10話 モノクロ
教室に差し込む日が陰り、絵の陰影が濃くなる。
さっきまで平面だったはずの羽根が、わずかに浮き上がって見えた。
錯覚だ。
そう思った瞬間、爪の断面が鈍く光る。
「うん。完成させないと、ダメなんだって」
「何が」
「ズレるから」
「何がズレるんですか」
先輩は、羽根の先端を見たまま言った。
「場所」
僕はその場を見回してしまった。
場所とはそういうことだ。
それが、ズレる?
「色や感覚。未完だとズレるって、私に教えてくれた先輩はそう言ってた」
「ち、ちょっと先輩。さっきから全く意味がわかりません」
朽木先輩はゆっくりと僕に顔を向けて、「私も、そうだった」と瞬きもせずに言う。
「でも、やっとわかったの」
「ズレるって意味がですか?」
先輩は、羽根の絵を指さした。
光を放つ一羽の羽根。
「真っ白な鳥の羽根。私にはモノクロに見えるの」
どういうことだろう。
僕はもう一度絵を眺める。
僕には、緑も青も見える。
けれど先輩の瞳には、色が映っていない。
羽根は、ただの白い欠片にしか見えていないのだろうか。
僕は首を傾げながら、先輩の瞳を覗き込んだ。
「色が、わからないんですか?」
「色彩感覚がズレたみたい」
ズレた。
そういうことか。
僕は恐る恐る尋ねた。
「それって、戻らないんですか?」
「うん。ズレは戻らない。死んだ人だって戻らないでしょ?」
先輩は、当たり前のことを言うみたいに笑った。
答えにたどり着くまで、少しの時間を要した。
その意味が頭に馴染むと、握っていた爪切りが滑り落ちた。
カチャ。
二人だけの図書室。
響き渡る音が、僕をその場に釘付けにした。
「戻る?」
この部屋からか、それともズレる前の場所へか。
そのとき、別の考えが浮かんだ。
「もしかして、先輩。あの絵、完成させなかったんですか?」
僕には先輩の異変は分からない。
でも、代償のようなものがあるのだろう。
「どうして?」
続けて聞いた僕の顔を、横目で見て息をつく。
「うん。これ以上、誰かがズレるのは嫌だから」
静かにそう言った彼女の目には、強い意志が漂っている。
僕なら絶対に逃げ出しているだろう。
それでも先輩は、引き受けた。
「でも、未完成だとズレるんですよね?」
「うん」
「それでも?」
その潔い横顔に、得体の知れないものを感じて、僕は言葉を飲み込んだ。
なぜそこまで、とは聞けず、僕は「わかりました」と頷いた。
「なにも出来ないかもしれませんが、僕に出来ることなら」
かすかに腕が震える。
本音は、逃げ出したい。
爪切りは、まだ床に落ちたままだった。




