「君を愛するつもりはない」と言った王命結婚の旦那様を、論破しました。
「期待しているなら悪いが、君を愛するつもりはない」
「…………はぁ?」
告げられた言葉に、リフィナは可憐な顔には似合わない低い声で聞き返した。
先ほどまで精悍で素敵と思っていたユスタスをあきれた目で見返す。
ここは夫婦の寝室。
彼は今日、夫となったばかりだ。
なにを言いだすのかとユスタスをまじまじと見つめた。
しかし、彼は大真面目な顔をしていて、質の悪い冗談を言っているのでもなんでもないらしい。
(ふざけないでよ! ようやくあの家から逃れられたと思ったのに……)
リフィナにはそうですかと素直にうなずけない理由があった。
そこで、彼女は心に決めた。
よし、論破しよう、と——。
その少し前のこと。
「うぅ……」
リフィナ・グレイス・エイケン侯爵令嬢は、寝室のベッドに座り、頭を抱えていた。
先ほど脚を滑らせて、天蓋を支える柱に頭をぶつけてしまったのだ。
ゆるくウェーブを描くプラチナブロンドが胸もとに落ち、猫のように少し上がり気味の目が痛みを堪えるようにすがめられている。
そんな表情をしつつも、リフィナの容姿は可憐で人目を惹くものだ。
特に紫の瞳が印象的で、思わず見つめたくなる魅力がある。
幼いころから貶されて育った本人にはそんな自覚はなかったが。
今日はユスタス・リー・マシューズ侯爵令息との結婚式だった。
代々優秀な文官を輩出するエイケン侯爵家と質実剛健な武官を司るマシューズ侯爵家は昔からライバル関係で、いがみ合っていた。
特に両家の現当主は同い年だからか取り立てて仲が悪く、足の引っ張り合いをして政策にも支障をきたすほどになっていた。
見かねた国王の命で、両家は婚姻を結び、強制的に融和させられることになったのだ。
そこで選ばれたのが、鍛錬に精を出しすぎて結婚する気配のないマシューズ家長男のユスタスと、長子なのに虐げられているリフィナだった。
母違いの妹がいるのに、リフィナは厄介払いのようにマシューズ家に嫁ぐように言われた。
(つまり、少なくともお父様のほうは融和する気がないということね)
そうした事情でピリピリとした結婚式をなんとか無事に終え、これから初めての夜を迎えるところであった。
風呂で肌を磨かれ、薄い夜着を着せられたリフィナは、緊張のあまり寝室の中をうろうろ歩き回り、脚がもつれて柱で頭を打ったのだ。
その瞬間、妙な記憶がよみがえった。
見たことのない場所で、彼女は弁護士という仕事をしていた。
(なにこれ?)
彼女が混乱していたところにノックの音がして、ガチャリとドアが開く。
ドキッと心臓が跳ねた。
リフィナが顔を上げると、夫となったユスタスが入ってくるところだった。
すらりと背の高い彼は絹のローブをまとっているが、その薄い布越しにも鍛えられた筋肉が見てとれる。
彼も家柄に違わず腕の立つ騎士で、次期騎士団長だろうともっぱらの噂だ。
短く刈り込まれた金髪に精悍な顔立ちは、未婚の女性たちの熱い視線を集めるもので、リフィナもうっとり見惚れる。
でも、彼は誰にもなびかない堅物だという噂もあった。
マシューズ侯爵家を嫌悪している父と違って、妹はユスタスとの結婚がうらやましかったみたいで、噂話をせっせと教えてくれたのだ。
「どうせあなたなんか相手にされない」と言って。
それを裏づけるように、彼の青い瞳がリフィナをちらりと見て、すぐ逸らされた。そして、ユスタスは眉を寄せ、厳格な顔になる。
結婚するひと月前に一度顔を合わせたきりだったが、その時もこんな表情をしていた。
彼にとっては王命で仕方なく従っただけで、迷惑な結婚なのだろう。
ユスタスの気持ちを考えると、胸がチクリと痛んだ。
それでも、これから夫婦として長い時を過ごすことになるのだからとリフィナは気を取り直して、彼をしげしげと観察するように見た。
(それにしても、やっぱり好みだわ)
顔がいいのはもちろん、ほどよく筋肉がついた分厚い胸板に太い手足、頑強な肉体を眺め、リフィナの鼓動がトクトクと速まる。
文官ばかりのエイケン侯爵一族の男性は線の細い者ばかりだったが、リフィナは本当は筋肉質な男が好きだった。
もちろん、犬猿の仲のマシューズ家の男性が好みだなんて、今までは口が裂けても言えなかったけれども。
ユスタスが大股で彼女に近寄ってくる。
(この人とこれから夫婦になるのね)
ドキドキとしつつ、上気した頬で彼を見上げたリフィナは魅惑的だった。
それを見て、ユスタスがゴクリと喉仏を動かす。
ベッド脇に立った彼は一呼吸おいて、口を開いた。
「期待しているなら悪いが、君を愛するつもりはない」
「…………はぁ?」
告げられた言葉に、リフィナは唖然とする。そして、低い声で聞き返した。
好かれているとは思っていなかったけれど、王命なので、普通の夫婦生活はあるのだと思っていたからだ。
(むしろ、義務じゃない?)
憮然とした彼女の反応は顔に似合わない迫力で、ユスタスは面食らったように目を瞬いた。
「いや、だから、俺は君を抱かないと言っているんだ。それだけを伝えに来た」
戸惑いつつも彼は言葉を変えて、同じようなことを言う。
そんなユスタスをまじまじと見つめるが、彼は大真面目な顔をしていて、質の悪い冗談を言っているのではないらしい。
(ふざけないでよ! ようやくあの家から逃れられたと思ったのに……)
リフィナはエイケン侯爵家で義母から虐待を受けていた。
母は早くに亡くなり、父の後妻との間に生まれた妹だけかわいがられて、リフィナは召使いのような扱いだったのだ。さらに義母からはしつけと称して叩かれたり水をかけられたりしていたが、妻を愛する父はそれを容認していた。
そして王命が下ったとき、父はちょうどいいと、リフィナをマシューズ家に差し出した。
本来なら長子であるリフィナが婿を取ってエイケン侯爵家を継ぐはずなのに。
(やっぱり私はいらない子だったのね……)
リフィナはあらためて現実を突きつけられて悲しみに暮れた。
それでも、家から出られるチャンスだと自分を鼓舞し気を取りなおして結婚に臨んだのだ。
だから、ユスタスの言葉にそうですかと素直にうなずく気はさらさらなかった。
そこで、彼女は心に決めた。
(よし、論破しよう。今の私にならできるわ)
彼女には自信があった。
先ほど頭を打ったときに思い出したのは、どうやら前世の記憶のようだ。
日本という国で弁護士をしていたリフィナは、道路に飛び出した子どもを庇って車に轢かれてそのまま亡くなり、転生したらしい。
(あんなに頑張って弁護士になったのに……)
憧れの弁護士になったばかりだった。
悔しい思いに唇を噛むが、いまさらどうすることもできない。
でも、前世での経験を今の状況に活用できるのではないかと思った。
今までひかえめでいじめに耐えることしかできなかったリフィナだったが、前世では弁論大会で何度も優勝するほど口が立ち、年上の男性にさえもはっきり自分の意見を言って、議論を戦わせていたのだ。
だから、きっとユスタスを説得できるに違いない。
彼がなにを思ってリフィナを抱かないと言い出したのかはわからないが、すべて論破して夫婦生活を始めなくてはここにも居場所がなくなる。
(あの家にはぜったい戻りたくないもの!)
