忘れないで、ローズ。呪いが人を幸せにすることは、決してないのよ」
その後、何度もそう念を押しながら。優しい従姉妹は不安げな顔で帰って行った。
ダイアナを乗せた馬車を見送った後。自室に戻ったローズは、またしても例の猿の手を包みから取り出して眺めていた。
(今頃お父様はきっと、イザベラと楽しくデートの最中ね)
父は今日彼女と、タウンハウスの近くにあるリージェントパークに出掛けている。
あそこはローズにとっても思い出の場所だ。父は昔からよく、公園内にあるロンドン動物園に、ローズを連れて行ってくれた。
その大切な場所で今、イザベラが我が物顔で父と歩き回っている――――。
(お父様ったら、よりによってあそこにイザベラと出かけるだなんて!)
他に幾らでもいい場所はあるというのに。
それとも、あそこがローズ達の想い出の場所だと知ったイザベラが、彼女も連れて行って欲しいとでも言い出したのだろうか。
(そうだわ、きっと! あの女……!)
猿の手を握る手に、自然と力が籠っていた。
「……イザベラなんて、動物園のワニにでも食べられてしまえばいいんだわ!」
吐き出すようにそう独り言を呟いた直後。
彼女の手の中で、猿の手がくねくねと動いたような気がした。
「ひっ……!」
驚いて手を離すと、足元の絨毯にミイラが転がった。微動だにしないそれをしばし凝視してから、恐る恐る布越しにつまみ上げる。
(気のせいよ。別に私は、猿の手に対してお願いしたわけじゃないんだもの)
そう自分に言い聞かせながらも、言い知れぬ不安がじわじわと胸に広がって行く。
ローズはすぐさま干乾びた手を包みに戻すと、まるで迫り来る呪いから逃れようとするかの如くに、早足で父の書斎へとそれを戻しに向った。
*******
悲報を告げる使者は、その日の夜にやって来た。
「何ですって?! お父様とイザベラが亡くなった……?!」
「はい。動物園の檻から逃げ出した大型のワニに、恐らくはお二人とも……。衣装の切れ端から判断して、間違いないと思われます」
この日は他にも複数の犠牲者が出たという。
使者が去り、使用人が退出した後も、ローズは青い顔のまま、若草色のドレスを握りしめて広間に立ち尽くしていた。
(まさか……お父様は私のせいで……?!)
そんな筈はない。なぜなら自分は、猿の手に願い事をした覚えなど無いのだから。
彼女が何度も己にそう言い聞かせていた時。
突然、誰かがオースティン邸にやって来た。
執事を押しのけ、蒼白な顔で広間へ入って来た客人を見て、驚いた彼女が息を呑む。
「イザベラ……! 生きていたのね!」
だが、エレガントな虎珀色の外出着は裾が引き裂かれ、随所に赤黒い染みが付いていた。
ローズの姿を見た途端。イザベラが、何故か明らかな安堵の表情を見せて、足を止める。
けれども、直ぐに悲痛な顔になると呟いた。
「やっぱり猿の手は、一番大切な物を代償に選ぶのだわ……」
駆け寄ったローズが、大声で彼女に訊ねる。
「お父様は?! ご無事なの?!」
イザベラが、苦しげに首を横に振った。
「そんな……!」
めまいを起こしたローズが、近くのソファーに崩れ落ちた。イザベラがぽつりと告げる。
「マシューは、公園でワニに襲われた私を助けようと庇って……捕まってしまったの」
「どうして……?! どうしてお父様じゃなくてあなたが助かったのよ!」
憎しみも露わにローズが詰る。暫く無言でそれに耐えた後、彼女が淡々と言葉を返した。
「そうね、あなたは私がいなくなればいいと、ずっと思っていたものね……以前も私に、あの大きな猟犬をけしかけたくらいですもの」
「あなたなんて、大っ嫌いよ! どうしてあなたみたいな悪女が生き残って、お父様が亡くならなければならないの?!」
「それは私がワニに襲われた時、とっさに助けてと猿の手に願ってしまったから……」
「え……?」
「こんな物、大事にとっておかずに捨ててしまえば良かったんだわ。しかも、襲われた時に落としてしまったせいで、肝心な時にマシューを助けてと頼めすらしなかった……」
暗然として語る彼女が手にしていたのは。
