婚約破棄された瞬間、殿下の“幸運”がすべて私に移りました——どうやら私は“運命の供給源”だったようです
シャンデリアの光が、舞踏会場に降り注いでいた。
白と金で彩られた大広間は、王都でも指折りの美しさで知られている。
けれど今夜の私には、その輝きがどこか遠い。
レオヴァルト殿下の隣に立ち、もう何度目かの微笑みを作る。
笑い方だけは上手くなった——三年間の婚約期間が、私にそれだけを教えてくれた。
子爵令嬢のフィオナ・アーレンスには、分不際な婚約だと言われ続けてきた。
殿下は王国随一の"天運の王子"。
聡明で、颯爽とした佇まいで、関わるものすべてが好転していくような、そんな星のもとに生まれた方。
その隣に立つにふさわしい女が、私のような地味な娘のはずがない——誰もがそう思っていたし、私自身も骨の髄からそう感じていた。
だから今夜、殿下が私を呼び止めたとき、胸の中で何かが静かに覚悟を決めた。
「フィオナ。少し、話があるのだが」
低く、穏やかな声。
いつもと変わらない声音なのに、今夜だけはどこか乾いて聞こえる。
私は扇を握り締め、静かに頷いた。
広間の端、バルコニーへ続く扉の近く。
音楽と笑い声がすべてを覆い隠してくれる、ちょうどよい場所。
殿下はそこに私を連れてきて、正面から向き直った。
夜の灯りに映える整った顔立ち。
琥珀色の瞳が、申し訳なさそうにわずかに細められている。
その表情を見た瞬間、もう分かってしまった。
「君との婚約を、破棄したい」
声は静かだった。
だから余計に、言葉の輪郭がはっきりと胸に刺さる。
「……理由を、聞かせていただけますか」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
震えていないのが不思議なほどだった。
「君は……悪い女性ではない。だが、王太子妃に求められる華が、君には足りない。それだけではなく——」
殿下は少し間を置いた。
「セレーネと出会って、気づいたんだ。本当の運命とは、こういうものなのだと」
セレーネ。
侯爵家の娘で、社交界に彗星のように現れた女性。
華やかで、大らかで、笑うと場が明るくなる。
私とは何もかもが違う。
「……わかりました」
それだけ言えた。
それ以上は、喉が動かなかった。
やっぱり、と思う。
やっぱり私では足りなかった。
三年間、精一杯努めてきたつもりだった。
でも"つもり"でしかなかったのかもしれない。
殿下が何かを続けようとした——そのとき。
広間の天井で、鈍い音がした。
全員の視線が上を向く。
巨大なシャンデリア——何十本もの蝋燭を抱えた、鎖で吊られた黄金の塊——が、ゆっくりと傾いていた。
悲鳴が上がり、人が散り始める。
私はとっさに一歩下がった。
「危ない——!」
誰かが私の腕を引いた。
見知らぬ、年配の紳士。
ただ通りがかっただけらしいのに、私の位置を正確に逃れた場所へ引き込んでくれた。
シャンデリアは轟音とともに落ち、私がいた場所の少し向こうを叩きつける。
粉塵が舞う。
蝋燭の明かりが揺れ、大広間が一瞬暗くなった。
混乱の中で私はただ立っていた。
助かった——という実感よりも先に、不思議な感覚があった。
胸のあたりに、何かが流れ込んでくるような。
暖かくて、少し重くて、でも不快ではない何かが。
殿下の方を見た。
殿下の腕に、小さな傷ができていた。
シャンデリアの破片か何かに当たったらしく、白い手袋に赤いものが滲んでいる。
それ自体は大したことではない。
だが——殿下を取り巻いていた"何か"が、消えていた。
うまく言葉にできない。
今まで殿下の周囲にはいつも、見えない光のようなものがあった。
誰もが自然と殿下の方を向き、物事が殿下に都合よく転がっていく、あの感じ。
それが——ない。
私は自分の手のひらを見た。
何も見えない。
でも確かに、何かが——ここにある。
翌朝から、殿下の周辺で小さなことが続いた。
婚約破棄の書類を取りまとめる担当の官吏が、書類の一部を紛失した。
些細なことだが、手続きに三日の遅れが出た。
殿下が出席する予定だった会議では、馬車の車輪が外れた。
代わりの馬車を手配している間に、会議はすでに終わっていた。
他の出席者たちは、誰ひとり遅延しなかった。
私はそれをあとから人づてに聞いて、妙な感覚を覚える。
