#7もしも僕が兄なら
目覚まし時計の音で目が覚める。寒くて布団から出たくはないけれど、起きなければいけない。目覚まし時計を無視して二度寝なんて、僕は絶対にしない。
別にぎりぎりの時間に設定しているわけではないけれど、今起きないと朝食を食べて身支度をするだけで学校に行く時間になってしまう。朝だって勉強や委員会の作業をする時間を取りたい。
リビングへ向かうとすでに兄が朝食を作っていた。
父さんも母さんものんびりとした人で、兄は本当にあの両親から生まれたのか疑いたくなるほどしっかりしていた。一応、僕もしっかりしているほうだけれど、兄は比べ物にならないくらい優秀な人だ。
勉強については高校三年間テストで学年一位を取り続けるほどできる。運動神経もよくて様々な先生から運動部のスカウトがきていたらしい。本人はすべて断って文化部に所属していたが。
兄は僕よりも偏差値の高い高校に通っていた。今は県だけでなく日本人で名前を聞いたことがない人はなかなかいないような有名な大学に通っている。
僕なんかじゃ手の届かないような所に兄はいる。
兄の作った朝食は優しい味でとてもおいしい。料理も上手だなんて、この人は本当に何でもできる。
兄が何かをするたびに、僕は兄よりも劣っていると実感する。両親はそんな僕にも優しくしてくれる。それが余計にムカつく。
最近、空乃がテストで学年一位を取った。空乃が全教科満点を取るのはこの学年末テストで三回目だ。
すごいなと思う暇もない。僕も頑張らなければ。空乃の隣で一緒に委員会活動をするなら、空乃にふさわしい人間でいなくてはおかしい。
今日も僕は兄に少しでも近づけるように、空乃と同じところにいるために、勉強と委員会の仕事を誰よりもやる。かつて兄が高校生の時にやっていたように、空乃がいつもやっているように。
*
「…え!私でいいんですか。…はい。ありがとうございます。…はい、がんばります。」
昼休み。空乃ちゃんたちとお昼ご飯を食べながら話していたけれど、空乃ちゃんが先生に呼ばれて席を外した。ぎりぎり話し声が聞こえるか聞こえないかという距離で、何について話しているのかは分からない。
少しすると話が終わったようで、こちらへ戻ってきた。
「おまたせ。」
「何の話だったの?」
「えー、これ言っていいのかな…。」
隠そうとしているようだけれど隠しきれていない嬉しそうな表情をしているから、きっと良い話だったのだろう。少し悩んでから、話すことに決めたようで内緒話をするように顔を近づけた。
「あのね、実は卒業式で学年代表として卒業生に挨拶することになったの。」
「へー、空乃すごいじゃん。…ってすごいことなの?」
優音ちゃんが褒めたくせに疑問を投げつける。どっちなんだ。
「すごいことだよ。この学年で一人だけしか選ばれないんだもん。あこがれだったんだ。」
「たった一人なんだね。この学年で一番話すのにふさわしいってことなんでしょ。」
「そうそう。」
さっきから空乃ちゃんはずっとにこにこしてる。
「空乃ちゃん、嬉しそうだね。」
「え、顔に出てた?あんまり自慢したらいけないから隠そうと思ってたんだけど。」
「うん、バレバレだよ。」
「やだ、恥ずかしい。」
空乃ちゃんの反応が大げさで、優音ちゃんが笑う。つられて空乃ちゃんも恥ずかしがりながら笑う。私もなんとなく浮わついた雰囲気を感じているから、二人なら私が笑っていなくても同じように思っていることは分かってくれる。
空乃ちゃんには記憶がないこと、感情がないこと、全部言っていない。私が不自然なことをしていても、空乃ちゃんは特に突っかかってこない。それが私には心地いい。
「空乃、代表なったんだ。」
いきなり後ろから声をかけてきたのは鮫村君だった。隣に入鹿君もいる。私たちが女子同士でいつも一緒にいるように、あの二人は男子同士でいつも一緒にいる。
「え、聞こえてたの…。」
「小さくしてるつもりだったみたいだけど、お前ら声でけーんだよ。」
