ドロネコ
「はぁ、ドロちゃんに会いたい」
同僚の突然の言葉に、俺は困惑した。
「ドロちゃん? 誰のことだ? 彼女か?」
「そんなわけねぇだろぉ」
不機嫌そうにこちらをジロリと睨んでくる。その目は明らかに据わっていた。
「呑みすぎだぞ。1回チェイサー入れろ」
「オレぁ、酔ってねぇ」
「はいはい、そうだな」
呂律も回ってないのに何を言っているんだ、と呆れつつ、俺はQRコード注文で水を頼む。初めて知った時はこの注文方法に驚いたが、今では慣れたものだ。
酔っていないと言い張る同僚の顔はゆでダコのように真っ赤で、手には本日5杯目のビールのジョッキを持っている。中身はすでにほとんど空だ。今日はやけにペースが早い。
まぁ、仕方ないか。こいつは今日、上司のミスの尻拭いをさせられて、苛立っていた。俺がフォローしてなんとか定時ギリギリに終わらせられたが、上司からは謝罪もお礼もなかったのだ。
もともとパワハラ気質の嫌な上司だが、今日は特にひどかった。
ヤケ酒したくなるのも無理はない。
しばらくして注文した水が来ると、同僚はそれを受け取って一気飲み干した。
「……で、ドロちゃんって誰だよ」
「んぁ?」
「彼女じゃないなら、ドロちゃんは何なんだ?」
「あぁ……」
同僚は納得するように頷くと、何故か目を潤ませて泣きそうな顔をした。
なんだ、聞いちゃまずかったのか? と思いながら返事を待つと、同僚はぽつりと呟く。
「……ネコ」
「ネコ?」
「そ、ドロネコのドロちゃん」
予想外の返答に、俺は一瞬ポカン、としたが、すぐにプッと吹き出した。
「あ、笑ったな!」
「いや、すまんすまん」
謝りつつも、俺は笑いが止まらない。
確かに、同僚は無類のネコ好きで、実家ではネコを3匹飼っていると聞いたことがある。
だが、まるで失恋でもしたかのように物憂げな顔をして「会いたい」なんて言うものだから、何かと思えば。ネコ、ネコとは。
「本当にネコ好きだな。またネコカフェか?」
同僚が一人暮らししているアパートはペット不可で、実家は遠方のためなかなか帰れない。同僚が猫と触れ合えるのは、週に1回のネコカフェだけだと以前に聞かされた。
そこは保護ネコ専門の店で、譲渡も行なっている。たまに同僚から「お気に入りだった子が他の客に貰われちまった」と泣きつかれたことがある。
今回もその話かと思ったが、同僚は首を横にブンブン振った。
「お前知らないのか? ドロちゃんを飼うことは誰にもできないんだ。ドロちゃんは、絶対に好きになっちゃいけない子だったんだ」
「は? 何だそりゃ。どういうことだ?」
「調べりゃわかる」
何を言っているんだ?
俺は首を傾げたが、同僚が「とにかく調べてみろ」と言ので、仕方なく検索する。
検索結果の1番上に、それはあった。
都市伝説について書かれた、『絶×都市伝説』という個人ブログ。
俺は、ドロネコについて書かれた記事の内容に目を通す。
――『絶対に好きになってはいけないネコ』。
通称ドロネコと呼ばれるそいつは、一見するとただのサバトラ――シルバーグレーのベースに黒か濃い灰色の縞模様があるネコ――なのだが、普通のネコではない。
深く落ち込んでいる人間の前に突如現れ、傷ついた心を癒してくれるという。
癒された人間が「もう大丈夫だよ」と言えば、ドロネコは「にゃあん」とひと声鳴いて消えるらしい。
では何故『好きになってはいけない』のか。それは、ドロネコは人間からの好意を感じると二度とその人間の前に姿を現さなくなるため。
ドロネコの『ドロ』は、『泥棒』のこと。人の心は奪うが、己の心は奪わせない。孤高で、残酷なほど優しい『泥棒ネコ』。
記事を最後まで読み終えると、俺はやれやれと肩をすくめ息を吐いた。
「ただの都市伝説じゃないか。そんな存在しないネコじゃなくて、実家のネコにでも癒してもらえ」
「ドロちゃんはいるっ!」
同僚は突然大声をあげ、テーブルをダンッと叩く。
店の中はシン、と静まり返り、他の客から何事かと言わんばかりの視線を向けられる。同僚のあまりの剣幕に、俺は咄嗟に返事ができなかった。
「……お、おい、落ち着けよ。今日はどうしたんだ? ここ最近で1番情緒不安定だぞ?」
「……ドロちゃんはいるんだ……オレは会ったんだ……」
うわ言のようにブツブツと呟くと、同僚はテーブルに突っ伏す。
まさか、泣いているのか? と思ったが、少し間を置いて豪快なイビキが聞こえてくる。俺はずっこけそうになった。
「まったく、しょうがないやつだな」
俺は周りの客に「すみません」と謝ってから、呑みかけの焼酎を1口呑む。
……『絶対に好きになってはいけないネコ』、ねぇ。
もし本当にそんなものがいるのなら、確かに残酷だ。悲しむ自分に寄り添ってくれるのに、好きになったら二度と会えない。
ネコ好きの前にそんなものが現れたら、癒しどころかもはや拷問だろう。
まあ、犬好きの俺には関係ないが。
つい先週にしたやり取りを思い出しながら、俺は同僚の遺影をぼうっと眺める。
今考えれば、あの時からあいつはおかしかった。
強くもないのに酒をあおるように呑み、実在しないネコにこだわり、かと思えば突然声を荒げて。
気づく機会はいくらでもあったはずだ。それなのに……。