一方で私の周辺では、不思議なほど物事がすんなりと進んでいた。
婚約破棄の後、住まいをどうするか考えあぐねていたところに、父の旧友から屋敷の一画を借りられる話が舞い込んだ。
偶然にもほどがある好条件だったが、断る理由もなかった。
市場で迷子になりかけた子供を助けたら、その子の母親がたまたま腕の立つ仕立て職人だった。
礼として服を直してもらいながら話すうち、彼女の技術を活かせる仕事の紹介ができそうだと気づいた。
大きな話ではない。
けれど、物事がするりと動く感覚が、確かにあった。
私はそれを、単なる偶然だと思おうとしていた。
問題は、自分がその"偶然"を当たり前のように感じ始めていることだった。
殿下と婚約していた三年間、私はいつも「自分は何も持っていない」と感じていた。
家格も、美貌も、才能も、平均以下。
殿下の隣にいることが申し訳ないほど、私は地味な存在だった。
でも今、ふと思う。
あの三年間——殿下の周囲でうまくいっていたことのいくつかは、本当に殿下の力だったのか、と。
政敵が偶然失脚したのも。
難しい外交交渉がまとまったのも。
殿下が関わった事業がことごとく成功したのも。
私はずっと、その隣に立っていた。
まさか、と頭を振る。
そんなはずはない。
私はただの子爵令嬢だ。
何の力も持っていない。
でも——あの夜、胸に流れ込んできた何かは、いったい何だったのだろう。
答えを持たないまま、私は新しい日々を始めようとしていた。
その答えが示されたのは、婚約破棄から十日ほど経った頃だった。
宮廷魔術師のシュバルツ卿——白髪交じりの短い顎鬚と、常に何かを探るような視線が印象的な老人——が、わざわざ私の新居を訪ねてきた。
父の旧友から借り受けた屋敷の応接間に、卿は窮屈そうに収まり、私と向き合った。
「突然お邪魔して恐縮です、アーレンス嬢。折り入ってお耳に入れたいことがある」
私は茶を出しながら頷いた。
宮廷魔術師がわざわざ訪ねてくる理由が思い当たらず、少し緊張した。
「殿下の"運命流"に、異変が起きています」
卿は単刀直入だった。
「運命流、ですか」
「高位貴族の婚約には、互いの運命流を安定させる魔法が施される。ご存知でしたか?」
知らなかった。
そんな説明は、婚約の際に誰からも聞いていない。
私が首を横に振ると、卿は深くため息をついた。
「通常、婚約者同士の運命流は穏やかに均衡する。どちらかが突出するわけでも、失われるわけでもなく——ただ安定する。ところが今回、殿下の運命流が急激に低下している。婚約破棄の翌日から、ほぼ同時に」
卿の目が、静かに私に向いた。
「そして同時期、あなたの周囲の運命流が著しく上昇している。アーレンス嬢——これは偶然ではありません」
私は茶碗をゆっくり置いた。
手が、かすかに震えていた。
「……つまり、殿下の運が私に移った、ということですか」
「移った、というよりも——」
卿は言葉を選ぶように間を置いた。
「戻った、と言うべきかもしれない」
その一言が、応接間に静かに落ちた。
戻った。
では元々、どちらのものだったのか。
私が問うより先に、卿が続ける。
「殿下のものと思われていた幸運は、最初から殿下のものではなかった。あなたという"源"から流れ出ていたものが、婚約の魔法を通じて殿下へ供給されていた——そういう構造だったのです」
言葉の意味を、頭の中で繰り返した。
源。
供給。
私が、供給していた。
殿下を天運の王子と呼ばしめていたものが、私から流れ出ていた。
「……そんな、馬鹿な」
声が掠れた。
「私は何も持っていない。ずっとそう思ってきた。殿下の隣にいることが不釣り合いなくらい、何も——」
「それがそもそも、認識の誤りです」
卿の声は静かだが、揺るぎない。
「"黄金運命保持者"という体質があります。極めて稀なもので、百年に一人出るかどうか。周囲の成功率を底上げし、災厄を逸らし、人との縁を良い方向へ引き寄せる。本人には自覚がない場合がほとんどです。なぜなら、その力は自分のためではなく、周囲へと放出されてしまうから」
私は黙っていた。
何も言えなかった。
三年間の記憶が、ゆっくりと別の色に塗り替えられていくような感覚があった。
卿が帰ったあと、私はしばらく応接間に座ったままでいた。
