四重唱のアルト
意味を正確に考えればアルトではなくバスである、と常々思うのだが、この家族は皆オレのことをアルトと呼ぶ。オレは紛れも無く雌雄は雄であるから、やるならテナーかバスのどちらかであり、アルトであることはありえない。
しかし、この家の家族のことをよく知るうちに納得してきた。オレはどうやらお父さんとお母さんにとっては子供同様らしく、あの三人の中に加わるとするなら、オレはアルトで間違いない、と思い直した。
家の名は澤村という。家長のお父さんはパパと呼ばれている。従ってお母さんはママだ。子供は上から高校三年生のお兄ちゃんと、一つ年下の秀くん、一番年下の温の三人。温は中学三年なのに、お兄ちゃんみたく勉強が得意じゃないから、最近はおろおろしながら参考書とにらめっこをしている。ちなみにお兄ちゃんは早々に進学先を決め、今は悠々自適な高校生活を満喫している。
パパは子煩悩で明るい人だ。結婚して何年も経つだろうに、今でもママと恋人同士のようなベタ甘な関係を築いている。庭の草木を世話したり、畑を耕したり、車を洗ったりするのが好きだ。ママと協力して家事もやる。日曜日の朝早く、オレがリビングへ行くと、パパが一人でフローリングを磨いていたりする。秀くんいわく、ケッペキショウというらしい。
ママはかわいい人だ。というのはパパの口癖だけど、オレも彼女には永遠の少女という形容がぴったりだと思う。洋風の衣服が大好きで、ピンクとか白で構成されたフリルつきのワンピースがよく似合う。短くそろえた茶色の髪にリボンを巻いていたりもする。三人の子供と並んでも、とても親子に見えない。働き者で綺麗好きでおっとりしている。
お兄ちゃんはちょっと我が侭だ。とくに三男の温を自分の家来のように扱うことがある。どうやら温が自分の身長を抜かしたことが気に食わないようで、ことある毎にその話を持ち出す。荷物を持てとか、チャリの後ろに乗せてけとか、お前の方がでかいんだから体力あるだろうってなんでもかんでも押し付ける。彼に、温に対する優しさはかけらも見えない。
秀くんは一番オレとテンションが似ている。どこか一歩引いた位置で家族を見つめているのだ。ママは秀くんをマイペースと言っていた。中肉中背で、丁度お兄ちゃんと温を足して二で割った感じの見た目だ。無口だけどツッコミは鋭い。キラリと光るめがねがトレードマークだ。中だるみもせず勉強も運動もそこそこ出来て、女の子には兄弟の中で一番モテる。
温は優しくて気が弱い。図体ばかり大きくて、中身は鈍くさい。オレと一緒にソファに座ってテレビを見ているのが一番落ち着くと、お兄ちゃんが居ないときに言われたことがある。中学生のくせに老成していると思う。自分の人生はお兄ちゃんがいる限り幸せにならないとか、ぶつぶつ文句を言っている。
オレを加えて、兄弟をカルテットに分けるなら、お兄ちゃんはソプラノ、秀くんはテナー、温はバスって感じだ。だからオレはアルトの位置に納まる。オレは秀くんより冷めていないけど、お兄ちゃんより騒がしくない。
「いいお天気ねぇ」
ママが言った。オレが丁度ソファに座ったときだった。ママがリビングの大きな窓を開けてベランダに出た。洗濯カゴの中には家族全員分の衣服がたっぷりと詰まっている。タオルを一枚手にとって、ママは洗濯物を干し始めた。確かに日差しがさんさんと照りつけ、衣服がよく乾きそうな天気だった。リビングのソファの真向かいには大きなテレビがある。朝からつきっぱなしのテレビは繰り返し同じことばかり言うニュースを映していて、ネタが切れたのか今度新しく始まるドラマの女優がスタジオにゲストとしてよばれ、物語の見所をつらつらと述べている。他にもっと世界情勢をニュースとして取り上げればいいのに、日本国は今日も平和ボケしている。