そう言ったのは、先ほどまで一緒にいたにもかかわらず一言も話していなかったひとみだ。今までは一人でいるか男子二人といることが多かったけれど、三学期に入ってからは私たちと一緒にいることが増えた。最近は毎日四人でお昼ご飯を食べている。けれど、聞き役のほうが多くて話すことは少ない。そして相変わらず口が悪い。前から気になってはいたけれど、最近ひどい気がする。けれど、声のトーンからして今までよりも心を開いてくれているからこその口の悪さなんだろうと勝手に思っている。
「学級委員って卒業式準備もあるんだろ?代表って先生との打ち合わせとかリハとかあるし、海月めっちゃいそがしくなるんじゃん。」
「そうなるね。頑張らなきゃ。」
「だってよ、鮫村。」
入鹿君がにやにやと鮫村君を見る。言いたいことはなんとなく分かる。
「分かってるよ。空乃が大変なところ、僕もちゃんと協力するから。」
「ちょっと、巡。悠はすぐに無理するんだからそんなこといわないの。悠、私は平気だし卒業式準備は助っ人も募るんだから大丈夫だよ。」
中学生のころから仲がいい私たち以外の四人は一緒にいるだけで会話が盛り上がる。私たちが入る隙もない。
少し間ができたから、気になることを聞いてみる。
「卒業式準備って何?」
「あー、本当は今日のホームルームで説明する予定だったんだけど、先に言っちゃおうかな。いいよね、悠。」
「うん、いいと思う。」
「卒業式準備はね、卒業式前日に三年生の教室とかを掃除したり飾り付けたりするの。その前から物用意したり準備はあるんだけどね。」
空乃ちゃんが説明すると優音ちゃんが目をキラキラさせた。
「何それ、楽しそう。助っ人募集するんでしょ、やりたい!。」
「嬉しい。じゃあ、ホームルームで私たちが説明した後に立候補してね。選んであげる。」
「それはよくねえだろ。贔屓だぞ。」
ひとみが突っかかってくるけれど、空乃ちゃんは無視する。
「優音ちゃんがやるなら、私もやろうかな。」
「すごい嬉しい。仲いいみんなでやれたら楽しくなるよね。」
帰りのホームルームで予告通り学級委員から説明があって、私と優音ちゃんが助っ人になった。
帰り道、優音ちゃんがにやにやと私を見ていることに気づいた。なにかついてるかな。
「どうしたの。」
「んー、何でもない。」
「いや、何かあるでしょう。」
きゃっきゃと笑う優音ちゃんを見ても何を考えているかは分からない。
「気になるよ。」
「あのね、最近光音が表情豊かだなって思ったの。」
思ってもいないことを言われてびっくりする。自分でも表情の変化くらい大体わかるだろう。それを指摘されるのは驚く。
「そんなわけないでしょ。優音ちゃんこそ、最近しっかりしてるよね。前までなら立候補なんてしなかったでしょ。」
「えー、してたと思うよ。だって、空乃たちと何かできるの楽しいのは前からそうだもん。」
「そっか。」
*
卒業式準備に参加するメンバーでの打ち合わせの日。
助っ人に立候補したものの、実際に何をするのか全く知らない私たちは話し合いのほとんどを学級委員の二人に任せていた。けれど、メンバーになったのならしっかりとやることをやりたいから二人の説明はちゃんと聞くようにしている。
「…ここまでが委員会であった説明をそのまま言っただけなんだけど、イメージつきにくいよね。」
「全然分かんなかった!」
「優音ちゃんそもそも話聞いてた?」
「…聞いてたよ。」
優音ちゃん、絶対他のこと考えてた。
「まとめると、卒業生のためにお祝いをする方法の一つとして、僕たちは教室を飾り付けるってことだよ。今までありがとうって思いながらこの教室をキレイに華やかにするんだ。」
「わかった!…と思う。」
「とにかくやってみれば分かるよ。私たちもやるのは初めてだから分からないことはあるかもしれないけど。そこはみんなで考えようね。」
飾り付けると言われても、私たちは孤児院で誰かの誕生日パーティーをする時くらいしか部屋を華やかにしたことはない。それも、折り紙を切り貼りした輪っかの飾りくらいだ。高校生を祝うためにふさわしい飾りはよく分からない。
