20話 おかえり
「こっちに来て」
先輩はリビングの中程に立つと、僕を待った。
牛乳を冷蔵庫に戻すと、先輩の前に立つ。
「なんですか?」
「手、出して」
僕は素直に差し出した。
何をする気だろう?
はちん。
「痛いっ」
すぐに手を引っ込めて爪を見た。
深爪。
「なにするんですか。痛いじゃないですか」
「いいから、手、出して」
僕は深爪になった中指をさすりながら、断った。
「嫌ですよ。勝手に切らないで下さい。深爪は嫌いなんです」
昨日切ったばかりだ。
どうして先輩に爪を切られなきゃならない。
僕は子どもでも、あんたの彼氏でもない。
「いいからお願い。じゃないと忘れちゃうから」
「なんですかそれ? 勝手に入ってきて、意味わかんないです」
帰ってください、と言おうとしたときだった。
何かが違って見えた。
何かは分からない。
寒々とした空間だった。
なんだここ。
「はやく。切れば分かる」
「でも……」
「ほら、不揃いは嫌いでしょ? そのままでいいの?」
僕は指を見返した。
見ているだけで、ムズムズする。
どうして僕が不安になることを知ってるんだ?
そうこうしている間に、先輩は僕の手を取ると爪を切り始めた。
今度は逃げなかったので、痛くはなかった。
ぱちん。
ぱちん。
連続する音を聞いていると、不快感に襲われた。
引っ越し前の部屋。
カーテンもない。
ただの四角い箱。
爪が切られるたびに、何かが遠くなっていく気がした。
僕はここで一体何をして……。
「終わった。ちょっとは思い出した?」
赤いカバーの爪切りを僕に差し出す。
僕は自然と手が伸びた。
「図書室で、朽木先輩に貰った、爪切り……」
塗りつぶされていた空欄が、綺麗に現れるような感覚。
「よかった。取り戻したんだね」
「……はい」
まだはっきりとはしないが、先輩が今言った意味は理解できた。
どうしてここにいるのか。
これからなにをするのか。
自分が忘れていたということを、思い出し、急に怖くなってきた。
「先輩……僕、どうなっているんですか」
朽木先輩は、答える代わりに口角で笑ってみせた。
「おかえり」
その一言で僕は救われた気がした。
「今日はもういいよ。ゆっくり休みなさい。また、明日来るから」
「……はい」
爪切りを握りしめた。
これほど、爪切りに感謝したことはない。
「たぶん、忘れているだろうから、言っておくね。この紙に書かれていることなんだけど」
先輩は台所にあった一枚の紙を手にして言った。
「これ、過去の担当者。年代と名前が書いてある。それとこれもついでに見ておいて」
先輩はスマホの画面を何度かタッチした。すると、奥の部屋から着信が響く。
「送っておいたから」
そう言って、出ていった。
ひとり残された。
何もない。
手の中にある爪切りだけが、僕の存在意義を示しているようで、離すことが出来なかった。




