17話 位相
先輩の話を一言で言えば、常軌を逸していた。
世界が書き換わる。
理由は不明。
それを誰も疑わない。
「それがずっと続いているの」
なのに僕は、頷いた。
ついさっきまで、嫌だ、理不尽だと思っていたのに。
今は、朽木先輩の話に少しずつ納得していくのが分かる。
「僕は、どうなるんですか?」
じわじわと侵食されていくようで、つい不安が口をつく。
そんな僕を見ながら、先輩は制服の内ポケットからメガネを取り出した。
赤縁のメガネ。
「え? 目、悪かったんですか?」
一瞬で、目の前の出来事に気を取られた。
不思議と違和感はない。
似合っているのとは違う。
別の「人格」がそこに現れたような錯覚に、僕は息を呑んだ。
「それでね。三年生から引き継いだときに聞いたことを話すね」
朽木先輩は、僕の質問を無かったことにして、フレームの真ん中を指先で上げてから続けた。
「絵は絶対に完成させなくちゃだめ。何があっても、必ず」
しつこく言われたらしい。
「でないと、ズレが始まる。それが、色であったり、感覚であったり、時間であったり」
「それで、先輩は色覚を失った?」
「うん」
先輩は僕の手を見ながら言う。
「もう大丈夫。相沢くんの爪で、完成したから」
「先生が繰り返したのも? それが原因なんですか?」
「さあ、どうなんだろう。ずっとあんな感じだったから」
今なら分かる。
先輩との会話が、ズレていない。
きっと、僕がこちら側に踏み込んだせい。
「戻れないんですよね?」
先輩は少し考えてから、首を横に振った。
「ううん。戻るんじゃないの。引き継ぐの」
もう少しで大声を出しそうになった。
引き継ぐ?
終わらすんじゃなくて?
意味が分からない。
「大丈夫、私に考えがあるの」
「考え?」
先輩は、体をぐっと前に寄せると、「世界の外には出られない」と言ったあと、
「でも、終わらすことは出来ると思うの」
朽木先輩が何を言わんとしているのか、僕には理解できなかった。
それでも今は、その不確かな言葉にさえ、すがりつきたい気分だった。
しばらくして、足を崩した先輩が思い出したように聞いてきた。
「位相って知ってる?」
「何ですか、それ」
「ズレているのよ」
先輩は、僕が理解できていないことを見越したように小さく笑った。
「波のタイミングがずれることを位相っていうの。それは……私たちと、周りのリズムがズレていることとと同じなのよ」
「波とリズムですか?」
馴染みのない言葉の連発に、僕がまだ戸惑っていると。
「この理不尽な継承に、名前を付けたら何がいいのか考えてたの。そしたら、ちょうど物理の授業で『位相』という言葉を習って。それで思いついたの」
「そ、そうですか」
僕が知らない知識を持っている。たったそれだけなのに、先輩の横顔が少し大人びて見えた。
「早速なんだけど、私、『家』に帰るね」
「あ、はい」
一瞬ここが、と言いそうなり飲み込んだ。
ここは僕の家だった。
「僕はどうしたら?」
情けないが、何も思いつかない。
「ちょっと待ってて」
そう言って、リビングの奥へ消えていった。
壁に絵はない。
はじまりの絵。
もう何年も前の出来事のようで、振り返ることすら難しかった。
しばらくすると先輩は一枚の紙を手に戻ってきた。
「これ渡しておくね。後で読んで」
数字と名前が書いてある。
「じゃあ、明日」
「はい……」
朽木先輩を見送った後、僕はゆれる爪切り暖簾を見て、最初に感じたであろう不気味さをもう感じなくなっていた。




