04話 揃わないほうが、怖い
気づく人。
先輩にそう言われ、僕は内心驚いた。
不揃い嫌いを、そんな風に言う人はいなかった。
それでも、嬉しくはなかった。
思いつくのは、どうしてこうなった、だった。
いくら遡っても、分岐点は見つからない。ただ一つだけ確かなのは、あのとき、逃げなかったという事実だ。
「あ、そうだ、先輩。ぶ、文化祭で……」
思考を振り払いたくて、違うことを考える。
喉が乾き、言葉が絡まる。
「うん、知ってるよ」
僕の話を最後まで聞かず、朽木先輩は言った。
その目は、僕ではなく、僕の『知らなさ』を見ているようだった。
「では……お願いできますか?」
自分でも何を頼んでいるのか、はっきりしないまま、ポケットから四つ折りの紙を取り出す。文化祭の出し物案。日程。役割分担。
開こうとしたその瞬間、上からそっと手が重なった。
「うん、分かってるって」
押さえられた紙越しに、体温が伝わる。その温度は思ったよりも低い。
指先が触れた。
ぴり、と。
微かな感覚。
視線を落とす。親指の隣、人差し指の先。わずかに、薄い。
欠けている、というより、削られた跡のように平らだった。
ただ、そこだけが、軽い。
「びっくりした?」
先輩は、笑っていない。
逃げる理由ばかり頭に浮かぶ。
この人、頭がおかしい。
「最初は、私も分からなかった」
僕の手から紙を引き抜き、ゆっくりと広げる。
そこに並んでいたのは、文化祭の出し物案ではなかった。
細長い形。緩やかに湾曲した線。
同じ形が、規則的に並び、一つ一つに番号が振られている。
爪。
正確には、爪の『輪郭』だけが、丁寧に、執拗に描かれている。
「これは……?」
思わず呟く。
「うん。記録」
朽木先輩は静かに言った。
「最初は一年生のとき。頼まれたの。あなた、絵が上手だからって」
番号の振られた爪の列を、指がなぞる。
「描くだけだと思ってた。形を写すだけの、文化祭の企画だって」
二年分の線が、そこにある。同じようで、微妙に違う曲線。
少しずつ、紙の端に近づいている。
「でもね」
紙の右端。そこには、枠だけ描かれていて、まだ何も記されていない空白があった。
「ここまで来たら、分かるでしょ」
答えに詰まり、言葉が出ない。
「三年になったら、大学受験とかで忙しいでしょ? だからってさあ。もう終わりだよ、て先生たちは言うと思う」
淡々とした声が続く。
「ど、どういう意味ですか? 終わりってなんですか?」
「文化祭」
「え?」
「うん。完成させるんじゃない。揃えるの、もうやめる」
揃える。
その言葉に、胸がざわつく。
「揃えないと、毎年続く。半端なままだと、次の一年がやる」
視線が、僕に向く。
「だから、最後までやる」
逃げ場のない距離。けれどそこに、悪意は感じない。
「相沢くん、一人だと足りないの」
足りない。
その意味を、理解した瞬間、喉が固まる。
いつの間にか、僕の手の中に爪切りがあった。
白い本体。
確かに、僕のものだ。
「怖い?」
先輩が訊く。
ぱちん。
刃が、空を噛む。
「帰ってもいいよ」
穏やかな声。
「でも、ここでやめたら……来年、誰かがここに立つ」
紙の空白が、静かにそこにある。
「揃わなくなるから」
揃わなくなる。
それが完成しない、という意味じゃないことだけは分かった。
でも、揃うことが、終わりじゃない。
壁の鳥の絵が、視界の端で揺れた気がした。羽ばたく直前の姿のまま、永遠に飛べない。
「ねえ、相沢くん」
囁きが落ちる。
「終わらせるの、手伝ってくれる?」
先輩の手が、僕の指先に触れる。
今度は、冷たいというより、現実だった。
「君となら出来る気がするから」
揃わないほうが、怖い。
痛みは、まだない。
握りしめた爪切りの刃が、指先に触れた。




