第八話
やっぱり、ここだった。
ルイさんとアンピィに二人乗りをして、ラズトさんの別荘に着いた私は、厩舎にもアンピィがいるのを見て胸をなでおろした。カザムさんが私を通じてルイさんをおびき寄せようとしてるなら、案内役の私のよく知っている場所に行ったのだろうと思ったのだ。
ルイさんがすごくアンピィを飛ばすので、しがみついていた私は身体がガクガクだったけど、とにかく不穏な空気をまとったままの彼を中に案内する。鍵の開いた玄関を抜け、暖炉の部屋をのぞくと、テラスに出るガラス戸が開いていた。その向こうから、カザムさんとまどかさんの声がする。
何の警戒もせずにガラス戸を抜けた私は、その場で立ちすくんだ。
梅の木の下にはこちらに背を向けたカザムさん。そしてその影になるようにまどかさん。カザムさんの頭がまどかさんの顔に重なって……
「うそ……」
思わず口から言葉が漏れた。自分が見ているその光景が信じられなくて、足がすくんで動けなかった。だって……カザムさん……まどかさんに……?
隣で風が舞った気配に顔を上げると、ルイさんがすごい勢いでカザムさんの背に突進していくところだった。
「ル……ルイさん……」
止めようとして上げたはずの声がかすれて届かなかったのか、ルイさんはカザムさんに襲いかかった。カザムさんは難なくそれをかわす。私はその間に恐る恐る彼らに近づいた。
「……目に虫が入ったの! ……」
まどかさんが片目を閉じたまま、ルイさんを見上げる。
めに、むし! な、なんだ…そんなことだったの…。
彼女の言葉を耳にしたとたん、ふっと体の力が抜けた。あ、あれ? どうしたんだろ?
そんな私の体を温かい腕が支えた。そのまま、すっと引き寄せられる。
「あっ、ご、ごめんなさい。なんかほっとしたら急に力がぬけちゃって……」
言い訳のようにもごもごと口の中で言葉を噛んだ。なんだか恥ずかしくて、私を包むその人に顔を上げられない……たぶん、私いますごく変な顔をしていると思う。安堵と喜びと恥ずかしさが入り交じった…… そんな風に思うもつかの間……
あ……! ほわあああ!! る、ルイさん、まどかさんにキス……しちゃった………も、もう完全に二人の世界だよね! 人のキスシーン見るなんて、妹の結婚式以来だよ! いいですか見てても、ってもう両手で顔を隠しても指の隙間から見ちゃってたり。こ、この距離だし、見るなという方が、ねえ? って私、誰に言ってるんでしょう。
「オレがおまえを我がままにしてるから、いいんだよ」
って! ルイさん! なんてセリフですか!
でも、この目、この声、この表情…こんなにも気持ちを伝えて、胸を打つセリフ。
いつもお笑いになっちゃうどっかの誰かさんとの違いは、一体何なのさ!?
そして今、まどかさんとルイさんがお互いの身を寄せ合う……よかった。仲直りだ。やっぱり、お似合いの二人だなぁ。
「コーメ。そっちばかり見てないで。…どうしてほっとしたんですか?」
後ろから私を抱きすくめる手に力がこもり、私は我に返った。とくとく、と背中に彼の鼓動を感じる、気がする……そして温かい息が耳にかかった。私は思わずその腕に自分の手を重ねる。
どうして、って…………だって………
「それは、コーメが俺のことで少しでもマドカさんに妬いた、って勘違いしてもいいですか」
か、勘違いっていうか、ごめんなさいビンゴです!