今のリフィナだったら、義母や父にも言われっぱなしということはないが、これまでの経験からおびえる自分もいる。
それだったら、ユスタスを攻略して、マシューズ家で快適な暮らしを手に入れるほうがいい。
リフィナは自分を愛さないと言ったユスタスに向かって、なるほどわかったとうなずいた。
微笑みさえ浮かべている。
「旦那様は不能なのですか? それなら仕方ないですね」
「なっ! 断じて違う!」
明るく無邪気に告げた彼女に、ユスタスは顔を赤らめ、強く否定した。
男性機能を疑われるとは不本意だったのだろう。
動揺を誘ったあと、リフィナはすっと冷めたまなざしになり、淡々と尋ねた。
「それなら、王命による結婚で、子を成すことが両家の融和の象徴だというのに、それを拒否する明確な理由を教えてくださいませ」
大人しい印象のリフィナから反論されるとは思っていなかったようで、ユスタスはたじろいだ。しかし、すぐ表情を戻して、冷たく言い放つ。
「胸に手を当ててみればわかるだろう」
リフィナは大人しくその言葉に従い、胸に手を当ててみせた。
そして、にっこりと笑って答える。
「なにもわかりませんわ。そもそもなんのヒントも与えずに自分の考えを察しろと言うのは傲慢だと思いませんか? あなたとは今日を含めて二回しかお会いしていないのですよ?」
「傲慢……。そ、そうか。いや、それでも、君には反省というものがないのか!?」
慇懃無礼に正論を投げつけてみたら、ユスタスは一瞬考える素振りをしたけれど、すぐ憤ったようにリフィナを咎めてきた。
しかし、彼女は平然と返す。
「反省とは自分の身を振り返ることですわよね? 考えても思い当たることはございません。それに、そもそも私の行動と王命になんの関係があるのでしょう?」
「大いにあるから言ってるんだ!」
よほど気に食わないのか、しかめっ面でユスタスは自分の言い分を主張してきた。
「ジェマが、君はふしだらで、すでにほかの男と関係を持っているから、身ごもっていないかしばらく様子を見たほうがいいと言っていたんだ」
「ほかの男?」
「マシューズ侯爵家にほかの男の血を入れるわけにはいかないから、君を抱くことはできない」
「…………はぁ?」
リフィナはもう一度、地の底を這うような低い声を出し、まっすぐ彼を見つめた。
強靭な心身を持つと言われるユスタスが、なぜかビクッとする。
その様子はさながら、子猫からパンチを受けてひるむ獅子のようだった。
もちろん身に覚えがない話のうえ、そんな噂を鵜呑みにしているユスタスにフツフツと怒りが湧いてくる。
激高して震える拳を握りしめ、彼女は冷静になろうとふぅと息を吐いた。
前世の経験から、議論をするときに感情的になるのは得策ではないと知っていたからだ。
どこから突っ込もうかとユスタスを見つめて、まずは事実関係を確認することから始めてみた。
「……ジェマ様って、なぜかこのお屋敷で我がもの顔で暮らしている方のことですか?」
「あぁ、俺の従妹で幼なじみだ。紹介しただろう?」
「えぇ、彼女がずかずかと私たちの夫婦控え室に入ってきたときに、ね」
「そういう言い方はないだろう。ジェマは俺たちのことを祝って……」
ジェマは結婚式の直前に先触れもなく控え室にやってきて、慣れ慣れしくユスタスの腕に触れ、自分がどんなに彼と親しいかをリフィナにアピールしてきた女性だ。
小柄で可愛らしく、天真爛漫な様子だった。
彼女の態度に慣れているようなユスタスは、それに対してなにも感じていないようで、好きなようにさせていた。
そのときのリフィナは不快に思ったものの、前世を思い出す前だったのでなにも言えず、ジェマのおざなりな挨拶を受けただけだった。そして、マシューズ侯爵家に帰ってきたときに、そこにジェマの姿を見つけて目を疑ったのだ。どうしてここにいるのか、と。
ジェマは親戚の男爵の娘で、田舎の領地が嫌だと言って、王都のマシューズ邸に居候しているらしい。
ユスタスに駆け寄って、その腕にしがみついたジェマは勝ち誇ったようにリフィナを見た。
敵意を感じる視線からして、ユスタスの妻の座を狙っていたのかもしれない。
ユスタスもジェマもどういうつもりだろうとリフィナはあきれたが、やはりそのときは問いただすことはできなかった。
(でも、もうあのときの私とは違うのよ)
リフィナはユスタスをまっすぐ見つめ、静かな声で問いかける。
まずは正攻法だ。
「なんの権利があって、男爵令嬢が侯爵令嬢である私に慣れ慣れしく話しかけ、私の夫であるあなたに親しげにするのでしょうか?」
「俺の幼なじみなんだ。堅苦しいことは言うな」
「幼なじみだからなんだというのでしょう? 幼なじみはなんでも許されるのですか?」
「……」
貴族の礼儀に著しく反していることを指摘すると、ユスタスは黙り込んだ。
考えたこともなかったようで、彼は気まずげにしている。
意外と聞く耳はあるようだ。
そこで、今度は感情に訴えてみることにする。
「私は悲しかったです。結婚したばかりの旦那様に女性の影があるなんて……」
「ジェマはそんなんじゃない! ただの従妹で家族のようなものだ。君が疑うような男女の関係などない!」
リフィナが眉を下げて瞳を潤ませると、ユスタスは慌てたように弁解してきた。
彼は本気で言っているようで、ジェマの気持ちは少しも伝わっていなかったみたいだ。
それが確認できて、リフィナは胸がすく。
でも、上目遣いでリフィナは念を押した。
「そうなんですか? でも、控え室でも先ほども、私よりジェマ様のことを優先されていた気がするのですが……」
「そんなことはない。君は俺の妻になったのだから、優先すべきは君だ」
「それを聞いて安心しました。それでは、使用人にもそれを通達してくださいね。先ほどの様子ではジェマ様が使用人を取り仕切っているようでしたので」
「もちろんだ。君は侯爵夫人である母の次に優先される」
意外にもユスタスは失礼な発言をしたわりに、リフィナを妻として認めているようだ。
噂通り、四角四面な性格であるがゆえ、妻としたからにはそれなりの扱いをするつもりなのかもしれない。
(よし、言質は取った!)