「通勤中に電車のホームから飛び降りたんですって」
「バッグから遺書らしきメモも見つかったって」
「上司から酷いパワハラを受けていたらしいわ。まだ若いのに……」
参列者たちがヒソヒソと話す声が、読経の声と混ざって俺の頭をすり抜ける。
まるで現実感のないままに葬儀は終わり、俺は真っ暗な街をフラフラと歩いた。
電灯の明かりはついているのに、俺の目の前は何故か暗い。コンビニでビールを何本か買っていた時も、それは変わらなかった。
コンビニを出ると、目の前の公園へ歩き、ベンチに腰を下ろす。
頭上では、電球が切れかかっているのか、電灯の明かりがチカチカと点滅している。
……まだ、信じられない。
あいつが死んだなんて、それも、自殺だなんて。
缶のフタを開け、ビールをあおる。いつもはもう少し美味いはずだが、今はただ口の中に苦味が広がるだけで、ちっとも美味くない。
なのに、体が無性にアルコールを求めていて、あっという間に呑み干してしまった。
「……あいつも、こんな気持ちだったのかな」
呟きながら空っぽの缶を袋に戻し、2本目を取り出す。
その時、どこからか「にゃあん」という声が聞こえてきた。
暗くてよく見えないが、どこかにネコでもいるのだろうか。
……どうでもいい。
2本目の缶を開け、1口でほぼ半分ほど呑む。すると、再び「にゃあん」と聞こえた。
今度は、俺の足元で。
恐る恐る視線を落とすと、そこにはサバトラ猫がちょこん、と座ってこちらを見上げていた。
「わっ! 何だお前? いつからそこに……」
思わず声を上げ、体をビクッと震わせる。
驚きのあまり思わず大声をあげてしまったが、そのネコは怯える様子もなくまた「にゃあん」と鳴いた。
俺は別にネコが嫌いではないが、ネコ派か犬派かと聞かれれば、犬派だ。
犬は何度も触ったことがあるが、ネコは一度もない。つまりネコに関しては扱いが一切わからないのだ。
足で踏まないように慎重にネコから離れ、隣のベンチに移動する。
だがネコは、わざわざ俺の足元に戻ってきて、またちょこん、と座った。
「にゃあん」
「……何だよ、腹でも減ってるのか?」
俺はビールをベンチに置き、袋の中を覗き込む。つまみ用に買っていたカニカマがあったので、それを取り出して封を切った。
「そら」
少し裂いて、ネコに差し出す。だが、ネコはプイッとそっぽを向き、俺の膝の上に飛び乗った。
犬ならともかく、ネコに自分から膝に乗られたことはなかったので、俺は一瞬身を固くした。落ちても受け止められるように両手を広げて構えていると、ネコは危なげもなく俺の膝の上に座る。
「……もしかして、慰めてくれてるのか?」
尋ねると、まるで肯定するように「にゃあん」と鳴き、そのまま膝の上で丸くなった。
「……変なやつだな」
触れ方がわからないので、ぼうっとネコの様子を見ていると、ふと、同僚と話したネコの話を思い出す。
深く落ち込んでいる人間の前に現れる、サバトラ猫。通称ドロネコ。
ドロネコは、人間の心を慰めるために現れ、そっと寄り添ってくれる。
まさか、こいつが……?
「……お前、ドロネコか?」
ありえないと思いつつ尋ねると、ネコは「にゃあん」と答えるように鳴く。
それはまるで、「そうだよ」と言っているようだった。
「……は、はは。もし本当なら、あいつに聞かせたらきっと悔しがるな。『オレが会いたかったのに』って……」
そう言ってから、途端に、目頭が熱くなる。
……もう、あいつが悔しがる姿は、見られない。
「あ……」
視界がぼやけ、そのまま滝のように涙があふれ出した。
これまでのあいつとの思い出が、頭の中を駆けめぐる。
俺とあいつは、新卒の頃から一緒の同期だった。
口を開けばネコの話ばかりで、仕事もあまりできる方じゃない。けど、真面目でいい奴だった。
大切な、友人だった。
心臓が張り裂けそうに痛む。
どうしてもっと早く、あいつの苦しみに気づかなかったんだろう。どうしてもっと、あいつの気持ちに寄り添わなかったんだろう。
どうして……どうして……。
俺が、あいつを殺したようなものだ。
「うっ……ふっ……」
声を殺しながら、止まらない涙に前が見えなくなる。
すると、何かに頬を舐められた。
ザリザリとして少し痛いが、優しくてくすぐったい。
それは、膝の上にいたドロネコだった。
ドロネコは俺の涙を拭うようにペロペロと舐め続けている。俺は思わずフッと笑った。
「……何だよ、ドロ。泣くなってか?」
「にゃあん」
ドロネコはひと声鳴いて、俺の目をまっすぐ見つめる。その目は、残酷なほどに優しい。
まるで、「お前のせいじゃないよ」と言っているみたいだ。
ふと、俺は自分の涙が止まっていることに気づいた。心の痛みも、少しずつ和らいでいるのを感じる。
「……ふっ、とんだ泥棒ネコだな」
ドロネコの『ドロ』は、『泥棒』。俺の涙も、痛みも、まるでこいつが全て奪ってしまったみたいだ。
……あいつがドロネコにこだわった理由がわかる気がする。
俺はドロネコに手を伸ばし、優しく抱き上げる。
ドロネコの体は綿菓子のようにふわふわしていて、まるで実体がないかのように軽かった。
鼻で笑った都市伝説も、今は少しだけ、信じてもいいような気がしてくる。
「……もう、大丈夫だよ」




