王女と騎士の攻防
「お初御目に掛かります、アレクシア姫。本日から貴女様の護衛をさせて頂きます。クラウドと申します。」
そう言って自身の前に青年が跪いたときから、アレクシアは彼に惹かれていたのだ。
陽に艶めく黒髪と、こちらを見上げる涼しげな瞳孔の割れた銀の瞳が印象的だった―――。
◇ ◇ ◇
あれから五年の時が流れ、幼さが消えていなかった姫は、社交の場でも注目の的となるような王女となっていた。十六の時から社交界に出て、既に二年。そんなアレクシアにも、そろそろ婚姻の話が出てきていた。
それは国内の有力貴族であったり、国外の王族であったりと様々だが、多くの男性から見合い話が届いている。
しかし、正直に言うとアレクシアは彼等に興味の“き”の字も無かったのだ。
定期的に届けられる男性たちの絵姿も、流す程度に見るだけで、頭の隅にも残っていない。それだけ、彼女の意識は違うところにあったのだ。
アレクシアの視線の先には―――。
「クラウドっ!」
いつも、冷艶とした黒髪の涼しげな青年の姿があった。
無表情かつ無口の寡黙な美丈夫。その貌は貴族の貴婦人たちも騒ぐものだが、至って本人に浮いた話はなく、目線はいつだって護衛対象であるアレクシアに向けられていた。
その氷の如く冷たくも麗しい青年が忠誠を誓うのは、前女王と主アレクシアのみである。
「王女殿下、こんなところへ来てはなりません。」
クラウドは軽く溜息を吐きながら、アレクシアにそう告げた。
それもそのはず。ここは王宮騎士たちが日々の鍛錬を積んでいる稽古場なのだ。
普通はこのような場所に、第三王女であるアレクシアが訪れる用など何も無い。だが、そんなクラウドの注意も何のその、アレクシアは構わず稽古場に足を運んでいた。
「だって、クラウドがいるんだもの。貴方はわたしの護衛でしょう?わたしが傍にいてはダメなの?」
「……いけません。」
「何故?」
少しの沈黙の後に、絞り出すように言ったクラウドに、アレクシアは首を傾げる。
そんなアレクシアに、クラウドは小さく溜息を零して口を開いた。
「貴女は王女殿下なのですよ。」
クラウドのその言葉にアレクシアは一瞬、表情を曇らせる。
しかし、それも束の間、いつもの微笑みを浮かべてクラウドを見詰めた。
―――貴女は王女殿下なのですよ。
それがクラウドの口癖だ。いつだって、騎士である自身と線を引くように、その言葉を口にする。
その言葉がアレクシアにとって、とても悲しいものであることなど、彼は知らないのだろう。
「貴方はいつもそればかりね。」
アレクシアは苦笑を零した。
胸に支える鈍い痛みなど、無視を決め込んで。
「わたしだって十八よ。ちゃんと身の程は弁えているわ。」
「騎士の鍛練場を覗くこともですか?」
「いけないとは言わせない。わたしにだって、全く関係の無いことではないはずだもの。」
「………………」
アレクシアのその言葉に、クラウドは思わず口を噤む。
確かに、あながち彼女の言っていることも間違いではないからだ。
アレクシアはクラウドの前では天真爛漫に振舞っているものの、その頭脳は自国だけではなく、他国からも買われている程のものだった。
外交から軍師までをこなす聡明な王女、それが民や他国から見たアレクシアの姿なのだ。
「ふふ、そんなに言わなくても大丈夫。少しだけ見たら、すぐに執務室へ戻るから。」
ふわっと微笑みを浮かべながら、そう言うアレクシアに、何を言っても無駄だと悟ったクラウドは人知れず溜息を吐いて、アレクシアの手を取った。彼女がいても心配のない場所へ移動するためだ。
本来なら王女であるアレクシアに、王宮筆頭騎士であるクラウドでさえも、人前で気安く触れることは好ましいことではない。
しかし、時々クラウドはこうやって常識に縛られない行動を取るのだ。
“竜”と呼ばれる種族だからだろうか。
この大陸には人間とは別に、似た形を取る竜という生き物が存在している。