でも、やっぱり何も言えなくて、ただ、コクン、と小さく頷いた。ふっとカザムさんの腕の力が緩んで、そのまま腰をくるりと回され、その瞬間私はもう彼の胸に顔を埋めていた。
「か、カザムさん、恥ずかしい……まどかさんとルイさんが……」
「いませんよ」
「へ!?」
思わず彼の顔を見上げる。一途なダークグリーンの瞳と会う。
「よかった。やっと俺の目を見てくれましたね」
「え……と……、あ、それより二人は……」
カザムさんは優しく目を細めた。
「俺たちに気を使って、部屋に入って行きましたよ」
カザムさんは私の頬に頬をすりよせた。うわああ。
思わずいつものように、関係ないことを言ってかわそうとして。
私は思い出した…ルイさんに「帰って来たら嫌ってほど甘えるんだな」って言われたこと。それにさっきの、素敵なルイさんのセリフ。
――私も、もうちょっと我がままになってもいいのかな。
「ね…“森男”…? 我がまま言っていい?」
私だけのあなたの名前を、呼ぶ。
「はい?」
「帰りは、私と一緒にアンピィに乗ってね」
「…はい」
カザムさんが、短いけど雄弁な返事をしてくれる。
「それ、から…いつか、この庭でしたこと、もう一回、して?」
見上げると…カザムさんは何かを我慢するように、かすれた声で言った。
「『して?』ってコーメ…それは我がままじゃなくて、おねだり、って言うんですよ」
そしてカザムさんは、いつかのキスとは全然違う熱さで、私のおねだりを聞いてくれた。私はまた、身体の力が抜けそうになった。
「あのー、お腹空きません? ここに来る前に買って来たもの、つまみませんか。お茶の準備は出来ていますし」
がば、とカザムさんの腕越しに振り向くと、まどかさんがおずおずとガラスの引き戸の向こうから顔をのぞかせていた。
ぎゃあああ! すみません!
居間の暖炉の前のソファに、テーブルを挟んで二組のペアが向かい合うように座る。
夏だからもちろん暖炉に火はついてないけど。テーブルの上には出来合いのコールドチキンサラダ、何種類かのチーズとカゴにはバゲッドがスライスしてある。ラズトさんが冷蔵庫に常備しているハーブバターとナッツのペーストもパンの横に並んでいた。
「私、安心したら急にお腹空いちゃったんで、遠慮なくいただきますよ?」
まどかさんが飾り気の無い微笑みを浮かべながら、サラダを皿に取った。
「……おっまえ、本当に現金だよな。自分の恋人ながらいい性格しているな、って思うよ。ああ、”性格がいい”じゃないからな」
ルイさんがソファの背に肘をつき、頭を支えながらまどかさんを横目で眺める。
「でも、好きでしょ?」
あ、まどかさん切り返した……パワーアップしてるわ……
「う……、ま、まあな」
ルイさんは一瞬赤くなって、でも彼女の言葉に応えた。私はつい吹き出してしまう。隣を見上げた視線が、カザムさんの穏やかなそれと合った。
簡単に食事を終えると、カザムさんが皆に新しくお茶をいれてくれる。
「で、なに? この一連の騒動はつまりおまえが、このオレが小梅になびいた、と完全に勘違いしたことが発端なわけだな。そのうえカザムが一枚噛んだ、と」
「俺は得てして女性の味方ですからね。それに惚れてる自分の女が他の男の前で涙を見せたなんて聞いたら感情的にならないわけがないでしょう」
押さえた声音。うそ、カザムさんちょっと怒ってる?
「あっ、それはね? カザムさんがこんなに私のことを大事にしてくれてるのに、私が少しもそれに応えていないんじゃないかって思ったらいろいろ込み上げて来ちゃって……ルイさんを困らせちゃって」
私がカザムさんの顔を覗き込んで必死に弁解すると、彼は私の体に腕を回してぐっと引き寄せた。その瞳が憂いを帯びている。
「そんなこと知らなかったもん。それじゃあ私だって、誤解もするよ! あんなにタイミング良くあんなセリフを聞いたり意味深な泣き顔みちゃったら! どうせルイがちょっかい出したんだなって思う方が自然でしょうよ!」
まどかさんがやや怒り爆発気味にルイさんに噛み付いた。逆ギレっていうの? こういうの。
「おまえ、オレのことなんだと思ってるんだ?!」
「狩猟系絶倫男」
「「ぶっ」」
今まで神妙だったカザムさんと私は思わず同時に吹いてしまった。わー、そんなに飛んでないけど失礼しました! ていうか、あまりにも的を射すぎた言葉にヒットしてしまった! うん、ルイさんにはやっぱりまどかさんしかいないわ! 知り尽くしていることがわかるセリフだもん……って、あれ、私もそんな風に彼を見てた??