「具体的にどんな感じで飾るの?」
「…僕はいまいちわかってない。ごめん。」
「私、先輩に去年以前の写真貰ってきたよ。」
さすが、空乃ちゃん。
空乃ちゃんが広げたいくつかの写真の教室は、黒板に大きな絵が描いてあったり、壁に写真が貼られていたり、色々な飾り付けがされていた。
「黒板アートは迫力があっていいかもしれないね。僕、絵描けるよ。」
「わたしも!」
「優音ちゃんは描けないよ。いつもモンスター生み出してるでしょ。」
「えー!かわいいじゃん。」
いくつかの写真を見ても、黒板に絵を描いている写真が多かったから黒板アートは決定になった。
「僕、案を何個か描いてくるよ。その中からみんなで話し合ってどれを描くか決めよう。」
この中で一番絵を描くことが上手だった鮫村君が紙に教室の絵を描いた。その教室の黒板に『黒板アート』と書く。
「黒板アートだけじゃ、さみしくない?わたし、全部の壁になんか飾り付けしたい!。」
「大変なこと言うね。何を飾ろうか。」
黒板以外に飾り付けをしている例が少なくて、あまり思いつかない。卒業式…。華やか…。
「あ、花束とかどう?もちろん本物は難しいと思うから紙とかで作って、花瓶に飾る感じ。」
「それいいね。本物よりも鮮やかになって、教室が明るく見えそう。悠はどう思う?」
「うん、良いと思うよ。」
自分の提案が受け入れてもらえた。正直、紙で何かを作るのは高校生にしては幼稚かもしれないと思っていた。
「ねえねえ、わたし、先輩たちに花あげたい。全員分作って、一人一つ取ってくださいってしたらよくない?」
「全員分か、結構多いね。四人で分担して作ろうか。」
そもそも作り方が分からないから、材料の量も決まらない。けれど、のんびりとしている暇はない。
「じゃあ、僕が作り方いくつか調べてくるよ。それで、必要な材料の量も計算しておく。それで、明日どれにするか選んで放課後に買い出しに行こうか。」
鮫村君がしきってくれるから話し合いが進みやすい。それも、スムーズに進むようなことを考えて提案してくれるからありがたい。
「あー、ごめん。明日の放課後先生と原稿の打ち合わせあるからいけない。」
空乃ちゃんが自分のスケジュール帳を見ながら申し訳なさそうに言う。
私たちは特に予定はなかった気がするけれど。
「光音、明日の放課後から土日って孤児院帰る日じゃなかった?買い出し行けないね。」
「そうじゃん、忘れてた。」
「そっか、じゃあ僕一人で大丈夫だよ。早めに買って作り始めたいし、土日に材料分けたりできるからさ。」
「ごめん、ありがとう。」
今後の動きがなんとなく分かってきたから、今日はおひらきになった。
*
鮫村君が描いた黒板アートの候補絵は一つに選べないほどに全てが素敵な絵だった。調べてくれた花の作り方も難しすぎず、クオリティーは高めのものをいくつも提案してくれる。私たちは先輩たちに見られても恥ずかしくないように、という目標で初めはこの卒業式準備を進めていたけれど、いつしか全てのクラスの中で一番良い教室を作ろうと思うようになっていた。
鮫村君が買い出しに行ってくれて、私たちには違いが分からないようなところまでこだわって材料を準備してもらえた。買ってきた材料を、すぐに作り始められるような大きさに切ってくれていて、作り方もゆっくり教えてくれた。
不器用な優音ちゃんは花を一つ作るだけでも時間がかかる。しかも失敗して使えないようなものができてしまっても、鮫村君は予備の紙をすぐに用意してくれる。いつの間にそこまで用意していたのか不思議に思うけれど、そのおかげで私たちはスムーズに卒業式準備ができていた。
「花さん、僕自分の分終わってるから手伝うよ。」
「え!いいの?ありがとう。」
「鮫村君に全部やってもらっちゃ駄目だよ。自分でやらないと。」
ぶーぶー言う優音ちゃんを横目に自分の作業を進める。
学年末だから提出物などが多くて、家では卒業式準備に手が回らなかった。鮫村君は、期限が近いものもまだ余裕があるものも全て終わっているらしいのに、自分の分の花作りも終わっているみたいだ。