リフィナはひそかに拳を握って喜んだ。
実家とは違って、虐げられないのだと安堵した。
しかしそれなら、リフィナがふしだらというのを信じているのはどういうことだろうと疑問が湧く。
悪口はジェマが彼女を貶めようと吹き込んだのだと思うが、それを本人に言ってしまうなんて浅慮すぎる。
リフィナは本題に入ることにした。
「ありがとうございます。それでは、私が誰かほかの男性の子を身ごもっているかもしれないというのは、なんの根拠があっておっしゃっているのでしょうか?」
「それはジェマが……」
「あなたはジェマ様が言ったらなんでも信じるのですか?」
「そんなわけないだろう。ジェマが社交界でそういう噂だと聞いてきて――」
ジェマがジェマがと繰り返すユスタスを半眼で見て、リフィナは問いただす。
弁護士だったので、追及はお手の物だ。
「ですから、そうおっしゃるからには歴然とした証拠がおありなのでしょうね? まさかそれもなく疑って私を侮辱したのですか?」
「……す、すまない。言われてみると証拠はない。俺はその噂を聞いて、カッとなってしまって……」
リフィナが大げさに驚いてみせると、ユスタスはグッと詰まったあと、謝った。
どうやら彼は自分の間違いを認められる人らしい。
見た目のわりに子どもっぽい気もするが、その素直さは嫌いではない。
あまりにあっさりと退くので、リフィナは毒気を抜かれた。
それでも、はっきり宣言した。
「私は誓って清い身です。そもそも、父に社交は許されておりませんでしたので、男性と知り合うこともありませんでした」
(舐めないで! 私は前世からずっと処女よ!)
前世では弁護士になるという夢を叶えるために脇目も振らず勉強に励んでいて、恋愛とは無縁だった。現世は言った通り男性と言葉を交わすことさえほとんどなかった。
どこにふしだらな要素があるというのか。
ついふてくされるような気分になってしまう。
「そういえば、君を舞踏会などで見かけたことはなかったな。妹のほうはどこにでも顔を出していたのに」
ユスタスがなぜだと首をひねる。
妹がダンスしている間、リフィナは屋敷の床を磨いているか、繕いものをしていた。
貴族令嬢にはあるまじき荒れた自分の手を見て、彼女は溜め息をつく。
それに釣られるように視線を落としたユスタスも、彼女の手を見て驚いた顔をした。
結婚式では手袋をしていたから、手荒れを知らなかったのだ。
思わずというように、彼女の手を取り、聞いてくる。
「この手はどうしたんだ!?」
リフィナは恥ずかしくなって、ユスタスの視線を遮るように自分の手を背中に隠した。
同情をされたいわけではなかったからだ。
「そんなことはどうでもいいんです。問題はあなたが私の処女性を疑っているために、抱けないとおっしゃっていることです!」
「そうだったな。噂の出処を確かめなくては。それが事実無根であるなら、マシューズ家の者を愚弄する輩を懲らしめなくてはならない」
疑いは晴れていないものの、ユスタスはリフィナをマシューズ家の一員として認め、その名誉を回復してくれる気でいるようだ。
それがたとえ家のためだとしても、リフィナはうれしかった。
でも、ここが勝負だと彼女はじっとユスタスを見つめて言う。
「それなら、あなたが証明してください」
「はっ?」
「私は処女です。抱いたらそれがわかるでしょう? むしろ初夜になにもしないほうが私の悪名を助長することになりかねません。あなたはそれに加担するおつもりですか?」
今度は彼の正義感に訴えかけてみた。
案の定、ユスタスは険しい顔で反論してくる。
「バカにするな! そんな卑怯なことを俺がするわけがないだろ!」
「それでしたら、あなた自身が確かめて、噂を払拭してくださいな」
「な、なるほど……」
さぁ、とリフィナは両手を開いて彼に身体を差し出すしぐさをした。
すると、ユスタスはごくんとツバを呑み込んだ。
(これはいけるわね)
元弁護士の勘が彼は落ちたと告げている。
意外と早かったと内心にやりとした。
しかし、予想に反して、彼は気づかわしげなまなざしになって首を横に振った。
「……だめだ」
「どうしてですか!?」
完全に論破したと思っていたのに拒否されて、リフィナは思わず大きな声をあげてしまう。
訳がわからないとユスタスを見上げた。
彼は真摯な顔で告げてきた。
「君の言うことも一理ある。しかし、俺は根拠のない疑いを持って妻を非難してしまった。このままなにもなかったように君を抱くことはできない」
(えぇぇぇー! そこは抱いてよ!)
ユスタスは思っていた以上に堅物だったようだ。
それでも、引くわけにはいかない。
リフィナは生真面目な彼を説得しようと試みた。
「悪いと思っているのなら、抱いて噂がでたらめだと証明してください」
「いや、俺の贖罪は君を抱く前に悪評を払拭することだ」
そんなことは望んでいないのに、おかしな方向になっている。
リフィナは焦りつつも、今度はユスタスを煽ってみた。
「そんなこと言って、やっぱり私を疑っているから抱かないんじゃないですか?」
なんとしてもちゃんとした夫婦になって、マシューズ家に根を下ろしたかったのだ。
しかし、彼女の揶揄にユスタスは乗ってこなかった。
冷静な瞳で、否定する。
「いいや、君がそれほど言ってるんだ。信じるよ」
「それなら——」
「安心してくれ。俺が全力でくだらない噂をかき消すから」
「それは有難いですが、でも——」
「じゃあ、今日は疲れただろうからゆっくり休んでくれ」
リフィナが反論する間もなくユスタスは一方的に告げて、踵を返して寝室を出ていこうとする。
思わず、リフィナは切実な声で訴えた。
「だめです! 置いていかないでください……!」
その悲痛な声に驚いて、ユスタスが振り向く。
「どうしたんだ?」
心配そうに戻ってきてくれたので、リフィナはほっとした。
そして、素に戻っていた自分に気づく。
前世を思い出したとはいえ、ずっと虐げられてきたリフィナはこれからの生活に不安を感じていた。
王命で結婚したとはいえ、自分はマシューズ家と対立していた家の娘だ。
先ほどのやり取りを考えると、夫との関係性は最初よりましになったように思えるが、油断はできない。
すぐ追い出されたり、実家と同じ扱いを受けるかもしれないのだ。
(やっぱり抱いてもらわないと!)
