第六話
私は、ルイの作業部屋が見える廊下の角にいた。彼は今日も小梅さんにアシストをしてもらうって喜んでた。それは純粋に仕事がはかどるからなのか、別の意味でなのか。……邪推し過ぎだ。私。
ちょっと顔見に来たんだけど…いいよね。何だか昨日から気まずいし、今日も朝食後から一度も顔を見てないし。小梅さんとどんな雰囲気で仕事してるのかも見てみたいし。きっと、見てみたら何てことないのよ、うん。
その時、急にドアが開いて小梅さんが出てきた。
後ろ手にドアを閉めた小梅さんは一度立ち止まると、ぐすんと鼻を鳴らした。そして顔を上げて大きく息をつくと、向こうへ去っていった。
目が、赤かった。…泣いていたの?
私はまた混乱した。
ルイと小梅さんが一つの部屋にいて、小梅さんが泣く。それってどういう状況?
ルイの胸で小梅さんが泣いている所を想像したら、頭にカッと血がのぼった。
私は踵を返すと、離宮の正面入り口に向かって走った。石段を降りて車寄せを出ると、ちょうどそこへカザムさんが、アンピィの手綱を引いて歩いて来た。
「あ、マドカさん」
私はつかつかと大股でカザムさんの前まで歩み寄ると、彼の持つアンピィの手綱を奪った。そして、何事かと驚く彼を尻目にそれに飛び乗ると、一言だけ
「カザムさん、今日は飛ばしますから!」
アンピィの腹に踵を強く食い込ませると、蹄は勢い良く地を蹴った。
ただ、思い切りアンピィを走らせた。何も考えたくなかった。道なんてわからなかった。いつの間にか追いついて来たカザムさんが隣に並んでいた。それでも私はスピードを緩めることもせず、ただ耳の横で風が鳴る音だけを聞いていた。どのくらい走らせただろう。気がつくと昨日ピクニックをした川のほとりに来ていた。私はやっと手綱を引き、アンピィを止まらせるとその背から滑り降りた。カザムさんも獣から降りて、二頭を川へ引いて行き、水を飲ませた。彼らをそのままにしてカザムさんは私の隣へ来ると、「まあ、座りましょう」と草地へ促した。
「一体どうしたって言うんです」
カザムさんは水のボトルを私に差し出した。私は喉を鳴らしてそれを飲み、彼に返す。彼もボトルを煽った。
「今夜は離宮には戻りません。ルイと会いたくないんです」
「それではどこで寝るんですか?」
「一人でホテルにでも部屋をとります」
「でも、どうしていきなりそうなるんですか」
「だって……」
私はカザムさんに一部始終を話した。昨日の会話のことから、さっき見た小梅さんの涙に濡れた顔のこと。小梅さんと会ってからルイの様子がなんだか変なこと。
「小梅さん、可愛いし、私と全然違ってすごく女性らしくて。私みたいに、思ったことはすぐにぽんぽん口にしないし。ルイが心変わりしないって誰が言えます?! だいたいルイは狙った獲物は逃さない男ですから、カザムさん、こんなところで私の相手をしている場合じゃないですよ?」
カザムさんは大きなため息を一つついた。そして私に向き直る。その顔には険しいものが浮かんでいた。そのうえ極力感情を押さえつけたような声で言った。
「マドカさん、あなたはルイさんがここに何をしに来ているかわかっていますよね? バーシスを代表して、レモニーナ先生の教えを十分受けるに値する人として派遣されて来ているんですよ。たとえコーメがルイさんの目に魅力的に映ったとしても、公務と私情を混同させるような人ではないと、俺は思っています。彼はそんな頭の悪い男だと、マドカさんは思いますか? あなたがもっとルイさんを信じてあげられなくてどうするんですか。それともあなたたちはすぐに相手を疑ってしまう、そんな浅い関係なんですか」
「でも……」
その後には言葉が続かなかった。カザムさんの言うことはもっともだ。私は俯き、唇を噛んだ。
カザムさんはそんな私が可哀想に見えたのか、そっと肩に手を置いた。
「……まあ、昨日の会話は多分なにかの誤解でしょう。なんとでも取れます。でも、コーメが泣いていたのは聞き捨てなりません。わかりました。少しルイさんを罠にかけるくらいこの場合、許されてもいいかな……」
と、カザムさんは一人で何やら納得している様子。罠? カザムさんは何を考えているんだろう。
彼は短く口笛を吹き、森から出て来たポステを肩に止まらせてメッセージを書くと、その小さな相棒を送り出した。
「さあ、コーメにもメッセージを出しましたし、行きましょう。お見せしたいものがあります。ああ、その前に近くで何か食べるものを調達しないと。あそこには何もありませんから。腹が減っては戦が出来ませんし、時間はたっぷりあります。ルイさんが痺れを切らすまでの、ね」
そう言ってカザムさんは、普段の彼に不似合いな策士の笑みをうっすらと浮かべた。
ひえー、カザムさん、一体どんなメッセージを書いたの?!