学級委員は集会の運営や他の委員会の手伝い、来年度の準備などたくさんやることがあると空乃ちゃんが言っていた。
「委員会?そんなにやることないから大丈夫だよ。やらなきゃいけないことは全部やってくれているから、僕なんて何もやってないようなもんだよ。」
「嘘言うな。悠がいっぱい手伝ってくれるから私の作業がスムーズに進むんだって。」
空乃ちゃんはそう言うけれど、鮫村君は全部はぐらかす。どっちが本当のことを言っているのか分からない。
「そういえば、花を飾る用の花瓶も紙の方が雰囲気合うかなって思って作ってきたんだけど、どう?」
「わー、すごい!いっぱい花が飾ってあったらかわいいね。」
「サイズもぴったりだね。」
この間の話し合いで言ったもののどうするかあまり考えていなかった飾り方も、鮫村君が考えてくれたおかげで私たちがやりたかったことが形になった。これなら、飾り付けられる教室の中で私たちがやるところが一番良いものになりそうだ。
学年末の忙しい時期に時間を作って作業をしていると、あっという間に卒業式の日が近づいてきた。
それと同時に感じる違和感があった。
卒業式を二日後に控えた日のホームルーム後のことだった。いつも一緒に帰っている空乃ちゃんが少しだけ先生と話しに行ってしまったから、優音ちゃんと話して待っていた。
「鮫村君って勉強も委員会の仕事も卒業式準備も全部誰よりもやるの速いよね。」
「そうだね。わたしとは大違いだよ。」
たわいもない話をしていたら、ちょうど荷物を持って教室を出ようとする鮫村君が目に入った。
なんだか、眠そうに目をこすっていたし、顔色も良くなかった気がする。
「鮫村君、調子よくないのかな。」
「え?いつも通りじゃなかった?」
優音ちゃんはそういうけれど、私が見た鮫村君は元気な人とはほど遠い顔をしていた。
心配ではあるけれど、それを言えるほどすごく仲がいいわけではない。空乃ちゃんとは委員会が同じなこともあるし、元から仲がいいみたいだからよく話しているところをみる。けれど、私は何かがない限りは話すことなんてない。
やっぱり心配だったから、タイミング良く私たちの近くを通ったひとみに声をかけてみた。ひとみなら、少し前までいつも鮫村君たちといたし、結構仲が良いだろう。
「ねえ、ひとみ。ちょっと鮫村君の様子見てきてよ。絶対調子悪いと思うんだけど。」
「なんで俺…、私なんだよ。」
「一人称訂正しなくていいから。鮫村君と仲良いでしょ?少なくとも私よりは。」
「ビビってんだ。まあ、いいよ。私も気になってたし。」
「ありがとう。」
一言多い気がするけど、引き受けてくれるあたり、ひとみは本当に優しい。
いよいよ明日は卒業式準備で教室を飾り付ける日だ。
*
卒業式前日。僕たちは担当する三年生の教室の飾り付けに取り掛かろうとしていた。
まずは簡単なところから、今まで用意してきた花を飾っていく。予想はしていたけれど、それなりに古くなってきているこの学校の備品は斜めになっているものがいくつかある。自分たちの教室で試した時には自立していた紙の花瓶が、ここでは倒れてしまう。
「鮫村くん。こっちも立たないよ。」
「私のも、無理そう。」
「上が重くて下が軽いからかもしれないね。…何か詰めるか。」
準備とはいえ、僕たちの本番は今日だ。本番にはハプニングが付き物。それをどうやって乗り越えるかが重要、ということは今までの経験から嫌というほど知っている。
こうなっては、理想や完璧を求めすぎるのは良くない。妥協することも視野に入れる必要がある。でも、この子たちはそのことを多分知らない。
今は空乃が卒業式のリハに行っているから、ここは僕がしきらなければいけない。空乃が戻ってくるまでに黒板に絵を描き始めたい。
とにかく、今は花瓶が自立しない問題を解決しなければいけない。花瓶の下を重くすれば安定するはずだけど、おもりになるものをすぐに用意できるのか?