彼等は人間の世界に溶け込むため、人間の姿を取り、人間と同じような生活を送っていた。
既にアレクシアの姉が治めるこのエストレージャ王国では、竜の戸籍も認められているのだ。
クラウドはそんな竜の一柱だった。
「いいですか、王女殿下。俺が戻るまでここにいて下さい。」
決して動くな、と釘を刺し、クラウドはアレクシアを気にしながらも、鍛錬へと戻って行った。
「……いつまで経っても、子供扱いするのね。」
そんなクラウドの大きな背を見つめながら、アレクシアは拗ねたような声音で呟いた。
いつだってそうだ。
確かに彼と出会ったのは、アレクシアが十三の頃。そのとき既に、彼は成人を済ませた大人の男だった。
彼から見れば、十三の時から知っているアレクシアはいつまで経っても子供だろう。
妹のような存在ではあれど、女としては見てもらえない。それ以前にアレクシアは王位に遠いといえども、一国の王女なのだ。どんなに彼が好きでも、感情に任せただけの軽率な行動は出来ない。
「わたしは、貴方が好きなのに……」
涼しい表情で剣を振り、相手の騎士を翻弄するクラウドの姿に、ぼそっと声が漏れる。
どんなに好きでも、アレクシアはその感情を彼に伝えてはいなかった。彼ならきっと、やんわりとしかし確かに自分を拒むだろうから。
そもそも、クラウドにそのような感情があるのだろうか。
彼はあの通り、見目も良く、地位も確かだ。彼に言い寄る女性たちも後を絶えない。
しかし、クラウドが彼女たちに関心を向けることは一切なかった。男性であるならば、自らの意思に反しても、身体が女を求めるときも、もちろんあるだろう。
だが、彼は本当に王宮騎士としての仕事と、アレクシアの護衛にすべての時間を充てている。これでは遊ぶ暇もない。
流石のアレクシアも心配していた。
「数日間、休暇を与えた方がいいのかしら?」
クラウドは護衛として、ほとんどの時間をアレクシアの傍で過ごしている。それは騎士としては休暇が与えられたときでもだ。
つまり、彼には自分の時間がない。
これを自分の立場で考えてみる。
「―――ダメだわ。そんなの我慢ならない。」
青褪めた顔色で、アレクシアは首を振った。
どこぞの拷問だ。そんな毎日毎日、四六時中公務のことばかり考えていられない。
「やっぱり、クラウドには休暇を与えましょう。」
確か明日は騎士の仕事は休みだったはずだ。それならば、護衛としても休ませよう。アレクシアはそう思った。
元々治安は良い国なので、護衛とは名ばかりの役だった。
とはいえ、アレクシアが一人で執務をこなすのは、彼とて安心できないだろう。
クラウドの同僚でもお願いしてみるか、とアレクシアは一人で完結した。
「ということで、クラウド。今日は休暇よ。」
「意味が分かりません。」
翌日、アレクシアの執務室に姿を見せたクラウドに、アレクシアはすべての説明を省いて休暇を告げた。
そんなアレクシアに、無表情、無抑揚ながらも、クラウドは困惑の言葉を口にする。
しかし、そんなクラウドも何のその。
アレクシアは気に止めることもなく、休暇だと言った。
「ですから何故、俺に休暇が与えられるのですか?俺には必要ありません。」
「そう言わずにさ、貰えるものは貰っとけよ。」
不意に発せられたクラウドとは別の男の声。
クラウドはその声にほんの僅かに顔を歪めながら、そちらに視線をやった。
「何故、お前がここにいる?」
そこにいたのは、クラウドと同じ騎士服に身を包んだ長身の男。
クラウドにとって見知った顔などではなく、見知り過ぎた顔だ。
その男は能天気そうな笑いを零して、扉付近からアレクシアの執務机の傍に寄ってきた。
「エリオットが今日の護衛役をしてくれるからよ。これで安心して、貴方も休暇を満喫できるでしょう?」
「………………」
「はは、そうそう。お前は久しぶり過ぎる休暇を遊び尽くせばいいさ。」
「………………」
