第七話
カザムさんは両開きのドアのカギを外すと、
「どうぞ」
と開けてくれた。私は中に入ってあたりを見回す。
玄関ホールは吹き抜けになっていた。天井は木の梁が見えていて、床と壁の下半分も板張りになっていて温かみがある。
「ここは、ジェガルト家の…ラズト先生の別荘です。この夏は誰も使わないので、俺が自由に使っていいことになってます。ゆっくりして下さい」
石造りの暖炉のある部屋に通され、カザムさんが窓を開けて風を通しながら言った。ソファにかかっていた白い布もどけてくれる。
「ありがとう…」
ソファに座り、ため息。
ボーっとしているうちに、カザムさんがお茶を淹れてくれた。温かな湯気が胸にじんわりと浸み込むにつれて、ささくれ立っていた気持ちが少しだけほぐれてくる。
勝手に離宮を飛び出してきちゃったけど、ルイ、心配してるかな。…全然気づいてなかったりして。今ごろ小梅さんと…。
「カザムさん、あの……お話聞いてもらってもいいですか?」
「もちろん。俺でよければ」
彼は私の方へ体を向けて深々とソファに腰掛けた。
「え……と、ルイって私に『ダメだ』って言ったことが無いんです。なんでも許してくれる。私が何をしようと何を言おうと。そりゃあ常識の範囲ってありますから、私も度を超してひどいことをしたり、言ったりしませんけど、彼は本当になんでも許してくれるんです。でもね、それって裏を返せば『どうでもいい』ってことなのかなって思うときもあるんです。だって、人に何かを注意するよりも『いいよいいよ』って流していた方が楽っていうのありませんか? だから、たまに不安になるんです。私ってルイにとってそういう存在でしかないんじゃないかと。だから、小梅さんみたいな、可愛くて守ってあげたい『ああ、俺がいなきゃだめなんだな』タイプの人の方がルイにはお似合いかも、と思ったら、つい取り乱してしまって」
カザムさんはソファの背に体を預けて、私の話を黙って聞いていたが、「ふーん」と鼻を鳴らすと、すぐに微笑んだ。あれ? 変なこと言ったかな。
彼は咳払いをして、
「すみません、うまく言えるかわかりませんが…」
と前置きをしてから言った。
「まず一つ、断っておきたいのは、コーメは確かにほわんとして見かけは可愛い女性ですが、あれでなかなか一筋縄ではいきません。ここだけの話、俺が尻に敷かれているといってもいいくらいです。あ、これは俺が彼女に夢中だから、というのを差し引いても、です。ラズト先生もたまにですが彼女にこき使われていることもあるくらいですからね」
あ……味噌と、ショーユ?
「ルイさんの気持ち、俺わからないでもない、ですね。多分、それ、ルイさんの方が不安なんだと思う。マドカさんがどこかに行ってしまうんじゃないかと。自分の側にいることで制限されたり、不自由な思いをマドカさんにしてもらいたくないんじゃないかな。だから、ルイさんがマドカさんに何か強要することってほとんどないんじゃないですか? 本当だったら、もし普通の男だったら、自分の惚れた女を縛り上げて家に閉じ込めて鍵かけるくらいしておきたいのが正直なところですよ。あと、おしゃれして出掛けるな、そんな露出の高い服を俺の前以外で着るな、他の男に“星心印”での名前教えるな、そんなにニコニコするもんじゃない、たぶん、基本これくらいは毎日言いたいはずですよ、特に彼なら。あ…あくまで俺の見解ですけど」
カザムさんの言うこと、本当なのかな。そしたら、私がルイを誤解している、ってこと? こんなに一緒にいても、彼のことわかっていない、ってこと?
「マドカさん」
顔を上げると、カザムさんがテラスに出るガラス戸の前でこちらを見ていた。
「ちょっと、庭に出ませんか」
そうよね。こんなむしゃくしゃした人間と部屋にこもってても、気づまりなだけよね。
のろのろと立ち上がり、カザムさんに近寄ると、彼は外を指さした。
「ここに来たのは、あれをお見せしたくて。日本のものです」
「?」
庭にはすでに薄闇の帳が下りていた。あまり手入れのされていない自然の庭を、部屋からこぼれた灯りが照らしている。
そして、庭の奥に見覚えのある木があった。近づいてみる。
「これ…梅の木!」
鈴なりになった青い実は、ほんのりと黄色や赤に色づき始めて、甘い芳香を放っていた。懐かしい香りを胸一杯に吸い込む。
「日本のものに触れたら、少し落ち着くかと…それだけなんですが」
カザムさんがウッドデッキの段差に腰掛けた。私も隣に座らせてもらう。
「俺の話も、少し聞いてくれますか。…この木、“星心術”で日本から呼び寄せたんですよ」
説明してくれたところによると、小梅さんのこちらでの名前を“星心印”で表現するために必要だったそうだ。
「でも、名前を得て、神にこちらの世界の人間と認められた時、コーメは…辛そうに泣いていました」
そうか…娘さんが日本にいるのに、つながりを断ち切られた気がしたのかな。
「俺がコーメを求めたから、コーメは俺に応えてくれた。でも、コーメにとって、もしかしたらこちらでの恋愛は重荷かもしれないと思うことがあります」
カザムさんは静かに語る。