しっかり夫婦生活を行って、妻として万全の地位を築きたい。
リフィナはキッと顔を上げ、ユスタスを見た。
「ここであなたに出ていかれると、私は初夜を失敗した嫁と見なされます。あなたは私を笑い者にしたいのですか?」
「そんなはずはないだろう。俺が黙っておけば——」
気軽に考えている様子のユスタスに、そんなわけないとリフィナは首を横に振る。
そして、彼の言葉を遮って断言した。
「メイドが侯爵様たちに報告するに決まっています。使用人にもあなたに顧みられない妻と思われるでしょうね」
「俺がちゃんと言っておく」
「なんと言うのですか? 私のふしだらな噂があったから初夜を行わなかったとでも?」
つい彼を攻める口調になる。
でも、人の口に戸は立てられない。
きっと面白おかしく噂を広められるだろう。
——あなたなんて相手にされない。
妹の言葉が今さらながら胸に突き刺さる。
結局のところ、ユスタスはリフィナではその気になれないから抱かないのではないかと悲しくなってきた。
(私はどこへ行っても必要とされていないの……?)
それに、主人に邪険にされている人間を使用人がどのように扱うのかはさんざん経験してきた。
またその立場に戻るのかと思うと、手が震えてくる。
知らないうちにうつむいてしまったリフィナの背中を、大きな手がそっとなでる。
ハッと視線を上げると、困ったような顔で自分を見つめる優しげな瞳がそこにあった。
「思いが至らず、申し訳ない」
ユスタスはそう謝ってリフィナの前に跪いた。
まるで誓いの儀を行う騎士のような態度に彼女が驚いていると、手を取られる。
自分を見上げる青い瞳に、リフィナの胸はドキドキとうるさくなった。
その体勢で、ユスタスが聞いてくる。
「君を抱いていいか?」
希うような彼の言葉を聞いて、リフィナは破顔した。
さっきから抱いてくれと頼んでいるのは自分のほうなのにと思って。
どうやらリフィナの夫は単純だけど誠実のようだ。
そういえば、父がマシューズ侯爵家を『腹芸ができない愚かな奴ら』と揶揄していたことを思い出す。
この単純でわかりやすい感じを言っているのだろうが、父のように策略を巡らす性格よりもリフィナにとってはこっちのほうがよっぽど好ましい。
それに自分のことをこんなに慮ってもらえたのは初めてで、心が温かくなった。
一方、彼女の笑顔になぜかユスタスが動揺して目をさまよわせていたが。
微笑んだリフィナは、ユスタスを促す言葉を告げる。
「私は結婚した以上、あなたと普通の夫婦生活を送りたいんです。だから、抱いてください」
「っ、わかった」
ツバを呑み、ユスタスはうなずいた。
そして、ベッドに乗り上げ、ゆっくりと彼女を押し倒した。
(やった! ようやくね)
笑みを深めたリフィナだったが、ユスタスの愛撫に戸惑う。
彼の武骨で大きな手が思った以上に優しかったからだ。
その手は髪や肩を通って、脇腹から腰をなでおろし、背中に向かった。
ゆっくりと彼に慣れさせるように。
壊れものを扱うようにそっと触れられると、落ち着かない気持ちになる。
背中をさすりながら、ユスタスは額に口づけを落とした。
そして、少しためらったあと、嫌がられていないと確信できたのか、唇にもキスをする。
自分が丁寧に扱われているのがわかって、なんとも言えない気分になった。
もちろん、嫌なのではない。
強いて言えば、慣れていないのだ。
「ん……」
口づけが深くなり、リフィナは甘い声を漏らした。
そして、自分の声に驚いて、顔を赤らめる。
ユスタスがクスッと笑ってつぶやいた。
「かわいいな」
先ほどまで威勢がよかったリフィナが借りてきた猫のようになって固まっているのを、そう評したらしい。
前世でも現世でもそんなことを言われたことのなかったリフィナは、ますます赤くなった。
最初は彼女に圧倒されていたくせに、余裕が出てきたユスタスを面白くなく感じる。
ユスタスがまたつぶやいた。
「本当に初心なんだな」
それを耳にして、ムッとしたリフィナは反論しようとする。
でも、そのとたん、かぶりつくようにキスをされて、口をふさがれてしまった。
髪をなで、キスを落としてくる様は優しい。
息があがったリフィナはなにも言えなくなった。
(き、急に甘くならないでよ!)
色恋沙汰にはうとくて、どうしたらいいかわからない。
完全に形勢逆転してしまっていた。
そのまま、リフィナは朝までさんざん貪られた。
疲れ果てた彼女は、ぐったりと肢体をシーツの上に投げだした。
(主導権を握っていたはずなのに、どうしてこうなったの……?)
思い通りの展開のはずだったのに、とぼんやり考える。
眠りに沈み込む直前、彼女は夫を不能と煽ったのを後悔した。
リフィナが目を覚ましたのは、翌日の昼近くだった。
窓から差し込む日差しがまぶしい。
でも、夜着をまとった身体は重く、すぐには起き上がれない。
「起きたか」
声をかけられて視線を向けると、ローブ姿のユスタスがベッドの端に腰かけて、にこやかに見つめていた。リフィナの頬にかかった髪をそっと指先でよけてくれる。
甘いしぐさだけでなく、彼はやけに明るい顔をしている。
「君の純潔は証明されたよ。あらためて謝罪する。疑って悪かった」
謝りながらも彼はきらめく笑みを見せる。
そういえば、ユスタスは出会ってから結婚式のときもこわばった顔のままで、彼の笑顔を見たのは昨夜が初めてかもしれない。
堅物という噂だし、強制された結婚が嫌でしかめっ面をしているのかと思っていたけれど、ふしだらな女と結婚しなければならないという憂いからそんな表情になっていたようだ。
「それはよかったです」
口を開いたら枯れた声しか出なくて、ユスタスがすぐグラスに水を注いでくれた。
彼はふたたびベッドに腰かけ、わざわざリフィナを膝に抱き上げて、グラスの水を飲ませてくれた。
身体がだるいので、ありがたくはあるけれど、恥ずかしくもある。
「ありがとうございます」
「いいや、俺は君の夫だからな。愛する妻の面倒を見るのは当然だ」
「愛する!?」
お礼を言って彼の膝から降りようとしたら、抱きとめられたうえ、そんなことを言われた。
目を丸くしたリフィナは大きな声で聞き返してしまった。
すると、照れたような顔でユスタスが告げてくる。
「本当は君に一目ぼれしてたんだ。でも、ジェマから君の悪い噂を聞いてショックを受けて、あんなことを言ってしまったんだ。君が俺を論破してくれてよかったよ。おかげでちゃんとした夫婦になれた」
「そうだったんですか!?」
誰かから好かれる経験などなかったリフィナは、彼の告白に頬を赤らめた。
そんな彼女を見て、ユスタスは「かわいい」とつぶやき、キスの雨を降らせる。
さらに彼は後ろから腕を回してきてリフィナを抱きしめると、耳元でささやいた。
「君が望む通り、いっぱい抱いてあげるから、夫婦生活に不安を覚えなくていいんだよ? 俺が不能でないことを証明しよう」
「ち、ちがっ……」
(私、そんなこと言ってないし、もう充分証明してもらったわ!)