「おまえっ!」
ルイさんが横からまどかさんを抱え込み、拳でこめかみをぐりぐりする。うー、あれ痛いんだよね。
「だって私に対する普段の行動からすればそうじゃなーい! いたたた。もう! ごめんなさい! 私が勝手に妄想膨らましてました! ルイに疑惑持ちました! 嫉妬してました! 好きなんだもん。しょうがないじゃない!」
あ、そんなにあっさりと言えちゃうんだ……まどかさん、可愛いっ。って、私がきゅんきゅんしてどうする。
ここでやっとルイさんが『ぐりぐり』をやめて、彼女を抱きしめた。「その狩猟系絶倫男とやらはおまえ限定だから」そっとこめかみにキスをする。まどかさんは照れながらも、唇を尖らした。
「もー、やだ、私。30過ぎてもこんな落ち着かない恋してるなんて」
「でもルイさんみたいにセクシーな人が隣にいたら、のんびり恋を楽しむどころじゃなさそうな気がします」
「え、なに? 小梅までそんなこというの? それ、褒めてんの? それでもそんなオレを振り回してるのはまどかの方なんだけどな。そんなにおまえが落ち着きたいなら、オレはそろそろ落ち着いてもいいぞ? ていうか、そうしてくれた方がオレは安心だな」
「!!」
「ルイさん、それって!」
私はつい、カザムさんの袖をきゅっと握ってしまった。これって、これって……カザムさんは感心したようにただ一言。
「ほう、そう来ましたか」
「まあ、別にまどかがオレとそう言うのを望んでいれば、だけど。人によるだろ。そればっかりが幸せじゃないだろうし」
「そうやって、すぐに人に選ばせるうー」
まどかさんは上目でルイさんを見る。でも、なんとなくその横顔が嬉しそうなのは私の気のせいじゃないと思う。
「だってオレが決めていいなら、即決なの目に見えてるじゃないか」
あー、なんだかずいぶん当てられているような気がするなあ。いいな、いいなあ。
うらやましいのと同時に、どこか切ない気分でそんな風に思っていると、隣でずっと私を抱いていたカザムさんのその手に、きゅっと力がこもった。
「それにしても、一体なんだったんですか? コーメとルイさん、実際なにかコソコソしてましたよね?」
あ、バレてましたか。でもそれってカザムさんが私のことをよく見ていてくれてる、ってことだよね……そして、私を信じてただ見守っていてくれた。なんか、すごく幸せだな……。
「うん、そのことなんだけど」
ルイさんはカザプカの説明を軽くまどかさんにした上で、彼の小さな企みを暴露した。
「え? 今さら日本と連絡……って。あり得ないでしょう!」
まどかさんは話を聞き終わると一笑に付した。ルイさんはちょっと肩すかしを食らった様子をしている。
「だって、小梅さんみたいに大事な娘さんを残して来ているならともかく、私の存在は向こうに全くないんだし、そうねぇ、一人連絡とってもいいかなって男がいないこともないかな……」
「おまっ! それって……」
急に取り乱すルイさん。あの様子じゃ恋敵かしら……。
「ウソよー。いいの。私はこっちを選んだんだから、何があっても連絡なんかしないわ。だいたいそんなことしたら里心ついて帰りたくなっちゃう。でも……ルイは私のことを考えてくれたのよね。ありがとう」
二人が見つめ合う。あっ、あっ、またキスしそうな引力を感じた。リンゴが落ちるくらい、自然な引力を。