最終話
「さて、と。まどか、行こうか」
「え? でも、片付け…」
急に立ち上がったルイは、強引に私の腰を抱くようにしてガラス戸から庭に出た。カザムさんと小梅さんが、あわてて後をついて来る。
ルイはそのまま厩舎に入り、アンピィの手綱を手に取った。
「今日はもうこちらに泊まられては? 部屋は十分にありますし。明日皆でもどりましょう」
ルイはアンピィの上からその首に手をかけているカザムさんに顔を寄せた。
「カザム、オレとまどかはこれからちょっと二人だけでやることがあるんだよ。空気読め? ていうか、君たちはどうなのーー?」
そ、そんな挑発の仕方って……! あ、ていうかルイなりの応援?! ああ、小梅さんに聞こえなくてよかった……! あの人はこんなこと聞かされたらきっと爆発しちゃうよー!
ルイはぐっと体を起こすと、小梅さんに軽く手を挙げて挨拶をした。
「それではまた明日の午後にでも!」
「あ……え? 午後……」
小梅さんはちょっと首をひねった。カザムさんは心無しか頬が赤い。うーん、可愛いなあ。「ひゃあ!」合図もなしにルイはアンピィを走らせた。あ、もしかしてカザムさんに見とれてたの、バレたのかな?
そんな私の気持ちを読んだかのように、ルイは前に座る私の腰を片手でぐっと引き寄せて、
「今夜はオレの我がまま聞いてくれよな。心配させた分」
と囁いた。いやーーっ、普段あまり言わないこの人の我がままって、もう、アレなんですけど! とは言うものの、やっぱり期待で胸膨らむ仲直りの夜。
「…行っちゃった。え? 行っちゃった? か、カザムさん、私たちも帰らないと…」
振り向くと、カザムさんはメモを書き終わって、ポステを呼んだところだった。夜でもお構いなしの勤勉な小鳥は、カザムさんのメッセージを夜空へと運び、星の中に紛れていく。
「離宮に知らせを送りました。ルイさんマドカさんと行き違いになった、連絡は取れたけど俺とコーメは遠くまで来てしまったので、明日帰ると」
「ええっ?」
「ほら、片付けもありますし、すぐには帰れないでしょう?」
カザムさんが私の背中を押し、私たちは別荘に向かって歩く。テラスから暖炉の部屋に入りながら、彼は首をこき、と鳴らしてため息をついた。
「慣れないことをしたので、疲れました。でも、二人が仲直りして良かったですね。まさかプロポーズみたいな場面に立ち会うとは、驚きましたが」
私は一瞬息を飲んで、視線を泳がせた。
「コーメ? どうしたんですか。ルイさんも言ってたでしょう、そればっかりが幸せじゃないって」
顔を上げる。カザムさんは私を優しく見つめた。
あ…この人はわかってくれてる。私が、こちらの世界での結婚という形を、決して望んでいるわけではないこと。それが重荷になることだってあることを。
カザムさんは真摯な瞳をして私の手を握ると、言った。
「コーメと、コーメだけの“森男”の関係だって、特別で、最高に幸せだと思いますよ…?」
私はそっと、頭を彼の胸にもたせかける。思い切り、甘えたくなる。
「…カザムさんから、まどかさんの香りがしたことがあったの…あれは?」
カザムさんは不思議そうに考え、ああ、と笑う。
「あの日はずっと、マドカさんの上着を持っていました。それでかな」
なんだ…でも、もっと言っちゃう。
「ルイさんを焚きつけるためとはいえ、ビックリしたんですから…あのメッセージ」
カザムさんは、静かにささやいた。
「すみません。でも、コーメはきっと気づいてくれると信じてましたから」
きゅんっ、と胸が鳴った。
ずっと、自信を持てないでいたこと。カザムさんが、私を…私がカザムさんに向ける気持ちを、信じてくれている。
照れなんか吹っ飛んだ。私は気持ちのままに、カザムさんの首に飛びつくように抱きつくと、初めて彼にその言葉を言った。
「カザムさん、好き…大好き」
「!」
急にカザムさんの両手に力がこもって、肺から空気が押し出されるくらいの勢いで抱きしめられた。ぐふ。
「コーメ。俺、獣になってもいいですか」
「へ? ティンプに?」
「…やっぱりそっちですよね…」
「そっちってどっち? …あ、ああ、獣ってあっちか、あっちですね、えっと」
その意味を遅ればせながら理解して、全身真っ赤になった私に、彼が言った。
「コーメは、俺を“森男”って呼ぶ時の方が、俺に近づいてくれてる気がします。…今夜はずっと、そう呼んでくれますか」
その夜、私が何度“森男”の名前を呼んだかなんて…全然、覚えてない。
翌日、カザムさんとアンピィ二人乗りで離宮に戻ってきた小梅さんは、見ものだった。
私とルイの顔を見てにっこりして、
「おはようごじゃいます! 昼だけど!」
まずさっそく噛んで、カザムさんの手を借りながらぎくしゃくとアンピィから降りる。耳、赤っ!
一方のカザムさんは、なんだかえらくスッキリした顔をしてらっしゃいますが?
