24話 朝霧めぐみ
その日の夜は、なかなか寝つけなかった。
昨日とは、まるで違う。
廊下にぶら下がっている爪切りの暖簾も気持ち悪いし、洗濯物はきれいになって枕元に畳んであるし、それに冷蔵庫の牛乳が新しくなっていた。
一体誰が。
あのスタッフ、望月さんが来たのだろうか。
でも、三日に一度と言っていたのに。
考えが行ったり来たりする。
朽木先輩が言った、ズレてるという言葉がジワリと染みる。
侵食とも、位相とも言った。
これじゃ、異世界に来たようなもんじゃないか。
現実の異世界。
自分で考えて、笑うに笑えなかった。
あのメールも文章も気になる。
不可能の文字。
僕はもう戻れないのか。
いや。
そもそも、僕は何処にいて、何処に戻るというのだろう。
再び考えが巡る。
そんなことを考えているうちに、スマホの呼び出し音で目が覚めた。
どうやら知らず寝ていたみたいだった。
カーテンのない窓から、がらんどうの部屋を照らしている。
枕元に手を伸ばし、スマホを取る。
何度も見た番号。
「もしもし」
「あ、起きてた。今日、お昼の一時に裏門で待ち合わせしましょう。昨日、家で見つけたの」
「はい。一時ですね」
じゃあ、と言って切れた。
相変わらずだった。
お陰で目が覚めた。
時計を見る。
「うそだろ……」
十二時五十分だった。
先輩の声からして、少なくとも三十分くらいはあると思ったが、まだまだ甘かった。
寒空の中、必死に自転車を漕いで裏門に駆けつけた。
遠目でも分かる。
先に来ていた。
「ご、ごめんなさい。遅くなりました」
「そう? あと一分あったよ」
先輩は涼しげに言った。
その表情から察するに、遅れていたら、と想像するだけ身震いが起きた。
心のメモに、「遅刻厳禁」と太い赤文字で書き記した。
「早く開けて、寒くて寒くて」
「あ、はい。待って下さい。すぐに開けます」
自転車を置いて、ポケットから鍵を取り出した。
扉を開けて、入る。
昼間とはいえ、誰もいない学校は好きになれない。
冬の空が暗く感じるのも、学校のせいばかりじゃないと思った。
旧校舎に向かい、二階に上がる。
「先輩、一つ聞いても?」
「ん? なに?」
「生活指導の先生って、いつも来るんですか?」
ドアを開けて、入った先輩が振り向く。
「測ったことはないけど、教室に入ってから大体十分くらいかな?」
「決まって?」
「うん。来ないときはなかったと思う」
「それって」
僕は緊張した。
続きを口にするだけで、想像が、現実となって確定しそうな気がしたからだ。
「あってると思う」
先輩が先に答えを出す。
「やっぱり。監視されている?」
「さあ、どうだろう。いつも誰かに見られてる気はするけど」
「だから昨日、誰にも言わないで、って言ったんですね」
「そういうこと。まあ、話したらどうかなるってことはないと思うけど、ちょっと気になるから」
「そうですか。分かりました。で、今日は?」
「うん」
なんとなく急いで言った。
先輩も分かっているみたいで、肩に掛けたカバンを開いた。
「これを見て欲しいの」
取り出したのは、小さなビニール袋だった。
手のひらに乗せる。
証拠品入れに使うような、小さな透明の袋だった。
「なんですかこれ?」
白い粉。ではなくて、干からびた小さな破片。
「これ、人の爪だよ」
「えっ」
僕は驚いて袋を落としそうになった。
「だ、誰の?」
「うん。ちょっと待って」
今度は紙を取り出した。
ノートの見開きサイズ。
そこにはびっしりと数字と記号が書かれている。
「これは?」
一瞬なにか分からなかったが、少し顔を引くと見えてきた。
「絵の構図、ですか?」
「正解。この構図みたことないの」
先輩はそう言って、辺りを見回す。
たしかに、この構図に一致する絵はない。
題名は、蜘蛛の巣にかかった朝露。
朝の光を受け、糸に連なった無数の水滴がダイヤモンドのように輝いている。
それを頭に入れてもう一度見渡す。
たしかに無い。
見れば分かるだろう蜘蛛の巣というのが、そもそもないのだ。
「おかしくない?」
「そうですね」
僕は考えた。この構図は、それに爪は。
「先輩。これ、どこで見つけたんですか?」
「あ、ごめん。言ってなかった」
どうやらお姉ちゃんの部屋で見つけたらしい。
朽木先輩曰く、お姉ちゃんが引き継いだときに作られた絵らしいのだ。
「ここみて」
指を指す先に、2022年、朝霧めぐみと書いてあった。
「それから、これ」
取り出したのは、僕に渡した紙と同じだった。
コピーらしきそれを、再び指を指した。
「ねえ、おかしいでしょ?」
「うん」
一覧に書かれていた、2022年、朝霧めぐみ。
おかしいのは、そう。
天井と壁の間に、その絵が無いことだった。
「朝霧めぐみの絵、ちょうど抜けてる」
「誰かが持ち帰ったとか?」
「そうかな」
先輩は、空白になった天井を見つめて言った。
持ち帰ることなんてあるだろうか。
だが、所々同じような空白はあった。
数えてみると、全部で五箇所。
不揃いが苦手な僕にとって、奇数は嫌いだ。
偶数なら揃っているからいい。
「あっ先輩。もしかして」
僕は思いついた。
それを話し出す前に、廊下から足音が聞こえてきた。