何を考えているのか読めない無表情で、無言を貫くクラウドに、彼の同僚であるエリオットは苦笑を浮かべた。そんなエリオットを、クラウドは鋭い眼光で睨みつける。
まるで、恨めしい色が見て取れた。
それに、また苦笑を滲ませて、エリオットはアレクシアを見た。
未だ下がる気配を見せないクラウドをどうにかしろ、と言わんばかりの視線だ。
「クラウド、下がって結構よ。」
「………仰せのままに、王女殿下。」
渋々ながらも、クラウドはアレクシアの言葉に従って、執務室を後にした。
その後ろ姿を見送ったエリオットがこちらに向き直る。その顔は呆れ半分、おもしろ半分だ。
「いやー、王女殿下。あれはおもしろいですね。」
「何がなの?」
「何がって?あのクラウドの奴の顔ですよ。王女殿下もご覧になったでしょう。この世の終わりだー、みたいな顔しやがって。」
ケラケラと笑い声を上げて、エリオットはアレクシアに話しかける。
からかうような声色に、アレクシアは首を傾げた。そんなにおもしろいことが、この数分間であっただろうか。
……いや、なかった気がする。
「王女殿下に休暇を出されたことが、余程ショックだったんでしょうね。」
「ショック?逆に喜んでもらえるものではないの?クラウドは今まで働き詰めだったもの。」
アレクシアの立場だったら嬉しいものだ。
やりたいことがたくさんあるから、一日では足りないと思うが。
そこまで考えて、アレクシアははっとした。
「もしかして一日じゃ足りないのかしら?でも、もっと休暇をあげたいのだけれど、わたしじゃそこまでの権限はないし……」
騎士の仕事に首は突っ込めない。
王宮騎士の日程などは、すべて女王である姉と宰相が決めているのだ。
「止めてやって下さい。そんなことしたら、あいつ何もせずに一日中無駄に過ごしますよ。」
「?」
「貴女の傍にいることが、あいつの生きがいみたいなもんですからね。余り、突き放さないでやって下さいよ。」
「……そんなこと、ないわよ。」
それはエリオットにも聞こえないほどの小さな声だった。
期待するだけ、無駄。
クラウドは母である前女王に恩があるから、その借りを返すために娘であるアレクシアの護衛を買って出ているだけ。それさえなければ、彼が自分の元にいるなんてあり得ないのだ。
その事実を知って、彼が傍にいてくれることに母に感謝していたが、今となっては苦しいだけ。ただの責務で彼はアレクシアの傍にいてくれるのだから―――。
「ねえ、竜も恋をするの?」
ふと気になり、エリオットにそう尋ねる。
彼もクラウドと同じ、この国の戸籍を持つ竜だ。こんなことを聞けるのは、彼しかいない。
「王女殿下、貴女はオレたちを何だと思ってるんですか。普通に恋だってしますよ。」
「そう、なの。」
「ああ、でも。人間の男と一緒にしないでくださいね。絶対に浮気なんてしないし、心が離れることなんてないですから。相手が嫌ってほど、愛してあげますよ。オレたちはそういう種ですからね。」
「そういう種?」
「要するに大切なものには執着深くて、独占欲が強いってことですよ。クラウドもあんな澄ました顔してますけど、竜の習性がないわけない。」
それは、クラウドも大切な女には、そういう態度を見せるということ。
嗚呼、だったらやはり自分には、初恋が叶う可能性はなさそうだ。
考えるまでもなく、彼にとって自分は妹だった。アレクシアは、その事実が突きつけられたような気がしたのだ。
これは、もうダメだ。長年追い続けていた初恋の終わりが見える。そろそろ、叶わない恋を諦めなければならないのかもしれない。否、彼を解放しなければならないのだ。
◇ ◇ ◇
あれから数日が経った。
アレクシアはクラウドへの態度をいきなり変えることはせず、徐々に離れていこうと思っている。
そして、最終的には彼から完全独立するのだ。これで、彼も安心して騎士の公務に励むことができるし、伴侶だって迎えることができる。
願わくば、その位置には自分がいたかったのだが、これ以上我が儘は言えない。
