表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

婚約破棄された瞬間、殿下の“幸運”がすべて私に移りました——どうやら私は“運命の供給源”だったようです

作者: カルラ
掲載日:2026/05/13

シャンデリアの光が、舞踏会場に降り注いでいた。

白と金で彩られた大広間は、王都でも指折りの美しさで知られている。

けれど今夜の私には、その輝きがどこか遠い。

レオヴァルト殿下の隣に立ち、もう何度目かの微笑みを作る。

笑い方だけは上手くなった——三年間の婚約期間が、私にそれだけを教えてくれた。

子爵令嬢のフィオナ・アーレンスには、分不際な婚約だと言われ続けてきた。

殿下は王国随一の"天運の王子"。

聡明で、颯爽とした佇まいで、関わるものすべてが好転していくような、そんな星のもとに生まれた方。

その隣に立つにふさわしい女が、私のような地味な娘のはずがない——誰もがそう思っていたし、私自身も骨の髄からそう感じていた。

だから今夜、殿下が私を呼び止めたとき、胸の中で何かが静かに覚悟を決めた。

 

「フィオナ。少し、話があるのだが」

 

低く、穏やかな声。

いつもと変わらない声音なのに、今夜だけはどこか乾いて聞こえる。

私は扇を握り締め、静かに頷いた。

広間の端、バルコニーへ続く扉の近く。

音楽と笑い声がすべてを覆い隠してくれる、ちょうどよい場所。

殿下はそこに私を連れてきて、正面から向き直った。

夜の灯りに映える整った顔立ち。

琥珀色の瞳が、申し訳なさそうにわずかに細められている。

その表情を見た瞬間、もう分かってしまった。

 

「君との婚約を、破棄したい」

 

声は静かだった。

だから余計に、言葉の輪郭がはっきりと胸に刺さる。

 

「……理由を、聞かせていただけますか」

 

自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

震えていないのが不思議なほどだった。

 

「君は……悪い女性ではない。だが、王太子妃に求められる華が、君には足りない。それだけではなく——」

 

殿下は少し間を置いた。

 

「セレーネと出会って、気づいたんだ。本当の運命とは、こういうものなのだと」

 

セレーネ。

侯爵家の娘で、社交界に彗星のように現れた女性。

華やかで、大らかで、笑うと場が明るくなる。

私とは何もかもが違う。

 

「……わかりました」

 

それだけ言えた。

それ以上は、喉が動かなかった。

やっぱり、と思う。

やっぱり私では足りなかった。

三年間、精一杯努めてきたつもりだった。

でも"つもり"でしかなかったのかもしれない。

殿下が何かを続けようとした——そのとき。

広間の天井で、鈍い音がした。

全員の視線が上を向く。

巨大なシャンデリア——何十本もの蝋燭を抱えた、鎖で吊られた黄金の塊——が、ゆっくりと傾いていた。

悲鳴が上がり、人が散り始める。

私はとっさに一歩下がった。

 

「危ない——!」

 

