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05話 帰れたのに


 夕方。

 窓の外はまだ明るく、空はオレンジ色に傾いている。この時間帯が、いちばん落ち着かない。

 昼でも夜でもない、帰ろうと思えば帰れてしまう時間。


 リビングには、二人の影だけが染みとして癒着していた。


「今日は、ここまででいいよ」


 朽木先輩は、そう言って、爪切りを手の中でくるくると回す。


「……いいんですか」


 自分で言っておいて、変な質問だと思った。

 いい、とは何だ。

 何が終わって、何が始まるのかも、僕は分かっていない。


「うん。無理させると、続かないから」


 一体なにが?

 僕は引っかかったが、聞き返す勇気はなかった。


 沈黙が落ちる。

 遠くで、車の走る音がした。

 この団地は、住宅街にあった。

 窓の向こうや各階には、他人の生活が広がっている。


「ね」


 先輩が、ぽつりと言った。


「一年のときはさ、正直、楽しかった」


 壁の鳥から、視線を外さない。


「描くのは好きだったし。褒められるし。文化祭って、そういうものだと思ってた」


 一拍置いて、続ける。


「二年になると、分かってくるの。あ、これ、終わらないんだって」


 その声には、怒りも、恐怖もなかった。

 少し疲れているように見えた。


「先生たちは、毎年言うよ。『前例があるから』って」


 前例。

 その言葉が、頭の中で転がった。


「でも、次で終わりにする」


 決意というより、確認に近い。


「途中で投げるわけにはいかない」


 先輩は、ようやく僕を見た。


「……だから?」


 思わず、そう聞いていた。


「うん。手伝って欲しいの」


 否定もしない。

 誤魔化しもしない。


「一人だと、足りないから」


 その言葉の意味を、全部は理解できなかった。

 けれど、分かる気がする。

 初対面のときに感じた違和感はもう思い出せなかった。


「今日は、帰っていいよ」


 もう一度、先輩は言った。

 逃げ道を、ちゃんと残すように。


 僕は立ち上がり、玄関の方を見る。

 ドアは閉まっている。鍵も、かかっていないはずだ。

 帰れる。

 それなのに、足は動かなかった。


 何も知らないまま、文化祭が続くのが嫌だった。

 それだけは、はっきりしていた。

 帰ったら、もう二度と聞けない気がした。


「……少しだけ、残ってもいいですか」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

 朽木先輩は、驚いた顔をした。

 それから、ほんの一瞬だけ、困ったように笑った。


「うん。無理しなくていいよ」

「分かってます」


 分かっていないくせに……自分が嫌になる。


「大丈夫です。朽木先輩」


 初めてそう呼んだ。

 呼びたかった。それだけ。


「うん」


 先輩は、それ以上何も言わなかった。

 壁の鳥に視線を戻す。


 夕方の光が、羽の輪郭を淡く照らしている。

 飛べないままの鳥が、少しだけ綺麗に見えた。


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