茶はすっかり冷めていた。
窓の外では、秋の風が庭の木を揺らしている。
その葉の一枚一枚が、まるで何かを語りかけてくるようで——でも私には、まだ何も聞こえなかった。
三年間。
三年間、私は何をしていたのか。
殿下の隣で笑い、殿下の隣で頭を下げ、殿下の隣で「私は不相応だ」と縮こまっていた。
その間ずっと、私の中から何かが流れ出ていた。
見えない水路のように、殿下へと。
おかしい、と思った。
笑えるくらいおかしい、と思った。
でも笑えなかった。
殿下の成功を思い返す。
王国の歴史に残るとも言われた外交交渉——殿下が主導し、隣国との国境問題をわずか三ヶ月で解決した、あの件。
当時の宮廷では「殿下の天才的な判断だ」と囁かれていた。
私もそう思っていた。
だが今、別の角度から見ると。
交渉の前日、相手国の強硬派筆頭が急病で倒れた。
翌朝、殿下の従者が誤って別室の書類を持ち込み、そこに書かれていた数字がたまたま交渉の糸口になった。
最終合意の席では、長年折り合えなかった二人の重臣が「なぜか今日はうまく話せた」と言っていた。
殿下は確かに優秀だった。
でも——あの場に私もいた。
二年前の投資の件も。
殿下が一族の資産を動かした際、競合相手の船が嵐で沈んだ。
誰もが「運が良かった」と言った。
私はそのとき、殿下の隣でただ微笑んでいた。
思い出すたびに、胸の奥に重いものが積み上がっていく。
愛されていなかった、という痛みとは少し違う。
もっと奇妙な感覚だった。
私という存在が、最初から"人"ではなく"何か"として扱われていたような——そんな感覚。
いや、殿下には悪意はなかっただろう。
卿も言っていた。
婚約の魔法は自動的に働くもので、殿下自身も知らなかったはずだと。
知らなかった。
誰も知らなかった。
私も知らなかった。
それだけは確かだった。
だからといって、何かが楽になるわけでもなかった。
その翌週、殿下の周辺で起きた出来事を、知人の侍女から聞いた。
殿下が主導する新しい街道整備の計画が、議会で思わぬ反発を受けたらしい。
反対派の筆頭は、これまで殿下と良好な関係を保っていた老侯爵だった。
老侯爵は「以前から気になっていたことがある」と言い、長年の懸念を一気に吐き出したという。
以前から気になっていた——つまり、ずっと溜まっていたものが、今になって出てきた。
「殿下はご自分でも不思議がっておいでだったわ」
侍女は声を潜めた。
「あの侯爵様があんなことを言うなんて、って。いつもは殿下のおっしゃることに賛同してくださる方なのに」
私は相槌を打ちながら、内心でぼんやりと思った。
以前なら、その老侯爵の懸念はどこかで自然と和らいでいたのかもしれない。
誰かに愚痴を聞いてもらったとか、偶然良い知らせが入ったとか、些細な理由で機嫌が戻るような何かが——起きていたのかもしれない。
今はそれが起きない。
だから、溜まっていたものが溜まったまま出てきた。
派手な崩壊ではない。
ただ、歯車のかみ合いが少しずつ悪くなっていく。
そういう種類の変化だった。
私はそれを聞いて、何か胸に感じるかと思った。
痛みか、あるいは溜飲が下がる感覚か。
でも実際に感じたのは——静けさだった。
嵐の後のような、妙に落ち着いた静けさ。
それからの日々は、私にとって不思議なほど穏やかだった。
借りた屋敷は小さかったが、使いやすく整っていた。
市場に出かければ、顔見知りが増えていく。
あの仕立て職人の女性——マリアと名乗った——とは、気づけば友人と呼べるほど親しくなっていた。
彼女の縫製の腕は本物だった。
私は彼女を、街の小間物商を営む知人に紹介した。
するとあれよあれよと話がつながり、今では小さな工房の立ち上げの話まで出ている。
私が何か特別なことをしたわけではない。
ただ、縁と縁が結びついていった。
「フィオナ様のおかげです」
マリアはいつもそう言うが、私は首を振る。
「あなたの腕があったからよ。私はただ、知っている人を知っている人に紹介しただけ」
「それが一番難しいことなんですよ」
マリアはそう言って笑った。
その笑顔を見ていると、自分の中に何かが少しずつ溶けていく気がした。
でも私は知っていた。
この"うまくいく感覚"が、すべて私の実力ではないかもしれないということを。