「そのためには、まずわたしも伴侶を決めなければならないわよね……」
さて、誰がいるだろうか。
そこまで考えて、アレクシアの脳裏に一人の男が過ぎった。彼ならば、自分を受け入れてくれるかもしれない。
そう考えて、アレクシアは彼に手紙を書くことにした。
一週間後、その手紙の返事は届いた。
アレクシアが手紙を出したその人は、幼馴染でもある隣国の公爵家子息、ベルンハルト・オルコットである。彼は唯一、アレクシアがクラウドを想っていることを知っている人物だ。
しかし、アレクシアはそんな彼に婚約を申し込んだ。初恋に終止符を打ち、王女として隣国との親交を深めるため、有数貴族であるオルコット公爵家との結婚に踏み込んだ。
何より彼とはアレクシアが生まれたときからの付き合いである。両親通しも仲が良い。
それだけではなく、元々彼はアレクシアの婚約候補者として考えられていたのだ。そんな二人の婚約を、周りの者たちはすんなりと受け入れた。
「……姉様たちにも宰相にも口止めはしたし、問題はないわ。」
恐らく、城のみんながこの報告を知るのは、アレクシアが国を出てから何日も経った頃だろう。そのときにはもう、アレクシアはオルコット領に着いているはずだ。
引き戻すことはできない。
「………………」
―――辛い。彼にこの恋情が届かなかったことが。彼に想いを告げることもできず、何も言わずに離れることが。そして、もう彼と容易に会えないことが。
自分で選んだというのに、この時点で既に後悔していた。
今からなら間に合うのではないか。そんな思いがアレクシアの脳裏に過ぎる。
今ならまだ婚約を破棄できる。まだクラウドと会うことができる。
「……本当に未練がましいのね。」
まだ諦めることができないというのか。
アレクシアは泣きそうな嘲笑を浮かべて、瞳を閉じた。
いや、クラウドを忘れることなどできないだろう。何年、何十年と経っても彼を忘れることなど、アレクシアにはできない。
アレクシアは溜息を吐いた。
「どうかなされましたか、王女殿下。」
いつの間に入室していたのか。扉のすぐ傍にはクラウドが控えていた。
まったく気がつかなかったアレクシアは、小さく驚いた声を上げる。
「な、何もないわ。」
「………そう、ですか。」
訝しむようなクラウドの視線も見ない振りをして、何とかごまかしたアレクシア。
納得の言葉とは裏腹に、アレクシアをじっと見詰める銀の双眸は、そんなアレクシアの必死のごまかしも取り払うようなものだった。
ふと、アレクシアは思う。何故、彼に婚姻を知らせないのだろうと。
妹のような存在が結婚するのだ。普通に考えて彼が祝わないわけがない。表情はいつもの無だろうが、その目は優しく、その声音は柔らかく、アレクシアの結婚を静かに祝ってくれるだろう。
「本当にわたしは、薄情な妹ね……。」
五年間、傍にいてくれた人に何も告げず、突然嫁ぐのだ。
クラウドは怒るだろうか。悲しんでくれるだろうか。それとも、何の関心も抱かないのだろうか。
先程の呟きは耳に入らなかったのか、クラウドは依然こちらを見詰めている。
彼に会うのは今日で最後にしよう。
そもそも、この手紙の返事が了承したとのものであれば、すぐにでもエストレージャを発とうと思っていたのだ。
ここにいればいるだけ、クラウドと離れがたくなってしまう。
そのため、既に姉王には言ってあるのだ。明朝、数人を連れて人知れず発ちます、と。
だから、クラウドの姿を今までのように間近で見ることができるのは、今日だけ。
悲しみに暮れるのをぐっと堪えて、平然を装った。
明朝。アレクシアは二人の侍女と、三人の騎士を連れて馬車に乗り込んだ。
結局、あれからクラウドとは会わず、何も言わないまま今日が来てしまったのだ。
後ろ髪を引かれるような思いで、アレクシアは城に背を向けた。もうここには戻ってこないのだと、自分に言い聞かせて―――。
◇ ◇ ◇