例の猿の手に似た、左手のミイラだった。
「猿の左手……! あなたが持っていたのね?!」
「そうよ。マシューには内緒で。でもこの手は、望みを叶える代わりに、一番大事な物を奪ってゆく……。今日も願う前に気付くべきだったのよ。私には本当に大切な人は、もうマシューしか残されていなかったのに」
彼女が沈痛な表情でそう歎く一方。ローズは、己が猿の手を使ったことが父の直接の死因でなかったと知り、胸を撫で下ろしていた。
(イザベラがワニに襲われたのは、きっと偶然よ)とローズは自分に言い聞かせる。
そうでなければ、この悲劇の発端は、他でもない彼女自身にあることになってしまう。
ローズの傍らで、その胸中を知らないイザベラが、独り虚空に向って語りかけていた。
「可哀そうなマシュー。でも大丈夫よ。直ぐに私が呼び戻してあげるから」
猿の左手を掲げると、ふいに彼女が唱えた。
「猿の手よ、私のマシューを返して頂戴!」
驚いたローズが、反射的に彼女を見上げる。
猿の手が、またしても身をくねらせたような錯覚を覚えた。
「やめて! お父様の遺体は、逃亡中のワニの胃の中にあるんでしょう?! もしも小説のように無惨な姿で戻って来たら……!」
「小説でも夫妻の息子は、ゾンビになって戻ってなどいないわ。あの話に実際の超常現象は出て来ないの。息子が死んだという決定的な証拠は、結局一度も出て来なかったのよ」
「でも、悲惨な死体と彼の服があったわ」
「遺体は息子と判別出来ないほど損傷していたのだもの。何らかの理由で、他の誰かが息子の服を着ていただけかも知れないわ。私も実際にマシューの最期を見てはいないから、一時は猿の手の犠牲になったのは、あなたのほうかと疑ったくらいよ。でも……」
続けて何かを言いかけたイザベラが、急に思い出したように顔を上げると、身を翻した。
「こうしてはいられないわ。ここは動物園から遠過ぎるもの、早くタウンハウスに戻ってマシューの帰りを待たないと」
「私も行くわ! 少しだけ待って頂戴!」
父の書斎から再び猿の手を持ち出すと、そっと手提げの中に忍び込ませる。
そしてローズはイザベラが待たせていた馬車に乗って、セントラルロンドンへと急いだ。
*******
二人がヴィクトリア調のタウンハウスに着いたのは、夜も更けてからだった。
主の衝撃的な訃報に憔悴し切った老執事のセドリックが、泣き腫らした目で迎え出る。
主人を盲愛していた彼がお悔やみを言うと、マシューがまだ戻っていないと知ったイザベルは落胆し、ローズは安堵の息を漏らした。
使用人達を休むようにと下がらせると、二人はそのままホールに残って待機する。
暖かなミルクテイーで一息ついた後。ローズがおもむろに口を開いた。
「やっぱり、猿の手でお父様を生き返らせるのには反対だわ。私はどうしても、小説で帰って来た息子はゾンビだったと思うもの」
だがイザベラは、頑として譲らない。
「仮にマシューが二目と見られない姿になっていたとしても、構わないわ。それであの人が私の許へ戻って来てくれるのなら」
「私は、お父様が腐乱死体で戻って来るなんて嫌だわ。お父様だってきっと嫌がるわよ」
「じゃあ、ゾンビでなければ、たとえマシューが嫌がっても生き返らせていいのね?」
意地悪く返した彼女が、さらに毒を吐く。
「私とあなたはきっと似ているんだわ。二人共、自分勝手で冷酷で、独占欲が強い悪女」
かっとなったローズが、声を荒げた。
「私をあなたと一緒にしないで!」
「図星でしょう? だからこそあなたも私も、そんな女ですら心から慈しんでくれる、善良なマシューに魅かれるんだわ。……この私に本気で『ピュア(無垢な)・ベッラ(美女)』なんて呼び名をつけるのは、きっと世界中であの人しかいないでしょうね」
父はいつも彼女を、『ベラ』と愛称で呼んでいた。あの呼び名は多分、『ベラ』とイタリア語の『ベッラ(美女)』を掛けたのだろう。
半ば自嘲気味に、泣き出しそうに顔を歪めながら、亡き恋人の想い出を語るイザベラ。