オレはテレビに飽きてママの側へ行った。すると入れ替わりにママはリビングへ戻ってしまう。いつの間にか洗濯物を干し終えたようで、カゴをもって鼻歌を歌いながら廊下を歩いていく。ママの背中を見送ったあと、オレはベランダで風に吹かれながら日差しを楽しんだ。晴れという天気は何もないのに心を躍らせるからおもしろい。
三人の子供は学校、パパは仕事に出かけてしまった。専業主婦のママはこれから掃除をしたり朝ごはんの食器を洗ったり忙しいだろう。オレはママの邪魔にならないように、しばらくベランダで風に吹かれることにした。
*
気がついたら、晴れていた空がすっかり曇天になっていた。日差しが遮られた空は薄暗く、時刻をわからなくさせる。オレはいつの間にかリビングにいた。多分、曇ってきた空を見て、ママがオレを中へ入れてくれたのだろう。風に吹かれているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。
「まぁ、そうなんですかぁ」
ママの声が聞こえた。玄関からだ。玄関先で、誰かと話しているようだ。オレは声のする方へ静かに歩いて行った。リビングの時計が十一時半を指していた。そろそろお昼ごはんだ。
「だから、澤村さんも見かけたら教えていただけるとありがたいんだけど…」
「ええ、わかりました。息子たちにも聞いてみますね」
「悪いねぇ、ありがとう」
話し相手は近所のおばさんだ。心配性で有名な、噂話と井戸端会議が何より楽しみという人で、ママより何歳か年上だったはず。おばさんの家にもこの家の兄弟と同じ年頃の息子と娘がいた。ママは何か頼まれた様子だけど、一体何を頼まれたのだろう。
玄関扉を閉め、廊下を歩いてきたママに、オレは無言で「何があったの」と上目遣いに問いかけた。オレのハテナ顔に気がついたママは事の次第を話し始めた。
「橘さんの娘さん、ストーカーに合ってるかもしれないんですって。何か見かけたら教えてくださいって頼まれちゃった。ストーカーなんて、怖いわねぇ」
ストーカーとは、確かに物騒だ。最近のニュースで、ストーカーが被害者の家に放火したとか、包丁を持って家へ侵入したとか、あった気がする。オレも近所を出歩くときは、怪しい人物に目を付けておこう。この辺の住人の顔は大体覚えているし、よそ者が居たら記憶に刻み込んでおくべきだ。
「ただいまー」
閉まったばかりの玄関扉が再び開いた。ママが振り返って出迎えに行く。お兄ちゃんが帰ってきたようだ。
「お帰りなさい。早いのねぇ」
「午前だけだったから。ごはんは?」
「これからよ。手を洗ってらっしゃい」
ごはんという言葉に、オレの腹の虫も反応した。一つ大きな伸びをして、お兄ちゃんについて二階へ上がる。二階には三兄弟の部屋と夫婦の寝室、トイレと書斎がある。お兄ちゃんは自分の部屋へ直行すると、鞄をベッドの上に放り投げ、制服から部屋着に着替え始めた。
「部活も授業もないと暇だよな。趣味ってなんだろう」
お兄ちゃんはそんなことを呟いた。お兄ちゃんは趣味らしい趣味がない。部屋の中も殺風景で、漫画も読まなければ音楽も聴かないし、ゲームもしない。スポーツ好きというわけでもないし、勉強にばかり精を出すような人でもない。何を楽しみに生きているのか、オレにも謎だ。
オレはお兄ちゃんの呟きに首をかしげた。オレの趣味もこれといってない。あるとするなら、家族の動向を観察するとか、くだらないテレビを見るとか、近所を出歩くくらいのものだ。けれどオレはベランダで日に当たりながら風に吹かれているだけで幸せを感じるし、明日もそうだったらいいなと思う。暇というより、それを楽しんでいるという感覚だ。だからオレは満足している。お兄ちゃんみたく「暇だなぁ」とため息を吐くようなことではない。
お兄ちゃんはオレよりももっとたくさん、いろんなことができる。ベランダで日に当たって風に吹かれているくらいなら、街に繰り出すとか、旅行に出かけるとか、何だってできるのに。楽しいことが無いって、かわいそうかもしれない。