ルイさんに励ましてもらった私は、何だか心が一段階強くなったような気分で、カザムさんに想いを馳せながらルイさんの手伝いをしていた。
ルイさんが使い終わった資料を博物館に返しに行った帰り、カザムさんとまどかさんはどうしたかしら…と思いながら渡り廊下を歩いていると、オレンジ色の姿がツイーッと私の周りを半回転し、腕にとまった。
ポステが手紙を持ってきてくれたのだ。
足についている通信筒を開けると、くるくると丸められた小さな紙。きっとカザムさんからだ…今どこにいるのかな。
目を通した私は、一瞬その意味を理解できず、頭の中が真っ白になった。
『コーメへ ルイさんに伝えてください。今夜はカザムが、マドカさんを帰さないと。モリオ』
のどに何かが詰まるような感じがした。
…何、これ。どういう…こと?
ショックな文面なんだけど、同時に私は大きな違和感を感じた。フリーズしそうになる思考を懸命に動かす。
…もしも、カザムさんが、まどかさんに心奪われたとしても。それを私にこんな形でわざわざ伝えるなんて、まったく彼らしくない。このメッセージは変だ。
そしてやっと、一番最後の“モリオ”の文字に意識が行った。
私がこの世界に来て、まだカザムさんがカザムさんだと知らなかった頃。その時の状況から私がつけた彼の呼び名が、“森男”だ。それ以来、私と彼の間でだけ、その呼び方が使われることが時々あった。
『俺はあなただけの森男ですから』
そう言ってくれたのを、忘れるはずがない。それなら、このメッセージには何か意味がある。
そこに思い至れば、次の思考にたどり着くのは簡単だった。
やっぱり、まどかさんの様子が変だと思ったのは気のせいじゃなかったんだ。ルイさんとのことで、何かあった。それでカザムさんが、こんなメッセージを…。きっとそうだ。
私はおへそのあたりに力を入れ、ぐっと顔を上げた。
皮肉なことに、さっきルイさんに励ましてもらった私は、カザムさんを無条件で信じている。だから、彼に何か意図があってこんなメッセージを送ってきたのなら、私がやることは一つ…裏があると知ってても、ルイさんが怒るとわかってても、ルイさんに伝えること。
でもそれはきっと、『地』が固まるための『雨』なんだと思うから。
心を決めた直後、いきなり後ろから声がした。
「あ、カザムからの連絡?」
「どひ!」
変な声を上げて振り向くと、ルイさんが立っていた。眼鏡を外し、眉間を揉んだり首を回したりしている。仕事が一段落したらしい。
「まどかとカザム、どこに行ってるって? 今日は少し時間が取れるって、あいつに言ってあったんだよね。できれば合流しようかな」
「あっ、あの…ね、ルイさん…」
演技なんか必要なかった。うろたえた私は、カザムさんからの手紙を、ルイさんに差し出すんだか差し出さないんだかわからない、中途半端な位置に持ち上げる。
ルイさんは無造作に手紙を手に取ると、さっと目を通した。
ぴき、と空気にひびが入る音を、私は確かに聞いた。
「そ、それ、きっと何か意味が」
「何かって?」
声が変わった。怖い。ルイさん怖い。
「ねえ、小梅。これ、何かの冗談? 冗談でもオレ笑えないんだけど。それとも何? これってバーシスの軍人を試すプログラムかなにか? 『人さらいの現場に立ち会った場合どう行動するか』とか? おたくの護衛士、人さらいの訓練までするの。まあ、人質を取れば敵側は手も足も出ない場合だってあるもんなあ」
こ、怖いっ! ルイさん、口調は穏やかでも瞳の温度は氷点下! ドライアイスの白い煙みたいな幻覚が見える。そばにいるだけで凍傷になりそう。
私は彼の怒りの迫力に一歩退いた。彼は静かに私に近づいた。
「ほんと、場合に寄ってはバーシスがなんとかしないでもないよ? この美しいウィオ・リゾナがどうにかなっちゃうかもしれない」
ええっ、それって宇宙戦争とかそういうのですか?! そういえばこの方は、研究者なのと同時に軍人さんで、カネラ(大佐)の称号を持つ人だった!
ちょ、待って!! 違うの! これには訳が……たぶん……て、言ったところでルイさん、もう聞く耳ないよね……もう、だめだ。
人の怒りは、すごいパワーを生む。その波動を間近で受けた私は、数秒しかもたなかったよ。もうちょっと引っ張ろうと思ったのにごめんねカザムさん!
「る、ルイさん、私、二人のいる所に、急に心当たりが! アンピィ乗れますか、私を乗せてって下さい!」
うう、私は人をだますのはホントに向いてない。