誰かが私の腕を引いた。

見知らぬ、年配の紳士。

ただ通りがかっただけらしいのに、私の位置を正確に逃れた場所へ引き込んでくれた。

シャンデリアは轟音とともに落ち、私がいた場所の少し向こうを叩きつける。

粉塵が舞う。

蝋燭の明かりが揺れ、大広間が一瞬暗くなった。

混乱の中で私はただ立っていた。

助かった——という実感よりも先に、不思議な感覚があった。

胸のあたりに、何かが流れ込んでくるような。

暖かくて、少し重くて、でも不快ではない何かが。

殿下の方を見た。

殿下の腕に、小さな傷ができていた。

シャンデリアの破片か何かに当たったらしく、白い手袋に赤いものが滲んでいる。

それ自体は大したことではない。

だが——殿下を取り巻いていた"何か"が、消えていた。

うまく言葉にできない。

今まで殿下の周囲にはいつも、見えない光のようなものがあった。

誰もが自然と殿下の方を向き、物事が殿下に都合よく転がっていく、あの感じ。

それが——ない。

私は自分の手のひらを見た。

何も見えない。

でも確かに、何かが——ここにある。

翌朝から、殿下の周辺で小さなことが続いた。

婚約破棄の書類を取りまとめる担当の官吏が、書類の一部を紛失した。

些細なことだが、手続きに三日の遅れが出た。

殿下が出席する予定だった会議では、馬車の車輪が外れた。

代わりの馬車を手配している間に、会議はすでに終わっていた。

他の出席者たちは、誰ひとり遅延しなかった。

私はそれをあとから人づてに聞いて、妙な感覚を覚える。

一方で私の周辺では、不思議なほど物事がすんなりと進んでいた。

婚約破棄の後、住まいをどうするか考えあぐねていたところに、父の旧友から屋敷の一画を借りられる話が舞い込んだ。

偶然にもほどがある好条件だったが、断る理由もなかった。

市場で迷子になりかけた子供を助けたら、その子の母親がたまたま腕の立つ仕立て職人だった。

礼として服を直してもらいながら話すうち、彼女の技術を活かせる仕事の紹介ができそうだと気づいた。

大きな話ではない。

けれど、物事がするりと動く感覚が、確かにあった。

私はそれを、単なる偶然だと思おうとしていた。

問題は、自分がその"偶然"を当たり前のように感じ始めていることだった。

殿下と婚約していた三年間、私はいつも「自分は何も持っていない」と感じていた。

家格も、美貌も、才能も、平均以下。

殿下の隣にいることが申し訳ないほど、私は地味な存在だった。

でも今、ふと思う。

あの三年間——殿下の周囲でうまくいっていたことのいくつかは、本当に殿下の力だったのか、と。

政敵が偶然失脚したのも。

難しい外交交渉がまとまったのも。

殿下が関わった事業がことごとく成功したのも。

私はずっと、その隣に立っていた。

まさか、と頭を振る。

そんなはずはない。

私はただの子爵令嬢だ。

何の力も持っていない。

でも——あの夜、胸に流れ込んできた何かは、いったい何だったのだろう。

答えを持たないまま、私は新しい日々を始めようとしていた。

その答えが示されたのは、婚約破棄から十日ほど経った頃だった。

宮廷魔術師のシュバルツ卿——白髪交じりの短い顎鬚と、常に何かを探るような視線が印象的な老人——が、わざわざ私の新居を訪ねてきた。

父の旧友から借り受けた屋敷の応接間に、卿は窮屈そうに収まり、私と向き合った。

 

「突然お邪魔して恐縮です、アーレンス嬢。折り入ってお耳に入れたいことがある」

 

私は茶を出しながら頷いた。

宮廷魔術師がわざわざ訪ねてくる理由が思い当たらず、少し緊張した。

 

「殿下の"運命流"に、異変が起きています」

 

卿は単刀直入だった。

 

「運命流、ですか」

 

「高位貴族の婚約には、互いの運命流を安定させる魔法が施される。ご存知でしたか?」

 

知らなかった。

そんな説明は、婚約の際に誰からも聞いていない。

私が首を横に振ると、卿は深くため息をついた。

 

「通常、婚約者同士の運命流は穏やかに均衡する。どちらかが突出するわけでも、失われるわけでもなく——ただ安定する。ところが今回、殿下の運命流が急激に低下している。婚約破棄の翌日から、ほぼ同時に」

 

卿の目が、静かに私に向いた。

 

「そして同時期、あなたの周囲の運命流が著しく上昇している。アーレンス嬢——これは偶然ではありません」

 

私は茶碗をゆっくり置いた。

手が、かすかに震えていた。

 

「……つまり、殿下の運が私に移った、ということですか」

 

「移った、というよりも——」

 

卿は言葉を選ぶように間を置いた。

 

「戻った、と言うべきかもしれない」

 

その一言が、応接間に静かに落ちた。

戻った。

では元々、どちらのものだったのか。

私が問うより先に、卿が続ける。

 

「殿下のものと思われていた幸運は、最初から殿下のものではなかった。あなたという"源"から流れ出ていたものが、婚約の魔法を通じて殿下へ供給されていた——そういう構造だったのです」

 

言葉の意味を、頭の中で繰り返した。

源。

供給。

私が、供給していた。

殿下を天運の王子と呼ばしめていたものが、私から流れ出ていた。

 

「……そんな、馬鹿な」

 

声が掠れた。

 

「私は何も持っていない。ずっとそう思ってきた。殿下の隣にいることが不釣り合いなくらい、何も——」

 

「それがそもそも、認識の誤りです」

 

卿の声は静かだが、揺るぎない。

 

「"黄金運命保持者"という体質があります。極めて稀なもので、百年に一人出るかどうか。周囲の成功率を底上げし、災厄を逸らし、人との縁を良い方向へ引き寄せる。本人には自覚がない場合がほとんどです。なぜなら、その力は自分のためではなく、周囲へと放出されてしまうから」

 

私は黙っていた。

何も言えなかった。

三年間の記憶が、ゆっくりと別の色に塗り替えられていくような感覚があった。

 