クラウドは女王直々に突然の休暇を言い渡されていた。少し前にアレクシアから休暇を貰ったにも関わらず、だ。
クラウドが休暇を貰って三日目。当然であるが、アレクシアの姿は見ていない。
一日を自室で何をすることもなく、ぼーっと無意味に過ごす。
あの王女の傍であったら、こんなことはないだろう。
聡明な王女だが、何かと自分を慕ってくれているのは分かっている。
その蝋人形のような表情には出さないものの、クラウドはそれを嬉しく思っていたのだ。
だから、その言葉を聞いたときは、何も考えられないほどに頭が真っ白になった。
「おい、クラウド聞いたか?王女が秘密裏に嫁いだらしいぜ。」
同僚であるエリオットがクラウドの部屋まで来て、そう漏らす。
普段は全く読めないクラウドの感情が、エリオットには手に取るように分かった。
「知っているのは、まだごく一部の奴らだけだ。公には一週間後に発表するらしい。」
何故、そんなことをエリオットが知っているのか。
そんなことはどうでもよかった。
ただ、アレクシアが他の男の元へ嫁ぐ。これだけがクラウドの起伏のない感情を揺さぶっていた。
しかし、それを押さえ込んでクラウドは口を開く。
「……そうか。」
「そうか、って。いいのかよ?大事な王女様だろ?」
「……俺は彼女の護衛に過ぎない。いいも何もないだろ……。」
そうだ。自分は前女王の指示通り、彼女を見守ってきただけ。
そんな彼女が結婚するというのだ。
普通であれば、この場合は祝福の言葉を述べ、それ相応の態度を取ることを求められる。
ならば何故、この口は祝福の言葉を発することが出来ないのか。
「お前さ、鏡見てもう一回同じ台詞言ってみろよ。」
エリオットの目にはどう見ても、彼の表情は見初めた娘を奪われ、後悔と嫉妬を滲ませる雄竜の表情にしか見えなかった。
やはり、クラウドにも竜の習性はあった。表に一切出さなかっただけで。
「王女のこと、好きだったんだな。」
「―――!」
その一言が、すとんとクラウドの胸に落ちる。
―――ああ、自分は彼女のことをそう想っていたのか。
最初は流石に十三の少女であったため、そんな対象に見ていなかった。
しかし、知らぬ間に彼女を愛おしく感じていたのだ。彼女は人間で、この国の王女。対する自分は竜で騎士。
そんなことさえ弁えずに、彼女を伴侶の対象として見てしまっていたのだった。
クラウドは唇を噛み締める。
「……今だったら、まだ間に合うんじゃないのか?まだ、王女殿下をお前の腕の中に取り戻せるかもしれないぜ?」
「………………」
「まぁ、もう王女の傍にいられなくてもいいんなら、黙って王女の結婚が発表されるまで大人しくしてろ。ただし、取られたくないなら、―――奪って来いよ。」
エリオットのその言葉に、クラウドは弾かれたように駆け出した。
その身体が向かうのは扉ではなく、窓。
クラウドが窓から身を投げ出したかと思うと、次の瞬間、大きな飛膜の翼が風を切る。
飛び去る一柱の竜を見遣りながら、エリオットは苦笑を零した。
◇ ◇ ◇
アレクシア一行は既にエストレージャを出て、隣国の国境を越えていた。
ただ、まだ王都に近接しているオルコット領は遠いので、途中の都市の宿で足を止めている。
ここで一泊するのは予定の内だったが、一つ予想外の出来事があった。
「ハルド、何故ここにいるの?」
アレクシアは目の前の青年に向かってそう言った。
にこにこと人の良い微笑みを浮かべているのは、幼馴染であるベルンハルト・オルコット。
オルコット公爵家の嫡子で、アレクシアの婚約者である青年だ。
「何故って、直接君と話をしにだよ。」
「今更何を話すっていうの?わたしと貴方の仲じゃない。」
幼い頃から知っている、三つ離れた彼。
今更、折り入った話をする必要があるだろうか。それも、彼がここまで来て。
こういう時のベルンハルトは個人的に何か考えて行動をしている。
昔からそうだったため、アレクシアは彼の癖は知り尽くしていた。