卿の言葉がずっと頭の隅にある。
力は周囲へと放出されてしまう——だとすれば、今私の周りで起きている良いことは、単に私が持つ"運"が私の近くに戻ってきているだけなのかもしれない。
努力ではなく、運。
そう思うと、素直に喜べない自分がいた。
だから私は、意識して手を動かすことにした。
マリアの工房の立ち上げを手伝うために、帳簿のつけ方を勉強した。
父の書斎から借り出した商業の基礎書を、夜ごと読み込んだ。
人と話すとき、相手の言葉をちゃんと聞くように努めた。
以前の私は、自分が場違いだという意識が強すぎて、人の話を聞きながら半分は「失礼なことを言っていないか」の心配に使っていた。
今は違う。
ただ、目の前の人と話すことができる。
それが良かったのか、悪かったのかはわからない。
でも少なくとも、日々が少しずつ自分のものになっていく感覚があった。
運だけではない、と思いたかった。
この手で積み上げたものが、少しでも含まれていてほしかった。
そんな日々の中で——殿下からの使いが来たのは、婚約破棄から一ヶ月ほど経った朝のことだった。
差し出された封書には、殿下の紋章が押されていた。
久しぶりに目にするそれを、私はしばらく眺めた。
開けてみれば、内容は簡潔だった。
一度だけ、話がしたい。
それだけが書かれていた。
署名は、レオヴァルト。
殿下の直筆だった。
私は封書を折り直し、テーブルに置いた。
窓の外を見る。
今日も秋の風が吹いていた。
昨日よりも少し、冷たくなっている。
返事をするべきか、しないべきか。
そう迷いながら、でも私はすでに——答えを決めていた。
殿下が指定した場所は、王宮の外れにある小さな庭園だった。
かつて私も何度か訪れたことがある場所で、季節の花が丁寧に手入れされていた。
今は秋だから、庭の彩りは少ない。
枯れ始めた草の上に、落ち葉が積もっている。
それでも庭師が掃いているのか、通路だけはきれいだった。
殿下は先に来ていた。
いつもの端正な立ち姿——のはずなのに、どこか違う。
近づくにつれて、それが何なのかわかってきた。
疲れている。
目の下にうっすらと影があり、背筋は真っ直ぐだが肩に余分な力が入っている。
天運の王子と呼ばれた人の、別の顔だった。
「来てくれて、ありがとう」
殿下は私を見て、まず礼を言った。
以前は聞いたことのない言葉だった。
いや、言葉自体はあった。
でも今のような響きではなかった。
「お手紙を拝見しました。お話とは、何でしょうか」
努めて平静に問う。
殿下は少し迷うように視線を落とし、それからまっすぐに私を見た。
「戻ってきてほしい」
風が吹いた。
落ち葉が一枚、二人の間を転がっていった。
「婚約を、白紙に戻してほしいんだ。君が必要だ、フィオナ」
私は何も言わなかった。
急いで答えを出すつもりがなかった。
ただ、殿下の言葉をそのまま受け取って、自分の中に沈めてみた。
君が必要だ。
必要。
愛している、ではなく。
会いたかった、でもなく。
必要だ。
「……なぜ、今になって」
静かに問うと、殿下はわずかに目を伏せた。
「色々と、うまくいかないことが続いている。以前は何でも自然と道が開いた。なのに最近は、小さなことでも詰まる。人の気持ちも読めなくなったような気がして——」
殿下は言葉を切り、また私を見た。
「君と別れてから、そうなった。君がいれば、きっと戻る。そう思った」
私はゆっくりと息を吸った。
怒りがないわけではなかった。
でもそれより先に、ひどく静かな気持ちがあった。
この方は、気づいていない。
あるいは、気づきたくないのかもしれない。
「殿下」
初めて、自分から名を呼んだ。
いつもは"殿下"と呼ぶだけで精一杯だった。
今日は違う。
「殿下は今、私が必要だとおっしゃいました。でもそれは——私という人間が必要なのではなく、"幸運"が必要なのでしょう」
殿下の表情が、かすかに動いた。
「そんなことは——」
「宮廷魔術師のシュバルツ卿から、話を聞きました。私が何者なのか。この三年間、何が起きていたのかも」
沈黙が落ちた。
庭園に風が通り、枯れ葉がざわめく。
殿下は何かを言おうとして、口を開き、閉じた。
「あなたは私ではなく、"幸運"しか見ていなかった」
声が思ったより落ち着いていた。