卿が帰ったあと、私はしばらく応接間に座ったままでいた。

茶はすっかり冷めていた。

窓の外では、秋の風が庭の木を揺らしている。

その葉の一枚一枚が、まるで何かを語りかけてくるようで——でも私には、まだ何も聞こえなかった。

三年間。

三年間、私は何をしていたのか。

殿下の隣で笑い、殿下の隣で頭を下げ、殿下の隣で「私は不相応だ」と縮こまっていた。

その間ずっと、私の中から何かが流れ出ていた。

見えない水路のように、殿下へと。

おかしい、と思った。

笑えるくらいおかしい、と思った。

でも笑えなかった。

殿下の成功を思い返す。

王国の歴史に残るとも言われた外交交渉——殿下が主導し、隣国との国境問題をわずか三ヶ月で解決した、あの件。

当時の宮廷では「殿下の天才的な判断だ」と囁かれていた。

私もそう思っていた。

だが今、別の角度から見ると。

交渉の前日、相手国の強硬派筆頭が急病で倒れた。

翌朝、殿下の従者が誤って別室の書類を持ち込み、そこに書かれていた数字がたまたま交渉の糸口になった。

最終合意の席では、長年折り合えなかった二人の重臣が「なぜか今日はうまく話せた」と言っていた。

殿下は確かに優秀だった。

でも——あの場に私もいた。

二年前の投資の件も。

殿下が一族の資産を動かした際、競合相手の船が嵐で沈んだ。

誰もが「運が良かった」と言った。

私はそのとき、殿下の隣でただ微笑んでいた。

思い出すたびに、胸の奥に重いものが積み上がっていく。

愛されていなかった、という痛みとは少し違う。

もっと奇妙な感覚だった。

私という存在が、最初から"人"ではなく"何か"として扱われていたような——そんな感覚。

いや、殿下には悪意はなかっただろう。

卿も言っていた。

婚約の魔法は自動的に働くもので、殿下自身も知らなかったはずだと。

知らなかった。

誰も知らなかった。

私も知らなかった。

それだけは確かだった。

だからといって、何かが楽になるわけでもなかった。

その翌週、殿下の周辺で起きた出来事を、知人の侍女から聞いた。

殿下が主導する新しい街道整備の計画が、議会で思わぬ反発を受けたらしい。

反対派の筆頭は、これまで殿下と良好な関係を保っていた老侯爵だった。

老侯爵は「以前から気になっていたことがある」と言い、長年の懸念を一気に吐き出したという。

以前から気になっていた——つまり、ずっと溜まっていたものが、今になって出てきた。

 

「殿下はご自分でも不思議がっておいでだったわ」

 

侍女は声を潜めた。

 

「あの侯爵様があんなことを言うなんて、って。いつもは殿下のおっしゃることに賛同してくださる方なのに」

 

私は相槌を打ちながら、内心でぼんやりと思った。

以前なら、その老侯爵の懸念はどこかで自然と和らいでいたのかもしれない。

誰かに愚痴を聞いてもらったとか、偶然良い知らせが入ったとか、些細な理由で機嫌が戻るような何かが——起きていたのかもしれない。

今はそれが起きない。

だから、溜まっていたものが溜まったまま出てきた。

派手な崩壊ではない。

ただ、歯車のかみ合いが少しずつ悪くなっていく。

そういう種類の変化だった。

私はそれを聞いて、何か胸に感じるかと思った。

痛みか、あるいは溜飲が下がる感覚か。

でも実際に感じたのは——静けさだった。

嵐の後のような、妙に落ち着いた静けさ。

それからの日々は、私にとって不思議なほど穏やかだった。

借りた屋敷は小さかったが、使いやすく整っていた。

市場に出かければ、顔見知りが増えていく。

あの仕立て職人の女性——マリアと名乗った——とは、気づけば友人と呼べるほど親しくなっていた。

彼女の縫製の腕は本物だった。

私は彼女を、街の小間物商を営む知人に紹介した。

するとあれよあれよと話がつながり、今では小さな工房の立ち上げの話まで出ている。

私が何か特別なことをしたわけではない。

ただ、縁と縁が結びついていった。

 

「フィオナ様のおかげです」

 

マリアはいつもそう言うが、私は首を振る。

 

「あなたの腕があったからよ。私はただ、知っている人を知っている人に紹介しただけ」

 

「それが一番難しいことなんですよ」

 