そう思うのに、ユスタスがまたキスで口をふさぐからなにも反論できない。
言葉を封じられてしまうと、彼女は無力だった。
そこへ、コンコンとノックの音がした。
リフィナはビクッとして彼から離れようとする。しどけない恰好でユスタスの膝の上にいるのが恥ずかしかったのだ。でも、ユスタスは彼女を抱きしめて離さない。
じたばたしている間に、メイドが入ってきた。
「失礼します。旦那様、隣の部屋に朝食をご用意しました」
「あぁ、ありがとう。そういえば、朝食を頼んでいたな。それなら、朝食が終わったぐらいに、ジェマを呼んできてくれないか?」
「かしこまりました」
よく教育されたメイドは彼らのほうを見ずに一礼して出ていく。
羞恥に頬を染めたリフィナはユスタスを振り返ってにらんだ。
でも、彼は涼しい顔をしている。
「ユスタス様、メイドとはいえ、こんな体勢を見られるのは……」
「気にしなくていい」
「私が気になるんです! だいたい——」
「俺に愛する妻をかわいがらせてくれ」
「っ!」
論破しようとしたのに、甘い声でそう言われてこめかみにキスを落とされると、初心なリフィナはますます真っ赤になってうつむいた。
ユスタスはそんな彼女を愛おしげに見て、頬をゆるめる。
「本当にかわいいな。昨夜、俺を論破した勢いが嘘のようだ」
「もうっ、『かわいい』は充分です! お腹が空きました」
事あるごとに『かわいい』を連発されて、そのたびにどうしたらいいのかわからなくなる。
リフィナはごまかすように朝食をとることを提案した。
「あぁ、そうだな。これから時間はたっぷりあるんだ」
同意したユスタスは、彼女を抱え直し、そのまま立ち上がった。
食事が用意されている隣室へと、リフィナを抱えていこうとしているらしい。
「きゃあ!」
急に視線が高くなり、リフィナはユスタスの首もとにしがみついた。
さすが騎士だけあって、ユスタスはリフィナを軽々と運んでいく。
そしてソファーに腰かけた彼は当然のように膝にリフィナを乗せ、彼女に料理を食べさせようとした。
「じ、自分で食べられます!」
切り分けた肉をフォークに刺して、口元に持ってこられて、リフィナは抵抗した。
ニャーニャー騒ぐ子猫を見るようにユスタスは目を細める。
「あぁ、わかってる。でも、妻の面倒を見るのは夫の役目だと言っただろ? それに君に無理をさせてしまったから、これぐらいさせてくれ」
無理をさせた自覚はあったようだ。
それなら、一人で自由にさせてもらったほうがよっぽどいいとリフィナは思ったものの、完全なる好意で言っているようなユスタスになにも言えなかった。
観念して、口を開けると、肉が入ってくる。
柔らかに煮込まれて口の中でほろりとほどける肉に、思わずうっとりした。
エイケン家では肉はほとんど出なくて、あっても筋だらけの硬い端切れだった。
「気に入ったのか? もっと食べろ。君はやせすぎている」
にこりとうれしそうに笑ったユスタスに、お腹がはち切れそうなほどになるまで食べさせられた。
(こんなにお腹いっぱいになったのは初めてだわ。最初はどうなるかと思ったけど、マシューズ家、最高じゃない?)
リフィナはしみじみ幸せに浸る。
ただ満腹すぎて、目がとろんとしてくる。
ユスタスの身体に包まれてホカホカしているし、背中はがっしりとした胸板に支えられて、安心感がこの上なかったからだ。
ユスタスが膝掛けを掛けてくれる。
うとうとしかけたときに、ノックの音がした。
ハッとして、ドアに目を向けると、ジェマが入ってきた。
リフィナがユスタスに抱きかかえられているのを見て、悔しげに唇を噛んでいる。
でも、パッと表情を変えて、ユスタスに話しかけた。
「ユスタス、なにか私に用? その人は具合でも悪くなっちゃったの?」
綺麗なドレスを着て、ばっちり化粧をしたジェマが、薄い夜着を羽織っただけのすっぴんの自分をじろじろと見るから、リフィナは顔を赤らめて、ユスタスの身体に隠れようとした。
その様子を愛しげに眺めて髪をなでたユスタスだったが、ジェマに目をやったときには一転、厳めしい顔つきになった。
「その人ではない。俺の妻だ。礼儀をわきまえろ」
「なによ。もうほだされちゃったの? さすが男を手玉に取るのがうまいのね」
リフィナは違うと言いかけて、ユスタスを言いくるめて抱いてもらったのだから、似たようなものかと思い直す。
でも、この際はっきりさせようと告げた。
「私は男性と二人きりになったことさえないのに、手玉に取るなんてありえません。それに私の身の潔白はユスタス様が確かめてくれました」
意味ありげに寝室に視線を向けると、ジェマが目を吊り上げた。
しかし、ユスタスのほうがもっと険しい目でジェマを睨む。
「お前の言っていた噂はでたらめだった。リフィナは男をまったく知らなかった。いったい誰がそんなことを言っていたんだ? まさかお前がでっち上げたのではないだろうな? ことの次第によっては処罰を考えなければならない」
強い口調で責めるユスタスに、ジェマが蒼白になった。
上目遣いですがるように彼の腕に触れる。
「そんな怖い顔しないで。どうしてそんな急に冷たくなっちゃったの? 私たち、仲良しでしょう?」
すると、ユスタスはそっけなくその手を払い、眉間に深いしわを刻み込んだ。そして、冷たく彼女に告げた。
「誤解を招く言い方はよしてくれ。お前とはただの幼なじみなだけだ。それ以上の関係はないだろう? それに俺はもう既婚者だ。気安く触れるな」
「なんでそんなこと言うの? わかった。その人になにか吹き込まれたんでしょう?」
ジェマはユスタスの袖を引き、涙目で同情を引くような顔をする。童顔の彼女がそんな表情をすると庇護欲を誘う。
しかし、ユスタスはそれにほだされることなく、邪険に腕を振るってジェマの手をほどき、きっぱり否定した。
「違う。俺がリフィナに疑われるのが嫌なだけだ。……なるほど、お前のそういう態度がリフィナを不安にさせるんだな」
彼はリフィナに言われて、客観的に見ると自分たちがどう思われるのかに思い至ったらしい。
リフィナは彼らの言い合いを目を丸くして見ていた。
ユスタスがやけに頼もしい。
なんでも幼なじみの言うことを信じるという雰囲気だったのに、リフィナの言葉をしっかり尊重してくれているようだ。
彼がそんな態度だったので、ジェマは作戦を変えてきた。
「私はエイケン侯爵夫人から聞いたのよ。娘の男遊びに困ってるって。母親が嘆いていたら、本当のことだと思うじゃない?」
自分は悪くないと訴えるとともに、あくまでもリフィナを男にだらしないことにしたいようだ。
それでも、リフィナも負けていない。
ユスタスに対してしたように、即座に反論する。