震えていなかった。
三年前の舞踏会でも、婚約破棄の夜もそうだった。
肝心なときに私の声は震えない。
それだけが、私の持つ静けさだった。
「三年間、殿下の隣で私は何を感じていたか。不相応だという恥ずかしさ。足りないという焦り。もっとうまくできればと思う焦燥。そのどれも——殿下が与えてくださったわけではありません」
殿下は黙っていた。
「殿下は悪い方ではない。婚約の魔法のことも、知らなかったのでしょう。でも——知らなかったというだけでは、三年間は戻らない」
落ち葉が一枚、私の足元に舞い降りた。
踏まないように、一歩横にずれた。
「でも私は、"誰かの運を支えるためだけ"に生きているわけではありません」
言ってから、その言葉が自分の中でまっすぐ立っているのを感じた。
ずっと前から、そこにあった言葉のような気がした。
殿下は長い間、黙っていた。
琥珀色の瞳が、私を見ている。
以前なら、この瞳に見られることが誇らしくて、同時にひどく怖かった。
今はただ——見ている、と思う。
「……そうか」
殿下は静かに言った。
怒りでも、懇願でもなかった。
「わかった」
それだけだった。
私は一礼して、庭園を後にした。
振り返らなかった。
振り返る必要がないと思った。
その後、殿下の周辺がどうなったかを私が知るのは、また人づてになる。
街道整備の件は結局、議会で大きく修正を求められた。
殿下が推し進めようとした計画のいくつかは、以前なら偶然に解決していたような小さな壁に、ことごとく阻まれた。
人が離れたわけではない。
殿下には確かな能力があったし、それを認める臣下も多かった。
ただ——何かがかみ合わない、という状態が続いた。
投資の一件では損失こそ出なかったが、期待していた利益の半分も得られなかった。
「殿下も普通の方なのだ」という声が、宮廷の端の方で聞こえ始めた。
誰かが完全に壊れたわけではなかった。
ただ、実力に見合った位置へと、静かに戻っていった。
それは残酷かもしれないし、当然なのかもしれない。
私にはどちらとも言えなかった。
人の人生に、そんな簡単に答えは出せない。
セレーネについては、風の便りで聞いた。
彼女は殿下のそばにいたが、思っていたほど"運命"を感じられなくなった、と零しているらしかった。
運が強い男に惹かれた彼女が、"普通"になった男の隣で何を思うのか。
それも、私には関わりのないことだった。
冬が来た頃、マリアの工房は正式に開いた。
小さな看板を掲げた日、私たちは二人で温かいスープを飲んだ。
特別なことは何もない、ただの昼だった。
それなのに、妙に晴れやかな気分だった。
「フィオナ様、これからどうされるんですか」
マリアが聞いた。
「これから?」
「婚約が終わって、宮廷とも離れて。寂しくはないですか」
私は少し考えた。
寂しいか、と聞かれると——そうでもない、と思う。
あの三年間の方が、ずっと孤独だった。
誰かの隣にいながら、自分がどこにも属していないような感覚。
それに比べれば今は、小さくても確かに自分の場所がある。
「寂しくないわ」
答えると、マリアは少し驚いた顔をして、それからにっこりした。
「それは良かった」
工房を出ると、空が広かった。
冬の空は高くて、青い。
息を吐くと白くなった。
私は少し立ち止まって、その白い息が空に溶けていくのを見た。
そのとき、不意に風が吹いた。
冬の風のはずなのに、妙に温かく感じられる一瞬があった。
背中を押すような、穏やかな追い風。
どこから来たのかわからない、でも確かにそこにある風。
私は目を細めた。
運命、と言う言葉が頭をよぎる。
以前の私なら、運命とはどこか大きな力に決められるものだと思っていた。
与えられるか、奪われるか。
どちらにせよ、自分の外側にあるものだと。
でも今は、少し違う気がする。
運が私から流れていたとしても。
その流れの源が私の中にあったとしても。
それを知った今、どこへ流すかを——少しは、選べるのかもしれない。
私はまた歩き出した。
足元の石畳は少し凍りかけていて、慎重に踏まないと滑る。
でも歩けないわけじゃない。
一歩ずつ、確かめながら進めばいい。
運命は、奪われるものではなかった。
——私自身が、運命だったのだから。
追い風は、まだ続いていた。
終幕