マリアはそう言って笑った。

その笑顔を見ていると、自分の中に何かが少しずつ溶けていく気がした。

でも私は知っていた。

この"うまくいく感覚"が、すべて私の実力ではないかもしれないということを。

卿の言葉がずっと頭の隅にある。

力は周囲へと放出されてしまう——だとすれば、今私の周りで起きている良いことは、単に私が持つ"運"が私の近くに戻ってきているだけなのかもしれない。

努力ではなく、運。

そう思うと、素直に喜べない自分がいた。

だから私は、意識して手を動かすことにした。

マリアの工房の立ち上げを手伝うために、帳簿のつけ方を勉強した。

父の書斎から借り出した商業の基礎書を、夜ごと読み込んだ。

人と話すとき、相手の言葉をちゃんと聞くように努めた。

以前の私は、自分が場違いだという意識が強すぎて、人の話を聞きながら半分は「失礼なことを言っていないか」の心配に使っていた。

今は違う。

ただ、目の前の人と話すことができる。

それが良かったのか、悪かったのかはわからない。

でも少なくとも、日々が少しずつ自分のものになっていく感覚があった。

運だけではない、と思いたかった。

この手で積み上げたものが、少しでも含まれていてほしかった。

そんな日々の中で——殿下からの使いが来たのは、婚約破棄から一ヶ月ほど経った朝のことだった。

差し出された封書には、殿下の紋章が押されていた。

久しぶりに目にするそれを、私はしばらく眺めた。

開けてみれば、内容は簡潔だった。

一度だけ、話がしたい。

それだけが書かれていた。

署名は、レオヴァルト。

殿下の直筆だった。

私は封書を折り直し、テーブルに置いた。

窓の外を見る。

今日も秋の風が吹いていた。

昨日よりも少し、冷たくなっている。

返事をするべきか、しないべきか。

そう迷いながら、でも私はすでに——答えを決めていた。


殿下が指定した場所は、王宮の外れにある小さな庭園だった。

かつて私も何度か訪れたことがある場所で、季節の花が丁寧に手入れされていた。

今は秋だから、庭の彩りは少ない。

枯れ始めた草の上に、落ち葉が積もっている。

それでも庭師が掃いているのか、通路だけはきれいだった。

殿下は先に来ていた。

いつもの端正な立ち姿——のはずなのに、どこか違う。

近づくにつれて、それが何なのかわかってきた。

疲れている。

目の下にうっすらと影があり、背筋は真っ直ぐだが肩に余分な力が入っている。

天運の王子と呼ばれた人の、別の顔だった。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

殿下は私を見て、まず礼を言った。

以前は聞いたことのない言葉だった。

いや、言葉自体はあった。

でも今のような響きではなかった。

 

「お手紙を拝見しました。お話とは、何でしょうか」

 

努めて平静に問う。

殿下は少し迷うように視線を落とし、それからまっすぐに私を見た。

 

「戻ってきてほしい」

 

風が吹いた。

落ち葉が一枚、二人の間を転がっていった。

 

「婚約を、白紙に戻してほしいんだ。君が必要だ、フィオナ」

 

私は何も言わなかった。

急いで答えを出すつもりがなかった。

ただ、殿下の言葉をそのまま受け取って、自分の中に沈めてみた。

君が必要だ。

必要。

愛している、ではなく。

会いたかった、でもなく。

必要だ。

 

「……なぜ、今になって」

 

静かに問うと、殿下はわずかに目を伏せた。

 

「色々と、うまくいかないことが続いている。以前は何でも自然と道が開いた。なのに最近は、小さなことでも詰まる。人の気持ちも読めなくなったような気がして——」

 

殿下は言葉を切り、また私を見た。

 

「君と別れてから、そうなった。君がいれば、きっと戻る。そう思った」

 

私はゆっくりと息を吸った。

怒りがないわけではなかった。

でもそれより先に、ひどく静かな気持ちがあった。

この方は、気づいていない。

あるいは、気づきたくないのかもしれない。

 

「殿下」

 

初めて、自分から名を呼んだ。

いつもは"殿下"と呼ぶだけで精一杯だった。

今日は違う。

 

「殿下は今、私が必要だとおっしゃいました。でもそれは——私という人間が必要なのではなく、"幸運"が必要なのでしょう」

 

殿下の表情が、かすかに動いた。

 

「そんなことは——」

 

「宮廷魔術師のシュバルツ卿から、話を聞きました。私が何者なのか。この三年間、何が起きていたのかも」

 

沈黙が落ちた。

庭園に風が通り、枯れ葉がざわめく。

殿下は何かを言おうとして、口を開き、閉じた。

 

「あなたは私ではなく、"幸運"しか見ていなかった」

 