「お義母様がそんなことを? でも、具体的に私はどなたと関係があったというのですか? その証拠は?」
「それは……そんなの、知らないわよ!」
適当な人の名を挙げることもできずにジェマは口ごもったが、開き直ったように叫んだ。
「知らない? それは不自然ですね。お義母様が嘆いていたにしても、あなたがそれを信じる根拠があったはずです。私はどこでどなたと会っていたのですか?」
「……舞踏会かなにかで会った人でしょう?」
「私は残念ながら舞踏会に出席を許されたことは一度もありません」
「許されなかった?」
ジェマはそんなことがあるのかと目を見開いた。
リフィナは淡々とジェマを追い詰める。
「そうです。ほとんど屋敷から出たことはありません。それなのに、どうやって男性と知り合うのでしょう?」
「そんな……。おかしいじゃない! あなた、侯爵令嬢でしょう?」
「そうですね。おかしいですよね」
あり得ないと声をあげるジェマに、リフィナは他人事のように答えた。
それは幼いころから自問してきたことだったからだ。
話題を変えるように、リフィナはパンと手を叩いて、ジェマを見た。
「さて、今のところ、あなたはよく知りもしない噂を元に、ユスタス様に私を抱かないように忠告したということでよろしいでしょうか?」
「い、いえ、私はそれは事実だったらいけないから様子を見たほうがいいんじゃないかと、親切心で言っただけで……」
冷静なリフィナに対し、こんなに追及されるとは思っていなかったジェマはたじたじとなる。
その彼女に冷めた視線を送って、ユスタスがつぶやいた。
「結局、なんの根拠もないのに、お前はリフィナとの初夜を延期するように言ったんだな」
「だって、あなたも納得してたじゃない!」
「その通りだ。浅はかだったと反省している。そんな俺の目をリフィナが覚まさせてくれたんだ」
そう言ったユスタスは腕の中のリフィナの髪をなでおろし、その一房を取り上げ、口づけた。
リフィナとの口論に負け、さらにユスタスに甘い雰囲気を醸し出されて、居たたまれなくなったのか、ジェマが尖った口調で言う。
「もう用は済んだ? 行っていいかしら?」
「あぁ。それとリフィナに対して正しい態度が取れないならこの屋敷から出ていってくれ。そもそも、長居しすぎだ。領地に帰る頃合いじゃないか?」
ユスタスが告げると、ジェマは顔色を変えた。今度は本気で彼にすがってくる。
「嫌よ! お願い、態度を改めるから追い出さないで! ごめんなさい。もう余計なことは言わないわ……」
よほど田舎の領地が嫌らしい。
ジェマはあっさりと態度を翻して、ぺこぺこと謝ってくる。
「それなら、俺じゃなくてリフィナに頼むんだな。家の中のことはリフィナに管理してもらう予定だ」
冷酷に言い放ったユスタスに鼻白んだジェマは、しぶしぶというように、リフィナに目を向けた。
ハァと溜め息をついたジェマは、意外にも表情を正して謝ってきた。
「……今までの失礼な態度を謝罪します。申し訳ありませんでした」
急に頭を下げられて、リフィナは戸惑う。
助けを求めるようにユスタスを見るも、「君の好きなようにしたらいい」と選択権を渡された。
ためらったのちに、リフィナは言った。
「謝罪は受け入れます。私はユスタス様と普通の夫婦生活を送りたいだけなので、その邪魔をされなければいいです」
「本当に!? 許してくれるの? ありがとう!」
ジェマが飛びつくようにリフィナの手を両手で握りしめてくる。
その手をブンブンと振って喜びを露わにした。
この変わり身の早さと単純さはマシューズ一族の特徴なのかとおかしくなる。
リフィナはうなずきながら、心の中で付け加えた。
障害になるようなら容赦はしないけどね、と。
我ながら、エイケン家の血を引いているなと苦笑しながら。
ジェマが去ったあと、ユスタスがリフィナを抱き上げて、また寝室に戻った。
ベッドに降ろされて眠そうな自分を寝かしてくれるのだろうと思っていたら、ユスタスがのしかかってきたので、リフィナは目を見開く。
「邪魔ものはいなくなったから、たっぷり夫婦仲を深めよう。新婚の休暇を三日も与えられて持て余すかと思っていたが、ぜんぜん足りないな」
にんまり笑ったユスタスは彼女の髪の毛を愛おしげになでてからキスしてきた。
(私が言ったのはそういう『夫婦生活』じゃないわ!)
そう抗議したかったのに、キスが深まり、愛撫されて言う暇がない。
そのあとリフィナは彼の休暇が終わるまで、部屋から外へ出られなかった。
それでも、愛されてるというのが身にしみてわかる。
もともと好みなのに性格も悪くないというか、むしろちょっと可愛いと思ってしまうほどだ。
そんなユスタスにこんなに好意を示されて、好きにならないほうが無理だった。
へとへとになりながらもリフィナは幸せを感じていた。
それからというもの、初夜の発言はなんだったのかというほど、ユスタスはリフィナを溺愛してきた。
舞踏会でも彼から贈られた青いジュエリーに、青いドレスを身にまとったリフィナを片時も離さない。
妻に独占欲を露わにした格好をさせ、あまりにべったりしているので、同僚の騎士たちにからかわれていたが、ユスタスは平然としていた。
「ずいぶん仲良さそうだな。結婚したくないって言ってなかったか?」
「あれは俺の勘違いだった。こんな可愛いリフィナと縁を結んでくださった陛下には感謝している」
「驚いたな。あの堅物のユスタスがこんなに変わるなんて」
横で聞いていたリフィナが恥ずかしくなるほど惚気るから、彼女はユスタスの袖を引いて止めようとしたが、頬をなでてつむじにキスを落とされて、逆効果だった。
真っ赤になったリフィナをまた可愛いと言ってユスタスは目を細める。
すると、遠巻きに見ていた令嬢たちがこそこそと話している声が聞こえてきた。
「信じられない。ユスタス様をあんなにメロメロにしちゃうなんて、悪女という噂は本当だったのね」
「さすがの手練手管ね」
「ユスタス様は騙されてるのよ!」
それを聞いたユスタスは鋭いまなざしを彼女たちに向けながら、近くにいたジェマに話しかけた。
「俺の愛する妻を侮辱するような言葉が聞こえた気がするのだが、それは俺に対するだけでなく、マシューズ侯爵家に対する侮辱だとわかって言っているのだろうか?」
「わかってないと思うわ。しかも、根も葉もない噂なのにね」
「その通りだ。リフィナはこのうえもなく初心で純潔だった。俺が証明する。それなのに、根拠のない噂で愛妻を貶めようとする輩はそれなりの処置を取らせてもらおう」
周囲に聞かせるように大きめの声で会話する二人に、リフィナは有難いけれど、居たたまれない気持ちになる。
(『あなたが証明して』とは言ったけど、こんなところで証明してくれなくてもよかったのよ?)