演技ではないし、一見、清らかな姿ではあるが、ローズは彼女の純粋さを目の当たりにしつつも、言い知れぬ違和感を覚えていた。
何かが、どうしても腑に落ちないのだ。
その正体を突き止めようと足掻くローズの傍らで、ふいに呼び鈴が鳴った。
二人が同時に正面のドアを振り返る。
「きっと、マシューだわ!」
走り出そうとするイザベラの腕を、ローズが掴んだ。
「待って! やっぱりこんなのは嫌!」
「離して! 嫌なら部屋で待っていて頂戴!」
縋りつくローズを乱暴に振り払うと、ドアへと駆け寄った彼女が、閂に手を伸ばす。
床に倒れて為す術もないローズの眼前で、ふいに手提げから、猿の右手が転がり出た。
咄嗟にそれを掴むと、ローズは叫んでいた。
「お父様を元に戻して!」
「マシュー! ああ、愛しいあなた!」
イザベラが歓喜の笑みとともに、勢い良く同時にドアを開ける。
けれども、扉の外に待ち人は居なかった。
ゆっくりとこちらに向き直った彼女が、冷たく、硬質な声音でローズに問い質す。
「あなた……さっき、何と言ったの……?」
「な、何も言ってないわ」
「嘘よ! ちゃんと聞こえていたわ! ……その手提げの中に隠した物は何?!」
「知らないわ……あっ!」
目にも止まらぬ速さで彼女は、ビーズと刺繍で彩られた手提げをひったくると、中から猿の手を取り出した。
「これ、マシューに預けた右手じゃない! やっぱり、勝手に持ち出して来ていたのね!」
「返して!」
素早くミイラを奪い返すと、ローズはすかさず彼女から距離をとった。
一歩でも近づけば脱兎の勢いで逃げ出しそうなローズを睨みながら、彼女がきつく言う。
「あなたと違って、私にはもう失う物がないの。でも、あなたは二度と使っては駄目。猿の手よ、私のマシューを返して頂戴!」
「猿の手、イザベラの願いを取り消して!」
オースティン邸に似た、吹き抜けの優美な階段の上で、フランス製の豪華なシャンデリアが二つ、眩いまでに広間を照らしている。
その背後となる階上の角から、時々不審な影が見え隠れしていたが、ローズは無視した。
夜風の音だけが聞こえる、静かな広間の入り口で。彼女達は暫くの間無言のまま、身動きもせずに外の物音に耳を澄ませていた。
呼び鈴は、あれから一度も鳴ってはいない。
イザベラが、猿の左手を握りしめて睨む。
「残された願い事は、あと一つずつね。それとも、これもまた無駄にする気なの?」
ローズが急に、あからさまに狼狽した。
あのワニの件を数え入れたならば、彼女は既に三つの願いを使い果たしたことになる。
つまり、今度イザベラが父を呼び戻そうとすれば、それを止めることは不可能なのだ。
彼女にも本当は判っていた。ワニがイザベラを襲ったのは、偶然などではないと。
(どうしよう……。でも、私のお父様をイザベラの好きになんかさせないわ!)
けれども、名案は一向に浮かんではこない。
必死に頭を捻る彼女の視線がふと、イザベラが手にしている猿の左手に止まった。
(そうだわ、あれを手に入れれば、あと三つも願いを叶えることが出来るじゃない!)
だがそれも、もしイザベラが猿の右手を手に入れれば、条件は同じになってしまう。今のままではどうあっても相手のほうが、一つ分多く望みを実現出来るのだ。
「じゃあ、また願い事をするわよ。猿……」
「やめてえええええ――っ!」
ローズが突然、絶叫してイザベラを止めた。
呆気にとられた妖婦が、訝しげに訊ねる。
「もしかしてあなた……もう三つとも願いを頼んでしまったのではなくて?」
違うと言おうとしたが、声にならなかった。
ローズが後ろめたい顔になり、つい彼女から視線を逸らしてしまった時。
イザベラの表情が凍りついた。
「まさかだけれど……あのワニの事件は、あなたが猿の右手を使って引き起こしたのではないでしょうね?」
「ち、違うわ! 私はただ独り言を呟いただけよ! 別に猿の手に向って、殺して欲しいと願ったわけじゃないもの!」
弁解したつもりだったが、これでは白状したも同然だった。
