第五話
「ただいまーー」
テラスからまどかさんの元気な声が聞こえて来た。日も暮れかけた頃だし、そろそろ戻って来ると思ってたのよね。
私は食堂でテーブルセットをしていた手を止めて外に出た。
丁度カザムさんとまどかさんはアンピィから下りるところだった。
「あれ? まどかさん、アンピィに一人で乗ったんですか?」
「そうなんです。私、けっこう得意なんですよ。すっごく走らせちゃった。アンピィがちょっと可哀想だったかな」
彼女は上着のポケットに両手を入れたまま、肩をすくめた。あれ、なんだか一瞬だけどまどかさんの私を見る目に影がさしたような……?
「大丈夫ですよ、あれくらいではアンピィはくたばりませんから」
カザムさんはアンピィの首を軽く叩いた。
「そっかーー。じゃあ安心」
まどかさんはいつもの笑顔に戻った。うん、気のせいよね。それにしても、カザムさんと並んでアンピィを走らせられるなんて、うらやましい。
「まどかさん、お腹空きました? もうすぐで食事の用意が整います。まどかさんの支度が出来たら、ルイさんと一緒に食堂にいらしてください。ルイさんはもうお部屋にいますよ」
「あ、じゃあシャワー浴びてから行きます。カザムさん、今日はありがとう! また後でね!」
まどかさんは彼にひらひらと手を振った。あ、けっこう打ち解けて。まどかさんは人懐っこいからな……。って、私なにへこんでるの? いけないいけない。へこみ、飛んでけっ!
「どうでした? まどかさん、遠乗り喜んでました? カザムさんも疲れたんじゃないですか?」
私は彼の近くまで行き、アンピィの鞍の金具を外すのを手伝った。
「いえ、とても楽しかったですよ。俺も女性とこんなにくだけて話したのは学生時代以来かもしれません」
彼にしては珍しく、本当に楽しそうにからりと笑う。
そ、そうなんだ……私といる時は、結構無口なのにね…。
黙って手を動かしていると、ふとカザムさんがあたりを見回してから、私のうなじに触れた。
「?」
顔を上げると、カザムさんの顔が近くにあった。
「ただいま」
唇がふわりと触れあう。
えっ、まさかこれは! 噂に聞く“ただいま”のキス!? どうしたのカザムさん、離宮内でこんなことするの珍し…!
そのとき、ふっと甘い香りが私の鼻をくすぐった。
あれ? これ、まどかさんの香水……? アンピィには二人乗りしていなかったんだよね? それでも二人はそんな距離まで、彼女の香りがカザムさんに移る距離まで近づいた、ってこと?
「…コーメ?」
黙って身体を離した私の顔を、カザムさんが覗き込むようにする。
「カザムさんも、さっぱりしてきたらどうですか?」
微笑んだつもりの私の声に、少し棘はなかっただろうか。
部屋に入るとルイがやっぱりデスクの前で書類に目を落としていた。
彼の姿を見たら再び、昼間の、彼と小梅さんとの会話が耳に蘇った。せっかく今日一日楽しい時間を過ごしたのに、またちょっと、落ちる。
「あ、お帰り。カザムと出掛けていたんだって? どうだった?」
ルイが顔を上げ、微笑んだ。何事も無かったかのようなあののんきなルイの顔。ちょっとムッとくる。
「……楽しかったよ。すっごく。カザムさんすごく気を使ってくれたし」
「ああ、彼はすごくマメなヤツだよな。なんでも先回りして仕事を片付けるタイプだ」
ちょっと、なに冷静に分析してるのよ。じゃあ、小梅さんはどうなのよ。
私が買い物の袋を寝室に置きに行こうと部屋を横切ると、彼は立ち上がり、私に近づいて来た。まだ何かあるのかな、と私はふと足を止めると、そのまま彼は後ろから私を抱きすくめた。
「おまえ、今朝機嫌悪かったの、あれ、オレが全然構ってやらないからだろ。ごめんな。今日は小梅のおかげでかなり仕事がはかどったから、明日は少し時間が取れそうだ……そうそう、小梅が『まどかと二人きりのときは何するの』って聞いて来てさ……困ったよ。二人きりでやることなんか決まってるのになあ。まあ、でも彼女には刺激が強そうだったから『映画に』って言っておいたけど」
そう言いながらゆるゆると私の体を撫で、いつの間にか胸が両手にすくわれていた。首筋を軽く吸われる。
小梅さんのおかげでそんなに仕事がはかどったんだ。ふーーん。彼女には刺激が強そうって、そうよね、私よりもずっと純情そうだもんね。何が映画よ。二人きりのときはいつもオレがまどかをベッドに張り付けて『ゆるして』っていうまで離さない、っていえばいいじゃない。なんで彼女の前でいい顔するのよ?
そう思うと一瞬で頭に血が上った。彼の、胸を包む愛撫の手が、首筋を這う唇が、他人のそれに感じて嫌悪を催した。私は彼の腕から逃れると、
「わ、私汗かいちゃったからシャワー浴びて来る。それに、もう夕食だって」
「?」
いきなり腕を振りほどかれたルイはいぶかしげな顔をしてその場に立っていたが、私は背を向けてそのまま寝室に入った。
だめだめ、落ち着かなきゃ。二人の間に何かあったわけじゃないんだから。……何かって?