なんだかんだで昨日も夜遅くまで委員会の仕事の一つとして集会の司会用の原稿を作ったりしていた。最近は本当に睡眠時間が惜しい。
寝不足の頭が回るはずもなく、どうにか試行錯誤する二人を眺めることしかできなかった。
「なるほどね。おもりなんて石くらいしか思いつかないけど、汚いよね。隠せればいいけど。」
結局、ものすごいスピードでリハを終わらせた空乃が戻ってきてしまった。
「花瓶作り直してもいいなら、思いついた。花瓶の中を二段構造にして下の段に石入れれば、作った花が汚れることもないしいいんじゃない?」
「あ、確かに。僕、追加の紙取ってこようか。」
「いや、悠はこのコピー用紙で二段構造どうやるか一緒に考えよう。光音ちゃんと優音ちゃんは事務室で紙貰ってきて。」
「りょーかい。」
取りに行くだけなら頭使わないと思ったのに、駄目だった。でも、花瓶を改造できるのは花瓶を作った僕だけだ。僕が考えなければいけない。
二段構造にするのは簡単で仕切りを作ればいいだけだ。花瓶の大きさを測って、その通りに仕切りを作る。花瓶の下に入りそうで重そうな石も取ってきてもらって、花瓶に入れる。底が柔らかいと石のでこぼこが自立しづらくしてしまうから厚紙を入れる。
なんとか自立するようになった花瓶にほっとする。いや、そんな暇はない。黒板アートを描き始めないといけない。時間がかかりすぎてしまったら、完成する前に追い出されてしまう。
他の紙に書いたデザイン案と同じように黒板に下書きを描いていく。地面に垂直な黒板に絵を描くのは難しい。今回は絵が得意な僕達が下書きや線を描いて、苦手な花さん達は色を塗る。
全体の構図が何となく分かるようになってきて、画力が求められない範囲になってきた。なんだかんだ教室の飾り付けを始めてから一時間以上たっている。
さすがに、少し休憩したいな。
「僕、ちょっとトイレ行ってくる。」
「はーい。こっち進めとくね。」
「うん、ありがとう。」
暖房で温まった体が廊下のひんやりとした空気に冷やされる。頭を使っていたから、熱くなっている。一度冷静になれば、気づいていなかった修正点も見つかるだろう。
絵を描いている間はずっと立っていたから、座って休憩がしたい。個室に入って、やっと肩の力が抜けた気がする。
少しやすんでいると、扉が叩かれた。誰か個室を使いたい人がいるのかな。僕ももう少し休みたいけれど。
「俺だ。」
「は、なんで…。」
聞こえた声はひとみのものだった。この時間に三年生の教室近くのトイレを使う人なんて、卒業式準備をしている生徒しかいないはずだ。学級委員でも助っ人でもないひとみがいるのはおかしい。
小さく呟いたきり、反応しなかったらもう一度強く扉が叩かれた。
「いるんだろ。出てこい。」
これは、プライバシーの侵害では?別に僕は用を足しにここに来たわけじゃないからいいけれど、個室に入っているのが僕以外という可能性は考えていないのか。
このままだと扉を壊しそうだから、おとなしく鍵を開けて個室の外に出る。
「なんでいるんだよ。ここ男子トイレだぞ。」
「いや、俺男だし。」
「違うだろ。」
「前は普通に入ってたもん。いいんだよ。」
反論はできない。あの時、知っていて何もしていなかったのはこっちだ。
「なあ、お前無理してるだろ。今日はもう帰れ。んで、休め。」
「お前って呼ぶんじゃない。口が悪いぞ。」
「あいつらだって、お前が無理してるの気づいてるからな。」
無視かよ。無理してる自覚はない。少し寝不足なくらいだ。ゲームをして寝不足なことと変わりないだろう。
「昨日の睡眠時間は。」
「今関係ないだろ。」
「答えろ。」
「…六時間。」
嘘だけど。本当は三時間くらいしか寝てない。
ひとみは少し何か考えた後、舌打ちをしてトイレを出て行った。
なんだったんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。そろそろ教室に戻らないとみんなが心配するだろう。黒板アートがどのくらい進んでいるかは分からないけれど、あと少し頑張れば終わるだろうな。
担当する教室のドアを開けて、入った瞬間。急に目が回ったかと思えば、視界がブラックアウトした。遠くで誰かが何か言っている気がするけれど良く聞こえない。
そこで僕の意識は途切れた。