お兄ちゃんは着替え終わるとママの言いつけどおり手を洗った。お兄ちゃんは温には横柄な態度をとるけど、ママの言うことは素直に聞く。パパに言われれば邪険にしたり、面倒だと文句を言うのに、ママに言われると小さな子供みたいに頷く。きっとママっ子ってやつだと思う。マザコンとは言わないけど。
「北海道の牛乳よ、ちゃんと飲んでね」
食卓にはコップに牛乳、メインのおかずの鳥のから揚げ、白いご飯と味噌汁、サラダが乗っている。まるで給食の盛り付けのような感じだ。お兄ちゃんはメニューを見て顔をしかめた。牛乳が嫌いなのだ。
「アルト、おかわりならたっぷりあるからな」
ママが見ていない隙にこそっと耳打ちされた。お兄ちゃんの牛乳をオレにくれるってことなんだろう。オレはお兄ちゃんに呆れながら、結局ニコニコしながら食事を見守るママを前にして、しぶしぶ北海道の牛乳を口にするのだろうと、数分後のお兄ちゃんを想像して小さく笑った。お兄ちゃんはママには弱い。普段はふんぞり返っているのに、ママの前だと小さい子供に戻ってしまう。ギャップの激しさにオレはいつも苦笑する。
けれど、お兄ちゃんがママに甘えるのはオレとママとお兄ちゃんだけのときだ。ここにパパや秀くんや温が居れば、お兄ちゃんはちょっとぶっきらぼうな少年になる。兄弟やパパの前では恥ずかしいんだろう。オレは甘えるお兄ちゃんのことを誰にも口外していない。これはオレたちだけの秘密だ。
オレは自分の水皿に注がれた北海道の牛乳を舐めた。さすがに北海道と銘打っているだけあって、いつもよりおいしい気がする。こんなにおいしいのに、お兄ちゃんは嫌いだなんて、信じられない。
*
今日の澤村家は穏やかだった。昼ごはんのあと、ソファに座ってテレビを見始めたお兄ちゃんに身体を抱き上げられ「お前、牛乳くさいな」などと言われ腹は立ったけれど、それでも穏やかと言えるだろう。あくびをしながら落ち着いて毛づくろいが出来るんだから、澤村家は本当に平和だ。腹を空かせる心配も、雨に濡れる心配もない。昔はそんなことざらだったのに、今外の世界に放り出されたら、オレはどこか別の人間に媚を売って、世話をしてもらえるようにする気がする。もう野良じゃ生きて行けない。獲物の獲方なんて忘れてしまった。
「ただいまぁ」
温の間延びした声が聞こえる。もう夕方なのだ。幸せに浸っているうちに一日が過ぎてしまった。
「暇な一日だったな…」
お兄ちゃんはまた呟いている。オレと違って物も使えるし、しゃべることも出来るのに、どうしてオレと同じようなことをして時間を無駄にするのだろう。もし、オレがお兄ちゃんだったらもっといろんなことをして、毎日わくわくして、むしろ時間が足りないくらいやりたいことが増えると思うのに。
「晩ごはんよ。手を洗ってらっしゃい」
ママは昼ごはんの後テレビを見ていただけのお兄ちゃんにもそう声をかけた。お兄ちゃんはしぶしぶといった様子で立ち上がり、洗面台へ行った。あの様子では全く空腹なんて感じていないように思える。晩ごはんの箸は進まないことだろう。
温と一緒に帰ってきた秀くんと廊下で鉢合わせした。温は二階へ上がったようだけど、秀くんは制服のままリビングへやってきた。何か用事でもあるのだろうか。
そう思っていたら、秀くんがオレの頭を撫でた。屈んで、鞄も下ろさないままオレの頭や耳の後ろ、喉を撫でていく。一通りオレを撫で回した後、秀くんは満足そうにニヤリと笑ってから部屋へ上がった。秀くんは猫好きなのだ。あまりに長く猫に触れないとイライラするらしい。それはもう一種の中毒にも思える。しかしオレにとってはありがたい。少なくとも秀くんが家にいる限り、オレは二度と捨てられたりしないだろう。
*
数日後に例のストーカーに関して一騒動があるのだけど、それはまた別の話だ。オレは今日の晩ごはんの席へ赴くことにする。