「そう……やっぱり、あなたは私の死を願ったのね。それなのに私ったら、猿の手に助けてと頼んでしまった後、青い顔をして急いでオースティン邸まであなたの無事を確かめに行っただなんて。マシューのお人好しがうつってしまったのかしらね、傑作だわ!」
「私の無事を確かめに来た……?!」
そういえば、あの時。血相を変えて邸に入って来た彼女は、ローズの顔を見た途端、明らかに安堵の表情を浮かべていた。
「そうよ。例えこんな小姑でも、私のせいで死なせて、マシューを悲しませる訳にはいかないものね。けれども猿の手は、やっぱり持ち主の一番(、、)大切(、、)な(、)物を奪うの。だから、結局は私の考え違いだったと後で気付いたわ…………しょせん私は悪女だともね」
しょせん彼女は悪女――先程からの違和感の正体に、ようやくローズは思い当たった。
イザベラの愛しい人は永眠した。だから、天涯孤独で親友もいない彼女の、次に『大切な物』は、間接的ではあるが、理論上では彼の掌中の珠だったローズだということになる。
だが聖女の如く父を偲んでいた彼女は、もう二度も、彼を戻してと猿の手に願っていた。
その為に殺されるのは誰かを、承知の上で。
改めて彼女のことを恐ろしいと思ったローズに、イザベラがさばさばした顔で告白する。
「あなたが犯人だったと知って良かったわ。これでもう万が一あなたが猿の手の犠牲になっても、罪悪感を抱かなくて済むものね」
「あなたって、本当に悪魔みたいな女ね!」
「あら、あなたこそ、猟犬をけしかけたり、ワニで殺しかけたことについて、一言でも私に謝ったかしら? 自分が結果的に父親を死なせたことに関しても、あなたの願い事のせいで他の誰かが犠牲になることに対しても、大して罪悪感を覚えているようには見えないけれど?」
「あ、あなたなんかに何が解るのよ!」
痛い所を突かれたローズが、つい叫んだ時。
ふいに吹き抜けの天井付近で、何かが不自然な音を立てた。
振り仰ぐと、急に半減した灯りに照らされた執事のセドリックが、道具を片手に階上から冷たい瞳で二人を見下ろしている。
そして彼の斜め下には、残酷な煌めきを放ちながら真直ぐに頭上へと落ちて来る、特大のシャンデリア――――。
「――っ!」
ローズが、声にならない悲鳴を上げた刹那。
恐怖に凍りついてしまった彼女を、イザベラが叫び声と共に勢い良く突き飛ばした。
落下音が耳を劈き、床に倒れ込んだローズの体に、ガラスの破片が襲って来る。
全ては、一瞬のうちに終わっていた。
呻き声を上げながら半身を起こして振り返った、ローズの瞳に焼き付けられたのは。
床に落下したシャンデリアと、その下でうつ伏せに倒れたまま動かないイザベラ。そして上品なグレーのペルシャ絨毯に音も無く広がってゆく、真紅の染み――――。
執事の姿は、いつの間にか消えていた。
瀕死の彼女の傍らで、呆然と座り込んだままのローズが、掠れた声を絞り出した。
「何で……どうして私を庇ったのよ!」
自分の眼前で人が死んでゆくのは、もちろん衝撃だ。だが、今はそれを遥かに凌駕する強烈な疑問が、彼女の頭に反響していた。
――――一体、なぜ。
イザベラの願い事は、ローズよりも一つ多く残されていた。これが何を意味するのか、解らない毒婦ではない。
しかも、父を生き返らせた後、その代償として邪魔なローズが消えてくれるのならば、彼女にとっては一石二鳥に違いなかったのに。
『ローズを助けて!』
突き飛ばされる直前に聞こえたのは、猿の手に三つ目の願いを頼む、彼女の叫びだった。
あれに頼めば結局、ローズの命は犠牲になる筈だ。それなのに、彼女はなぜ……?
「どうして……?!」
蒼白な顔でそう繰り返すローズに、苦しげに顔を歪めたイザベラが喘いだ。
「私は悪女だから……あの人の次に本当に大事なのは……きっと私自身だと気付いた……でも、猿の手が間に合わなかったら嫌……」
「お父様の次に大事なのは、あなた自身だと気付いた? だからどうだと……」
はっとしたローズが、途中で言葉を止めた。
((しょせん私は悪女だものね))
イザベラの自嘲が、鮮明に記憶に浮かぶ。
(もしかすると私は、これまであの言葉の意味を勘違いしていた……?!)