「彼女は、日本に心を残していることを、俺に悪いとさえ思っているかもしれない。でも、俺はそんな彼女だから好きになったんです。コーメはこちらの生活ですごく頑張っているから、恋愛でまで頑張らなくてもいい。俺が隣にいて、彼女を支えられれば、それだけで幸せなんだって、いつか気づいて欲しい」
カザムさんは目を細めて笑った。
「そもそも、空間を超えて彼女と出会えた、それだけで俺は奇跡みたいに嬉しいから」
カザムさんはまるでそれが小梅さんであるかのように、枝を広げている梅の木をうっとりと見上げた。その眼差しには柔らかな光が浮かんでいた。まるで小さな星たちがその瞳に降りてきたような。
……カザムさんは、小梅さんのことを本当に大事に思っているんだわ……
私は自分が告白されているわけでもないのに、どうしてか胸の奥がきゅっと痛んだ。なんだか、ルイを疑っている自分が馬鹿みたいに思えた。同時に恥ずかしかった。そして……
「……ルイに、会いたくなっちゃった」
カザムさんはゆっくりと私を見下ろす。慈しむような、包み込むような微笑みで。『わかってますよ』彼の無言の声を聞いた。
「カザムさん、ありがとう。こんな私の茶番に付き合ってくれて。話まで聞いてくれて。私、もっとちゃんとルイと向き合ってみます。……つい長居しちゃったけど、もう行きましょう。小梅さんもさすがに私たちのことを心配しているだろうし」
私は立ち上がり、お別れの気持ちを込めて、ころころとした梅の実を付けた枝をもう一度見上げた。
「あっ、痛いっ」
「どうしました?」
「なんか目に入ったみたい。何か動いてるうーー」
「あ、ここは夜、羽虫が多いんだ。ちょっと見せてください……明かりが欲しいな。うん、体を部屋の方に向けて……」
カザムさんが家を背にして私の前に立つと、私の頬に手を添え、親指の腹でぐっと目の下を抑えた。うっ、恥ずかしい……こんな素敵な男性に……このまま舌を出せばアッカンベー状態の顔を見られるなんて……、って、何考えてるの私。
「ちょ……頭振らないでください、マドカさん。あ、見えた。取りますよ」
彼はもっとよく見ようと顔をぐっと近づけた。
わわわ、息が掛かった。近い近い……。
そのとき、その見開かれた瞳に、家の方からすごい勢いでこっちに向かってくる人影をとらえた。その後ろには小梅さんの姿も……!
「カザムっ! てめえっ! まどかに何してる!!」
きゃーーーっ! ルイ?! なんで?!
ルイは一直線にカザムさん目がけて、ぐんと距離を縮め、彼の後ろから今にも拳を振り下ろそうとしている。
「ルイ! ちょっと、やめーーーー」
私が言い終わらないうちに、目の前にいたカザムさんはひらりとその身を軽やかにひるがえし、自分の顔の前に迫った拳を手のひらで「ぱしっ」と受けた。
さ……さすが国の護衛士…………
その一連の優雅な動きに目が釘付けになる。って、まだ虫入ってるけど。
寸でのところで攻撃をかわされたルイは、まだ拳をとらえられたまま、怒りで顔を歪ませながら正面に立つ美丈夫を睨みつけている。カザムさんは眉一つ動かさず、そんなルイの視線もどこ吹く風、で静かに言った。
「マドカさんの専属騎士がご不在のようでしたので、俺が代わりにお世話させていただいたまでですが」
え、カザムさん!?
「どんな世話の仕方だよ……っ、オレはそんなことを頼んだ覚えが無いが……?!」
ちょ! ちょっとこの人ものすごく勘違いしている!! なんか、これじゃあ一人の女を取り合う二人の王子の図!! しかし残念! 根本的に「誤解」ってところが恥ずかしいーー!!
私は急いで二人の男の間にーーほとんど隙間のないーーに割って入った。
「ルイ、カザムさんに失礼よ! その手を引っ込めて!!」
「なんだ、まどか。おまえコイツを庇うのか?!」
殺気120%の視線で上からぎろりと睨まれる。
「ちがう……ルイ、誤解よ。目に……目に虫が入ったの! ていうかまだごろごろしてる! せっかく取ってもらってたのに誰かさんが邪魔するから……!」
「早く取って差し上げたらいかがでしょう」
ふっ、と軽く息を吐きながらカザムさんはルイに言った。ルイはカザムさんからしぶしぶその身を離すと私に向き合い、頬に手を添えた。今まで殺気の含まれていたそれは、今はウソのようにとても、優しい。
「……取れたぞ」
「ありがとう……?」
目の異物は取れたのに、ルイは両手で私の顔を挟んだまま私の瞳を覗き込んだままだ。私も思わず彼の栗色のそれを見つめる。
「なんか、ずいぶん長く会わなかった気がする……」
あ、それ今私も思った……
ルイの顔が近づく。私はまぶたを閉じる。そのタイミングですくわれる唇。もう、何度も何度も何度も繰り返してきたこと。それなのに、どうしてかすごく愛しい。
ちゅ、と吸われて唇が少し、離れた。
「……ごめんね、私、ルイのことちょっと疑ってた……いつも私だけを見て、なんて……我がままだよね」
ルイは困ったように笑みを浮かべた。
「オレがおまえを我がままにしてるから、いいんだよ」
ぎゅっと抱きしめられる。私も迷わず彼の背に腕を回す。私は彼の胸に顔を埋めて息を大きく吸う。ルイの香り、ルイの体温。やっぱりルイじゃなきゃダメだ……。