マシューズ侯爵家で幸せな日々を送っているリフィナにとって、自分の噂など、どうでもよかった。
でも、真面目なユスタスはそれを放置できなかったのだろう。
すっかり心を入れ替えて味方になったジェマと悪評を払拭しようとしてくれている。
ジェマはその代わりに結婚相手として騎士仲間を紹介してもらうらしい。
ちゃっかりしている。
ユスタスの強い口調に、噂話をしていた令嬢たちは扇子で顔を隠して、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「貴殿にとっても看過できない問題ですよね、エイケン侯爵」
ユスタスは近くにいたエイケン侯爵に話しかけた。
苦虫を噛み潰したような顔で父が同意しながらも、リフィナを睨みつけた。
「ああ、まったくふがいない娘だ。あんな噂を立てられるなんて」
「リフィナが悪いわけではないですよ。責められるべきは悪意をもって噂を流した本人です。そうですよね、エイケン侯爵夫人?」
「そ、そうですわね……」
ユスタスが意味ありげに義母に視線を向けると、彼女はピクリと肩を震わせたあと、目を逸らした。
このようなことが繰り返され、リフィナの悪評は払拭された。それどころか、堅物のユスタスを落としたということで、リフィナはいい意味で脚光を浴びることになった。
最近は令嬢たちから取り巻かれて、溺愛されるコツを聞かれるくらいだ。
もちろん、論破しただけのリフィナに答えられることはなく、笑ってごまかすしかなかったけれど。
それだけでもユスタスに感謝しているのに、彼はまだ満足していなかったようだ。
ある日、王宮から帰ってきたユスタスは、玄関ホールで出迎えたリフィナをギュッと抱きしめ告げてきた。
「エイケン侯爵が失脚した」
「え? お父様になにかあったのですか?」
驚いてユスタスを見上げると、彼は複雑そうな表情をしている。
リフィナの髪をなでながら、ためらいがちに口を開いた。
「君の父親は財務官という地位を乱用して王宮の予算を私物化していたんだ。父と俺でそれを告発した」
思いがけない話にリフィナは息を呑んだ。
ショックだけれども、意外性はなかった。
義母や妹の金遣いの荒さから、エイケン侯爵家の財政がひっ迫しているのは感じていたのだ。
父はそれを補うために悪事に手を染めてしまったのかもしれない。
「それでどんな処分が下されたのですか?」
おそるおそる聞くと、ユスタスはリフィナの様子を窺いながら言う。
「エイケン侯爵は全財産と爵位を剥奪。君の義理の母と妹は僻地の修道院へ送られたよ。どこよりも厳格なところだから、派手好きな彼女たちにはつらいだろうな。君はそれに関わっていないということでおとがめなしだ」
「そうだったんですね……」
一度も自分を愛してくれなかった家族の末路に、リフィナは眉を曇らせた。
プライドの高い父にとっては屈辱の処罰だろうし、義母や妹は泣き叫んでいるに違いない。
諸手を上げて喜ぶ気持ちはない。
重い処分だと同情する気持ちもあるけれど、虐げられていた身としてはやはり胸がすく思いがして、自分でも性格が悪いなと感じる。
そして、軽く付け加えられたけれど、自分の処遇もユスタスが尽力してくれたに違いない。
やり切れない気持ちとユスタスに感謝する気持ちが混ざり合う。
目を伏せて複雑な思いをどうにか昇華しようとしていると、ユスタスが謝ってきた。
「すまない。勝手なことをして。君の受けてきた仕打ちがどうしても許せなかったんだ」
彼はリフィナの手をとって、あかぎれが治ってきた指先を見つめた。
リフィナはハッとして彼を見返す。
どうやらユスタスは彼女の家庭環境を調べたようだ。
青い瞳が心配そうに覗き込んでくる。
リフィナが怒っていると思ったらしい。
美丈夫がしゅんとしている姿は微笑ましくて、愛おしかった。
リフィナの顔が自然にほころぶ。
「いいえ。私のためを思ってくれたのがうれしいです。それに、父たちは自業自得ですから」
その答えにユスタスも安堵したように笑みを浮かべた。
リフィナの指先に口づけて、誓うように言う。
「君のことは俺が守る。だから、君はこれからこの家で幸せになるんだよ」
「もう充分、幸せです」
彼を論破しなければと切羽詰まっていたときが嘘のように、今は平和に過ごしている。
微笑んだリフィナは背伸びして、愛しい旦那様に口づけを贈ったのだった。
——FIN——
◇番外編 ―ユスタス―
結婚前の顔合わせで初めてリフィナ・グレイス・エイケンを見たとき、雷に撃たれたような衝撃が走った。
あまりに彼女が可憐で美しくて。
きらめくプラチナブロンドが取り巻く小さな顔には、少し縁の上がったアーモンド型の目。そこには神秘的な紫の瞳がはまり、じっと俺を見つめていた。
すっと通った鼻筋の下には、思わずついばみたくなるような可愛らしいチェリーピンクの唇がある。
(妖精のようとは、このことだな)
今まですぐ群がってくる女性に対して煩わしさしか感じたことがないのに、なぜかリフィナは輝いて見え、ありとあらゆる賞賛の言葉が湧いてきた。
色恋沙汰よりも鍛錬のほうがよっぽどいいと、二十六歳になるここまで結婚どころか婚約者も作ってこなかった。
そんな俺なのに、たびたびマシューズ侯爵家を馬鹿にする発言を繰り返すエイケン侯爵の娘と婚姻なんて、どんな罰ゲームだろうと思っていた。
陛下の命でなければ暴れて婚約破棄していただろう。
しかし、これはとんでもなく幸運かもしれない。
にやけそうになる頬を引き締め、眉に力を込める。
軽薄なやつに見られたくなかったのだ。
(かわいいなぁ)
突然の恋に落ちた俺は、心の中ででれでれとリフィナを見つめ、なにもかも上の空だった。
それなのに、屋敷に戻った早々、冷や水をかけられた。
ジェマがリフィナの悪い噂を聞いてきたというのだ。
男遊びが激しく、すでに純潔は失っているらしい。
(あんなに可憐で清楚な感じなのに、そんなことあるのか?)