その夜も夕食を4人で和やかにとり、私は前日のようにルイより早くベッドに入った。
カザムさんが夕食のときに約束してくれたもん。明日もまた好きなところに案内してくれるって。
私はベッドの思いっきり端に横たわり、まぶたを閉じた。
今日は朝からレモニーナさんが来て、ルイさんは昨日までにたまった疑問点をぶつけまくっている様子。私はその間に、まどかさんに庭のツリーハウスを案内しながら、話に花を咲かせていた。
何だか、今日もまどかさんは時々ため息をついてたけど、話しかけるとニコリとおざなりでない笑みを返してくれる。真っ直ぐな性格が現れた、素敵な笑顔だ。
そんなまどかさんを見ながら、昨日のルイさんの提案――まどかさんがカザプカを通じて地球と連絡を取れないかと言う――について考えているうちに、私には気になり始めた事があった。
レモニーナさんが帰って行った後で、ルイさんに昼食を運んで行った時、やはりカザプカの話になった。
「あの、ルイさん」
私は聞いてみる。
「まどかさんは、こちらを選んで地球に帰らなかったんですよね。でも、連絡が取れたら…また、迷ったりはしないでしょうか」
ルイさんが、椅子を回してこちらに向き直る。
「小梅は、迷っているのか?」
「迷うどころか、私は心の一部は日本に置いたままです。私が日本に残してきたものは命より大切なものだから、私自身が納得してそうしているつもりです。ただ、こちらに来てすぐに、こちらにも大切なものができてしまったから、とても…切ないけれど」
あ。口にすると泣きそう。
私はぐっと堪えて顔を上げた。
「だから、まどかさんが日本の誰かともう一度つながりを持つことで、辛い思いをするんじゃないかって…」
ルイさんは立ち上がると、私の横に立って軽く背中を叩いてくれた。背が高いので、それだけで何だか包み込まれるみたい。
「ありがとう。そうかもしれないな。でも、連絡の手段があると知っていて隠すのはフェアじゃないような気がして…」
見上げると、ルイさんはふっと笑って、
「もしかしたらオレは、まどかにそれを教えて、もう一度オレを選ばせたいのかもしれないな。まどかはつれないから、時々愛情を確認したくなる」
「…ルイさんは、そうできるくらい、まどかさんを信じてるんですね」
それに比べたら、私はダメだ。
そう思ったら、いきなりぼろっと涙がこぼれてしまった。
「小梅」
「う、あ、ごめんなさい。でも私、カザムさんに、ちっとも応えられなくて」
こんな話、他の人にはしたことないのに、私は胸の内を素直に打ち明けていた。
「…好きなのに、いつか、信じてもらえなくなるかも…」
ぐしぐしとハンカチで目元を拭いていると、ルイさんが私の肩に手を置く。
「そうか……小梅はそんなに苦しんでいるのか。それじゃあ本当にまどかが辛い思いをするってこともあり得るんだな……オレ、少し成り上がっていたかも。まどかがオレを選ぶって。信じているというよりもうこれは”願”に近いな。うん。小梅、オレはなんだか不安になって来たぞ」
さっきまでの余裕はどこへやら、私の前で腕を組んで目を閉じて考え込んでしまったルイさんを、私は呆気にとられてみていた。と、突然目を開けたルイさんと思いっきり視線が合う。わ、びっくりした。
「まあ、それはそれで出たとこ勝負だ。でもな、小梅。カザムは君に答えを出して欲しいわけじゃないと思う。日本かこっちか。娘さんかカザムか。彼は迷っている君ごと包みこみたいと思っているはずだ。いや、カザムだけではなくてオレだってまどかに対してそう言う気持ちをもっている。だからたとえ今君が迷っていても、迷いのある君も君なんだから、甘えたいときは遠慮せずに思い切り彼に甘えるべきだ。彼もそれを望んでいるはずだよ。それが君の、彼に対する”応え”だよ。たとえ万が一、小梅が日本に戻ることになったとしても、それを裏切りとかそんな風に思う男じゃない。もっと彼を頼るべきだ。それともカザムは小梅にとってそんなに頼りない男なのか?」
私はぶんぶんとかぶりを振った。ルイさんはそっと私の両手を取って、ずっと近くで瞳を覗き込んだ。
こ、こんな泣きはらした顔、見ないでーー。
「それでも小梅みたいな可愛い女性が目の前で泣いていたら、つい、慰めたくなるのが男ってもんだぞ? どう? オレに慰めてもらいたい? それとも……」
ルイさんはちょっと意地悪く口の端だけ上げて笑った。
「……カザムさんに、慰めてもらいたいです~」
またぽろぽろと涙がこぼれる。今度は、悲しくて泣いてるんじゃない。ここにいない彼が恋しくて。
「だろ? ああ、君のカザムは悪いがこの時間、まどかが独占してるな。帰って来たら嫌ってほど甘えるんだな」
ぽん、と彼は私の頭に手を乗せた。
「ありがとう、ルイさん…」
どうにか涙を止めて、笑う。まどかさんも幸せだな…こんなに頼りがいのある恋人がいて。
「あ~みっともないな、私ちょっと目を冷やしてきますね。それからすぐに仕事を片付けてしまいましょう!」
恥ずかしくなった私は、ぱっと身をひるがえして部屋を出た。