「ねぇ、やっぱり君は例の騎士君と結ばれた方がいいんじゃないかな?」
「……え?」
「君、今どんな顔してるか分かってる?君が本当に僕でいいのなら、僕が責任持って幸せにするつもりだったけれど……取り敢えず、想いだけでも伝えてきた方がいいよ。」
「……な、何故?」
アレクシアの困惑の目が、ベルンハルトを捉える。
「君がきっぱりと彼に振られて、彼を忘れることが出来るようになったら、僕が君を貰う。」
ベルンハルトがそう言ったその瞬間、唐突に宿の窓硝子が震えた。
自然な突風というわけではないだろう。
そんな不自然な風にガタガタと音を立てる硝子窓に、ベルンハルトは見慣れた笑みを深めた。
「そう言ってる内に、お迎えが来たかな?」
“お迎え”
その言葉に、アレクシアは怪訝そうに眉を寄せて、窓を開ける。
刹那、陽の光も吸収するかのような黒曜石の鱗と、瞳孔の開いた白銀の目が、アレクシアの目の前に現れた。思わず、驚きの声を上げる。
そんなアレクシアの目の前で翼をはためかせているのは、一柱の黒竜。
どこか見覚えのある風貌の竜だ。
「じゃあ、後は二人で十分話し合ってね。」
そう言い残して、ベルンハルトは部屋を出て行った。
それと同時に、窓の外に現れた竜の身体が光を纏い、次の瞬間には人型となって、窓の桟部分に立つ。
「な、ど、どうして、貴方がいるの……―――クラウド。」
艶やかな黒髪が風に揺れる。
その長い前髪の中から、切れ長の銀目がこちらを覗いた。
いつもは感情を映さないその瞳は、確かな激情を湛えて、アレクシアだけを捉えている。
クラウドは軽々とアレクシアの前に着地し、彼女に手を伸ばした。
思わず目を閉じたアレクシアを気にも止めず、クラウドは己とは正反対の白銀の髪に自身の手を差し入れ、アレクシアとの距離を詰めた。
普段のクラウドではあり得ない態度だ。
「あれだけ俺を慕ってくださっていたというのに、俺に飽きましたか?だから、オルコット卿に嫁ぐというのですか?」
「……何故、貴方がわたしの結婚話を知っているの?貴方には伝えていないはずよ。」
少なくとも、まだ彼には知られないはずだった。
アレクシアがそう言うと、クラウドはふっと嘲る響きを含んだ冷笑を浮かべた。
「そうですね、俺は何も聞いていません。全く酷い御方だ。雄竜をこれ程までに弄んで、あっさり離れられるとでも思ったのか。」
「……クラウド?」
「アレクシア王女、俺は竜ですよ。貴女は雄竜の習性を知りませんでしたか?」
クラウドのその言葉に、いつの日かエリオットが言ったことが脳裏を過ぎる。
―――“要するに大切なものには執着深くて、独占欲が強いってことですよ。”
「その顔は知っているですね。なら、手っ取り早い。俺は、守るべき対象である貴女に、雄竜としての感情を向けているんですよ。」
アレクシアがクラウドに向ける恋情よりも、深く濃いその視線がアレクシアを貫く。
思わず、アレクシアは身じろいだ。
戸惑っていたのだ。まだ、クラウドがここにいる理由が理解出来ない。それを訪ねても、彼が答えてくれないことには、アレクシアに測り知ることは出来ないのだ。
「俺は、貴女のことをそんな風に見ていたつもりはなかったのですが、貴女がいきなり嫁ぐと知って、全身の血が煮え滾るかと思いましたよ。」
「―――っ!」
「貴女が誘ったんだ。貴女を愛する竜を受け入れろ。」
あまりにも突然に変わったクラウドの口調に、アレクシアは驚きを隠せない。
いつでも何があっても、彼は騎士として、護衛として、その態度は崩さなかった。
しかし、どうだ。今の彼はアレクシアが見てきた彼とはまるで違う存在のようだった。
感情の篭った鋭い視線、どこか荒々しい態度に口調。何もかも、彼が今までに表に出したことのないものばかりだ。
そこまで考えて、アレクシアは目を見開いた。
「……愛する?」
聞き間違いなどではなければ、目の前の竜は“貴女を愛する竜”と自身を称した。