以前、イザベラはオースティン邸で、『やっぱり猿の手は、一番大切な物を代償に選ぶのだわ』と言っていた。そしてさっきは、父の次に大事なのは、自分自身だと気付いたとも。
もしや彼女は、例えイザベラの願い通りに父が帰って来ても、代わりに猿の手が奪ってゆくのは、実はローズではなくて、彼女自身の命だと『気付いた』のではないだろうか。
――――本来悪女は自分が一番大切な筈だから。
だとしたら、彼女はそれ以来ずっと、猿の手を使う代償に奪われるのは、ローズではなく己の命だと思っていたことになる。
『でも、猿の手が間に合わなかったら嫌』とも彼女は言った。ならば、願いを唱えた上で更にローズを助けた理由は、まさか――。
(万が一、私を助けてという願いを叶えるのが、間に合わなかった時の為……?!)
そんな馬鹿な。ローズは愕然として、この考えを一蹴しようとした。この女はいつだって、呆れるほど性悪だったではないか、と。
(でも――――)
ふいに、わざわざ夜分にオースティン邸まで、己の傷の手当てもせずにローズの無事を確認しに来た、イザベラの顔が浮かんで来る。
あの時の安堵の表情は、演技ではなかった。
「これでようやく……胸を張って……マシュー……あなたと一緒に…………」
イザベラが、どこか遠くを見つめながら、微かな笑みを浮かべている。
そして、そのまま静かに目をとじると。彼女は安らかな顔で、息を引き取った。
騒ぎに目を覚ました使用人達が、広間に集まる中。ローズは無言で立ち上がると、床に転がっていた猿の左手を拾い上げた。
イザベラは確かに嫌な女だった。その印象はきっと一生変わらない。けれども……。
生前、父がよく苦笑していたのを思い出す。
((ピュア・ベッラ、どうして君はこう、悪女の振りをしたがるんだろうね? 皆が君を悪女と呼ぶって? それは皆が、君のことをよく知らないだけだよ))
そしてさんざん嘆いた挙句、最後に父はいつもこう言って笑っていたことも。
((嘘つきさん。いいよ、それなら僕だけは君の言葉じゃなくて、行動を信じるからね))
彼女は、ローズの為に結婚を待ってくれると約束してくれた。サイラスをけしかけられても、告げ口をしなかった。青い顔で、邸まで無事を確かめに来てくれた。そしてあの時。
イザベラは、確かにローズを庇ったのだ。
ふと、ダイアナの呟きが脳裏に蘇った。
((……傷付くのが怖くて周囲に悪女として振る舞う人と、一見淑女なのに、悪気すらなく恐ろしい事が出来る人って、どちらが本物の悪女なのかしらね……))
「本当の悪女は……私のほうだったのね」
父は正しかった。彼女は確かに意地悪なひねくれ者だった。けれど、皆が噂しているような悪人では、決してなかったのだ。
ここまで回想に耽っていたローズの頭の隅で。ふいに何かが警鐘を鳴らした。
イザベラは自分のことを、実際以上に悪人だと考えていた。だからこそ、『性悪な』彼女にとって愛しい人の次に大切なのは、自分自身に違いないと思い込んでいたのだろう。
だがイザベラは結局、最後には己よりもローズの命を優先させた。
つまり、彼女が真に恋人の次に大切にしていたのは、彼女自身ではなくローズのほうだったということになる……。
ローズの背筋に、ぞくりと悪感が走った。
――――悲劇は、まだ終わってはいない。
「ローズ様」
見上げると階上の踊り場に、老いた執事のセドリックが姿を現していた。
憎しみに満ちたグレーの瞳と手にした銃口が、真直ぐこちらに向けられている。
「全てを聞いておりました。二人の悪女が、私の命よりも大切なご主人様を殺したのだと」
「セドリック! じゃあ、あのシャンデリアはあなたが……?!」
「出来ればお二人共、あのかた同様に無惨な姿で死んで頂きたかったのですが……」
銃に気付いたメイドが悲鳴をあげ、皆が蜘蛛の子を散らすように逃げ出してゆく。
己の運命を悟って呆然と立ち尽くすローズの頭に、再びダイアナの声が木霊した。
((忘れないで、ローズ。呪いが人を幸せにすることは、決してないのよ))
有能な老執事が、引き金にかけた指にゆっくりと力を込めながら、冷酷に言い放った。
「地獄でお会いしましょう」
(逃げられない……助けて、誰か――!)
ローズが思わず猿の左手を握りしめた時。ふいにそれが手の中で、彼女の願いに応じるかの如くに身を震わせた気がした。
次の瞬間。彼女の叫び声と銃声が、真夜中の広間に響き渡った。