俺が見たリフィナはひかえめで大人しい印象だった。
男好きのする容姿だとは思うが、とても自分から誘うなんてイメージがつかない。
俺がそう言うと、ジェマは鼻で笑った。
「男はバカね。簡単に見た目に騙されちゃうんだから。エイケン侯爵夫人が嘆いていたのよ? きっと持て余して、マシューズ家に押しつけることにしたんだわ」
「エイケン侯爵夫人が?」
「そうよ。だから、初夜は行わないほうがいいわ。ほかの男の子どもを身ごもっている可能性があるもの」
衝撃を受けた俺は怒りに拳を握った。
彼女の身体にすでにほかの男が手を触れたかと思うと、目の前が赤くなるほどの憤りを覚える。
「手を出さないまま妊娠が発覚したら離婚すればいいんじゃない? それで——」
ジェマが続けてなにか言っていたが、俺は自分の思考の底に沈んでいて聞いていなかった。
(それでも、もう彼女は俺のものだ。たしかにほかの男の種が芽吹いていないか待つ必要はあるが、それが明けたら……)
彼女を手放すという選択肢は俺にはなかった。
モヤモヤするものを抱えつつ、結婚式当日になる。
結婚式に現れたリフィナは意外に簡素なドレスを着ていたが、そのシンプルさがかえって彼女の魅力を引き立たせていて、光り輝くようだ。
胸が高鳴り、意識して表情を引き締めなくては腑抜けた顔を晒すところだった。
そして、とうとう初夜の時間となる。
しばらく手は出さないと決めたのに、無駄にそわそわしてしまう。
夫婦の寝室をノックしてドアを開けた俺はさっそく固まった。
ベッドの上に、薄物だけをはおったリフィナの姿が見えたからだ。
初夜だから当たり前だが、白く透き通るような肌がなにも隠されていないくらい透けた生地の夜着だった。
(見てはいけない。決心が鈍る)
俺はすぐさま視線を逸らせた。
それでも目に焼きついた彼女の姿は清楚でいて妖艶で、数々の男がたぶらかされたという噂もうなずけた。
こんな魅力に誰が抗えるのか。
上気した頬のリフィナが俺を見上げる。
ゴクリと喉に溜まった唾を呑み下した。
(だめだだめだ。今日はだめだ。耐えるんだ、俺!)
ベッド脇に立った俺は、必死に自分を制御して口を開いた。
「期待しているなら悪いが、君を愛するつもりはない」
昂りを抑えていたからか、思ったより冷たい声が出た。
すると、リフィナの可愛らしい唇から、低い声が漏れた。
「…………はぁ?」
面食らった俺は聞き間違いかと思いながら、もう一度言ってみた。
「いや、だから、俺は君を抱かないと言っているんだ。それだけを伝えに来た」
当初の予定通り、それだけ言って、俺は部屋を出ようとした。
しかし、リフィナはにっこり笑ってとんでもないことを言いだす。
「旦那様は不能なのですか? それなら仕方ないですね」
「なっ! 断じて違う!」
そんなことを言われて、そのまま立ち去るわけにはいかなかった。
うろたえて強く否定する。
そこからはリフィナの独壇場だった。
大人しいと思っていた彼女はズバズバと俺の考えなしな言動を指摘してきて、たじたじとなる。
しかし、彼女に言い負かされるのは不快ではなく、むしろすがすがしくさえあった。
会話をしているうちに、リフィナが主張するように噂は事実無根だと信じられた。
それどころか、そんな話を鵜呑みにした自分を恥じいり反省する。
(それにしても、どうしてあんな噂を立てられたのだろう?)
荒れた手に痩せた身体を見て、彼女が言いたがらないなにかがあると感じた。
俺はそれを調べ、リフィナを害する者がいるなら排除しようと心に決めた。
愚かにも彼女を疑って初夜を台無しにした罪滅ぼしのつもりだった。
だというのに、リフィナは手を変え品を変え、自分に手を出させようと誘惑してきた。
俺はけじめとして、紳士的に今日のところは出直そうとしていたのに。
グラグラ揺れる心をたしなめて強い意志で立ち去ろうとしたら、リフィナが泣きそうな声で叫んだ。
「置いていかないでください……!」
先ほどまでの凛とした様子とは打って変わり、消え入りそうな弱々しさで驚く。
切実な瞳で俺を見上げたリフィナに胸を衝かれた。
このまま俺が出ていけば、彼女は初夜に失敗した嫁と見なされると諭され、ようやく気づいた。
俺はまた独りよがりの考えで、彼女につらい思いをさせるところだったのだ。
「思いが至らず、申し訳ない」
心から謝ってリフィナの前に跪いた。
(君のことはこれから俺が守る!)
そう誓いを立てたくなったのだ。
彼女の手を取り、あらためて聞いた。
「君を抱いていいか?」
リフィナは顔をほころばせ、うなずいた。
今度は正解だというのが、その可愛らしい笑顔からわかる。
改めて「抱いてください」と言われた俺はもう止まれなかった。
それでも自分を抑えつつ、大事に大事に抱いた。
抱いても抱いても欲が尽きなくて、初めてなのに彼女に無理をさせてしまった。
それからというもの、俺はジェマとくだらない噂を払拭するとともに、リフィナの家庭環境も調べた。
義母自ら彼女の悪評を流していたことがわかっていたからだ。
忠義心のないエイケン侯爵家の使用人は簡単に内情をばらした。
(なんてことだ!)
リフィナのひどい扱いを聞いて、俺は怒りに震えた。
義母も腹違いの妹もろくでもない。
でも、一番許せないのはそれを放置した実の父親のエイケン侯爵だ。
俺はリフィナには告げずに、どうにか報いを受けさせる術はないかと周囲を探った。
忘れたいのか隠しておきたいのか、彼女は俺にはなにも言ってこなかったからだ。
両親にもジェマにも事情を話して、これ以上リフィナに嫌な思いをさせないように言い含めた。
「まぁ、なんて気の毒な……」
「ひどいわ!」
「許せんな」
「うちでは心安らかに暮らせるようにしてあげましょう」
「そうだな」
皆、憤慨して、口々に同意してくれる。
俺たちは単純なのだ。
よくマシューズ家は脳まで筋肉でできているのではないかと揶揄されるが、俺はわかりやすくていいじゃないかと思う。
リフィナもそういうところが好きと言ってくれるし。
恥ずかしがりながらつぶやいたリフィナを思い出してにやける。
そういうわけで、引き続きエイケン侯爵家のことを調べていたら、分不相応なほど金遣いが荒いのに気づいた。
「横領……」
その事実がわかったときには、愕然とした。
政権の重鎮とも言うべきエイケン侯爵がそんなことに手を染めるとは信じられなかったのだ。
俺は父とともに陛下へ上申した。
もちろん、リフィナに害が及ばないように、証拠を固めて。
エイケン侯爵とその妻子に処罰が下されたときには胸がすく思いがした。
しかし、リフィナはどう思うだろうかと考えて、すぐ不安になる。
自分の思いで突っ走ってしまったが、この件に関して愛する妻と話したことはなかったのだ。
おそるおそるリフィナに報告したところ、彼女は複雑そうな表情で黙り込んでしまった。
「すまない。勝手なことをして。君の受けてきた仕打ちがどうしても許せなかったんだ」
心情を漏らして謝ると、リフィナは表情をゆるめた。
「いいえ。私のためを思ってくれたのがうれしいです。それに、父たちは自業自得ですから」
俺の妻が可愛くてたまらない。
これからは俺が守ると誓うと、リフィナはご褒美のようにキスをくれた。
なにがあっても彼女を幸せにすると決意した俺は、リフィナをきつく抱きしめたのだった。
—FIN—
お読みいただきありがとうございました。
「君を愛することはない」系のお話で、常々不満に思っていたことを
ぶつけてみました。
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