「ちょっと、洗濯物を置いてきます!」
別荘から持ってきたらしい荷物を抱え、逃亡を図ろうとする小梅さんに、私はすすすと近寄って。
「昨夜は、どうでした?」
ぎゃふん、と小梅さんが固まる。ぎゃふんって言ったよこの人、ぎゃふんって。
でもすぐに、彼女はこちらを向いて背筋を伸ばした。お、開き直ったかな?
「す、素敵な夜でしたよ。カザムさんの新たな一面を見たっていうか? まどかさんこそ、どうだったんですか?」
「しゃべっていいんですか? 大体このくそ暑いのに私がパンツルックでいなきゃいけないのはもちろん、お察しの通り体中にあの人が手当り次第に跡を付けまくったからです。まあ、そんなこと言えば彼も相当引っ掻き傷だらけですけど。昨日は離宮に戻ってくるなり庭から俵担ぎで寝室まで運ばれ、服を脱ぐ間を惜しんで取りあえず、1回……」
「ストップ! そこまで! やっぱりいいです!」
顔を見合わせて、私たちは同時に吹き出した。
向こうの方では、ルイとカザムさんもなにやらこそこそと話している。うわー、やーらしい!
「小梅さん」
私は小梅さんに向き直った。
「ごめんなさい、今回は…勝手に勘違いして、小梅さんのことまで疑って」
「そんな、私の方こそ、誤解を招くようなことして。危うく、ウィオ・リゾナの思い出がひどいものになるところでした」
「ううん、小梅さんは悪くないんだから、そんなこと言わないで! ね、何かお詫びに、私にできることないですか?」
申し訳なさそうな顔でまどかさんが謝ってくれる。早く彼女を笑顔にしたくて、私は急いで言った。
「あっ…それじゃあ、お願いしたいことがあるんです。私の先生になって下さい!」
って、なんかもう十分色んな事を教わった気がしますけどね今回!
「ええっ? 先生?」
まどかさんが目を丸くした。
昨夜、アレコレの合間に、カザムさんと今回のことについてぽつぽつと話をしていて。まどかさんが自然療法に携わっている人だって聞いたんだ。しかもそれは、もともとは日本で学んだものなんだって。
私の“星心術”による回復術がうまくいかないのは、回復に使う印がこちらの考え方に基づくもので、私のイメージと合わないからじゃないかと思って。それなら、まどかさんの持つ知識を元に印を組み直せば、もしかしてもしかするかも。
まどかさんは私のつたない説明を聞いて、うなずいてくれた。
「そういうことなら、喜んで!」
今度こそ、何の憂いもなく輝いた笑顔。まどかさんは、やっぱり綺麗な人だ。私は思わず見とれてしまった。
この笑顔は、ルイさんに愛されてるからこそ…なんだなぁ。
日本に帰る機会を手放し、こちらの世界に残ったまどかさん。
こちらの世界の人間になったけれど、どちらの世界も選び取っていない私。
二人とも、何かを失わずにはいられなかったけれど、それでも近くに大切な人がいてくれるから…私たちは『楽園』を感じることができる。
「それじゃあ、実践から入りましょうか。さっそく小梅さんの身体に教えてあげる…」
「え? え?」
「腰、辛いでしょ?」
まどかさんは妖艶な笑みを浮かべた。ひゃあ~バレてる!
昨夜は思い知りました。カザムさんの想いに「応える」ためには、まず身体を鍛えることが必要だって。
そうして、まどかさんがイリア・テリオに帰るまでの間、私はまどかさんによる短期集中回復術講座に明け暮れた。
取りあえず、五行と陰陽の基本的なことから、こちらでも使われる一般的なハーブの効用などなど。ああ、ハーブもそれぞれのイメージをしっかり持てば、その効用にちかいエネルギーを引き出せるかもしれない。火傷の場合と打ち身の場合はまた違うアプローチの仕方があると思うし。ハーブのことはまたラズトさんにも聞いてみよう。
ルイさんのアシストには、カザムさんがついた。
「最初っからそうしてりゃ良かったのよ!」
とはまどかさんの弁。激しく同意です。
「あ。そうだ、小梅さん。秋にはバーシス主催の短期パワートレーニングワークショップがあるんですけど、申し込み用紙送りましょうか? カザムさん、味を占めてこれから大変ですよ! ルイが今頃なにか変なこと教えてるかもしれないし」
私の考えを見透かしたように、まどかさんはにやっと笑った。
「ええっ?! 変なこと……って! ええっ! 困る……」
慌てる私を可笑しそうに見ながら、彼女はさらりと
「まあ、取りあえず毎回素早く回復出来るように回復術をマスターしましょうね。自分自身はもちろん、大切な人を回復させられる素晴らしい術を」
そ、そうですよね! まず出来ることからゆっくりと!
私は大きく息を吸い込み、自分の中でイメージを膨らませ始めた。日本と、この世界と。大切な人たちの顔を思い浮かべながら。
【楽園を吹く風~『Elysium』×『離宮の乳母さま』 完】
本編完結。あとがき、おまけ短編に続きます。拍手お礼小話もupしました。