声が思ったより落ち着いていた。

震えていなかった。

三年前の舞踏会でも、婚約破棄の夜もそうだった。

肝心なときに私の声は震えない。

それだけが、私の持つ静けさだった。

 

「三年間、殿下の隣で私は何を感じていたか。不相応だという恥ずかしさ。足りないという焦り。もっとうまくできればと思う焦燥。そのどれも——殿下が与えてくださったわけではありません」

 

殿下は黙っていた。

 

「殿下は悪い方ではない。婚約の魔法のことも、知らなかったのでしょう。でも——知らなかったというだけでは、三年間は戻らない」

 

落ち葉が一枚、私の足元に舞い降りた。

踏まないように、一歩横にずれた。

 

「でも私は、"誰かの運を支えるためだけ"に生きているわけではありません」

 

言ってから、その言葉が自分の中でまっすぐ立っているのを感じた。

ずっと前から、そこにあった言葉のような気がした。

殿下は長い間、黙っていた。

琥珀色の瞳が、私を見ている。

以前なら、この瞳に見られることが誇らしくて、同時にひどく怖かった。

今はただ——見ている、と思う。

 

「……そうか」

 

殿下は静かに言った。

怒りでも、懇願でもなかった。

 

「わかった」

 

それだけだった。

私は一礼して、庭園を後にした。

振り返らなかった。

振り返る必要がないと思った。

その後、殿下の周辺がどうなったかを私が知るのは、また人づてになる。

街道整備の件は結局、議会で大きく修正を求められた。

殿下が推し進めようとした計画のいくつかは、以前なら偶然に解決していたような小さな壁に、ことごとく阻まれた。

人が離れたわけではない。

殿下には確かな能力があったし、それを認める臣下も多かった。

ただ——何かがかみ合わない、という状態が続いた。

投資の一件では損失こそ出なかったが、期待していた利益の半分も得られなかった。

「殿下も普通の方なのだ」という声が、宮廷の端の方で聞こえ始めた。

誰かが完全に壊れたわけではなかった。

ただ、実力に見合った位置へと、静かに戻っていった。

それは残酷かもしれないし、当然なのかもしれない。

私にはどちらとも言えなかった。

人の人生に、そんな簡単に答えは出せない。

セレーネについては、風の便りで聞いた。

彼女は殿下のそばにいたが、思っていたほど"運命"を感じられなくなった、と零しているらしかった。

運が強い男に惹かれた彼女が、"普通"になった男の隣で何を思うのか。

それも、私には関わりのないことだった。

冬が来た頃、マリアの工房は正式に開いた。

小さな看板を掲げた日、私たちは二人で温かいスープを飲んだ。

特別なことは何もない、ただの昼だった。

それなのに、妙に晴れやかな気分だった。

 

「フィオナ様、これからどうされるんですか」

 

マリアが聞いた。

 

「これから?」

 

「婚約が終わって、宮廷とも離れて。寂しくはないですか」

 

私は少し考えた。

寂しいか、と聞かれると——そうでもない、と思う。

あの三年間の方が、ずっと孤独だった。

誰かの隣にいながら、自分がどこにも属していないような感覚。

それに比べれば今は、小さくても確かに自分の場所がある。

 

「寂しくないわ」

 

答えると、マリアは少し驚いた顔をして、それからにっこりした。

 

「それは良かった」

 

工房を出ると、空が広かった。

冬の空は高くて、青い。

息を吐くと白くなった。

私は少し立ち止まって、その白い息が空に溶けていくのを見た。

そのとき、不意に風が吹いた。

冬の風のはずなのに、妙に温かく感じられる一瞬があった。

背中を押すような、穏やかな追い風。

どこから来たのかわからない、でも確かにそこにある風。

私は目を細めた。

運命、と言う言葉が頭をよぎる。

以前の私なら、運命とはどこか大きな力に決められるものだと思っていた。

与えられるか、奪われるか。

どちらにせよ、自分の外側にあるものだと。

でも今は、少し違う気がする。

運が私から流れていたとしても。

その流れの源が私の中にあったとしても。

それを知った今、どこへ流すかを——少しは、選べるのかもしれない。

私はまた歩き出した。

足元の石畳は少し凍りかけていて、慎重に踏まないと滑る。

でも歩けないわけじゃない。

一歩ずつ、確かめながら進めばいい。

運命は、奪われるものではなかった。

——私自身が、運命だったのだから。

追い風は、まだ続いていた。







終幕


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
後半の、殿下の「婚約を白紙にしてほしい」はもう成ってるんですけど?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