呆然と自身をみつめるアレクシアに、クラウドは口角を上げて口を開く。
「そう。俺は貴女を伴侶の対象として愛しているんだ。だから、貴女が他の男に取られるのは、これ以上なく我慢ならない。」
「―――う、嘘よ。」
「何故、そう言い切れる?」
クラウドの銀目がすっと細まった。
その視線に竦みながらも、アレクシアは言葉を続ける。
「クラウドは、わたしのことを妹としか思っていないはずよ。」
それは気のせいなどではない。
ずっと、クラウドを見てきたのだ。そんなことは嫌でも思い知らされた。
アレクシアがクラウドを好いていることに変わりはないが、彼も自分と同じように想ってくれているとは、全く思えなかった。
アレクシアは、じっと見つめてくるクラウドの視線から逃げるように縮こまる。
「……貴女は俺のことをどう思っているんだ?」
その言葉に、アレクシアは唇を噛み締めた。
言ってもいいのだろうか。不意に、脳裏にベルンハルトの言葉が蘇る。
―――……取り敢えず、想いだけでも伝えてきた方がいいよ。君がきっぱりと彼に振られて、彼を忘れることが出来るようになったら、僕が君を貰う。
そうだ。どうせ、彼に嫁ぐのだ。もう、思い切って言ってしまおうか。
アレクシアは俯いていた顔を上げ、クラウドをその紫水晶の瞳に移した。
「好きよ。五年前から、貴方が好きだった。」
それは、もう二度と告げられることのない言葉。
オルコット公爵家に嫁げば、彼に対するこの想いは一切表に出さない。そう、決意を固めて、城を出てきたのに。
何故、彼はここに現れたのだろうか。
何故、今になって“愛している”などと言うのだろうか。
それは、兄が妹に向ける親愛の情なのではないのか。
疑懼がアレクシアを支配する。
「でも、貴方はずっとわたしを遠ざけていたじゃない。それが答えでしょう?」
ああ、泣きそうだ。
アレクシアの紫眼が水の膜を纏う。それを耐えるように、アレクシアはぎゅっと唇を結んだ。
「それは誤解だ。」
「何が誤解だっていうの……」
「俺は貴女を愛しているという自覚がなかった。自覚がないまま、無意識に貴女を求め貪ろうとする本能を、理性で抑えていただけだ。」
「?」
「強烈な雄竜の本能を抑え込むのは、容易なことじゃない。その対象が常に傍にいたんだ。素っ気なくもなるだろう。」
そう言いながら、クラウドの瞳が雄竜の欲を帯びる。
クラウドという黒竜にとって、アレクシアという王女は至宝だった。
五年前から、表情には出さずとも、常に傍で慈しみ守ってきた、これ以上ない存在。
まさか、嫁ぐ話が出て来てからこの想いに気付くとは。
そして、この想いに気付いたと同時に、彼女に対する独占欲が首をもたげる。
「俺は貴女を、アレクシア・エストレージャを伴侶に迎えたい。どうか、頷いてはくれないか。」
―――そうでなければ、きっと竜の本能に従い、無理やりにでも彼女を伴侶に据えるだろう。
アレクシアの意思が伴わない婚姻は、クラウドも望むものではない。
出来ることなら、彼女には自分の意思でオルコット公爵家を捨てて、こちらに来てもらいたかったのだ。
「……本当に、わたしのことをそう想ってくれているの?」
「ああ。」
「伴侶ってことは、貴方の妻でしょう?それに、わたしを望んでくれているの?」
「ああ。」
刹那、アレクシアの瞳から涙が溢れる。
それを耐えるような素振りを見せたが、涙は止まらなかった。
「わたし、貴方のことが好きなの。」
「貴女にそう言って貰えて、嬉しく思う。」
そう言ってクラウドは、アレクシアの胸元に唇を寄せた。
クラウドの唇が触れたそこには、花の刻印が浮かび上がった。これは、竜が伴侶に刻む、己の所有印。
これが刻まれたということは、名実ともにアレクシアはクラウドの花嫁になったことを表す。
「アレクシア、俺だけの花嫁。貴女はずっと、俺の傍にいるんだ。」
その言葉に、アレクシアは泣き笑いを浮かべて頷いた。