気が付いた時には、真っ白な天井しか見えない空間で隣から安堵する空乃の声が聞こえた。
*
悠が教室で急に倒れたときはびっくりした。
無理して体調崩してるなとは思っていたけれど、私も忙しかったこともあって助けてあげられなかった。卒業式準備に集会の運営、勉強も全て完璧にこなそうとする悠のことをすごいなとは思うけれど、無理だけはしてほしくない。締め切りなんて随分と先のことなんだからもっとゆっくりやっても良いと思うけれど、悠はそう思ってないだろうな。
無理しそうなときは気づいて、仕事を変わってあげることがいつもは普通だったから、今回もそうしてあげたかった。
悠が目覚めて、思わず安心して声が漏れてしまった。恥ずかしい。
本人が一番びっくりしているから、簡単に怖がらせないように現状を説明する。保健室の先生によると、原因は寝不足だろうとの事だった。何かの病気だったらと怖くなったけれど、目の下に分かりやすくクマができているから本当に睡眠時間を削ってまで作業していたのだろう。
「無理してるの、気づいてたのに。助けてあげられなくてごめんね。」
「教室は…。」
「もう終わったよ。光音ちゃんと優音ちゃんはもう帰った。」
悠の顔色はまだ悪い。もっと休んでいてほしいのに、やっぱり自分の役割のことが頭から離れないのだろう。
「…ごめん。仕事なのに。」
「十分だよ。体壊すまで無理してたんでしょ。」
「無理してない。」
そう言う悠の目にはうっすらと涙の膜が張られている。それは悔しさからくるものなのか、また別の何かなのか。
「どうしてそんなに頑張るの。任せすぎた私が悪いけどさ。」
「頑張ってない。」
「頑張ってたよ。気づいてなくても、悠は頑張ってる。」
でも、と悠は私の言葉に被せるように言う。
「でも、僕は僕を許せない。空乃が言う努力は僕にとってはやって当然だ。やらないのは許されない。空乃ならできてた。兄さんならできてた!」
そうか。ずっと優秀なお兄さんと自分を比べていたんだ。それがずっと悠を苦しめていた。
でも、私も同じだったのだろう。悠に見てもらえる、すごいって思ってもらえる。そう思ってしていたこと、ないわけじゃなくて。私がどう思っていようと、悠はそれに不安になってたんだ。
「私のせい、だね。」
「そんなことない!」
悠がこんなに声を荒げるのは珍しい。それだけ追い詰められていたということだろう。
「昔の、テストの点数に依存して必死だった空乃が変わって、必死じゃなくて楽しそうなのにみんなよりもすごいところにいる空乃に追いつけなくて。…空乃はいつも僕と同じだと思っていたのに。」
相槌ができない。すべきではない。今は悠の言葉を聞いてあげなきゃいけない。
知らなかった。悠がこんなことを思っていたなんて。
「…空乃が遠くに行ってしまうのがツラかった。…好き、だから。」
「っ。…それは告白でいいのかな。」
自分が何を言ったか気づいたのか、悠の顔が赤くなる。私だって恥ずかしい。でも、今しかチャンスはない。ずっと思っていたことを。
「私もね、悠のこと好きだよ。だから、悠が悠を許せなくても、私が許してあげる。どんな悠でもいいの。そこも含めて、私は悠が好き。」
自分が何を言っているのかよくわからない。伝わっているのかも分からない。でも、悠が思っていたことを伝えてくれたように、私も伝えたい。
「もっと、自分に甘くなっていいんだよ。自分のために生きていいんだよ。」
偉そうに言っているけれど、これは光音ちゃんに教えてもらったこと。私だって、前は弱かった。
「できなかったら、悠ができるようになるまで私が何回でも言ってあげる。大丈夫だよって。」
夕陽が保健室のカーテンを通り越してこちらを照らす。
告白にはもってこいのシチュエーションだなあ。
「だから、悠の一番そばにいるのは私でいたい。」
「僕も、空乃がいい。」
「ありがとう。」
*
「俺が言っても無駄だったのに、空乃なら良いのかよ。」
「まあまあ、拗ねないで。ひとみだって大事な友達だから。」
「関係ねえよ。…ま、ありがと。」
わざわざ仕事もないのに居残りして、入りたくもない男子トイレに入ってまで忠告してやったのに。帰りの電車でぶっ倒れた報告を受け、そのあとに「付き合いました」だなんて言われたらブチ切れたくもなる。
両思いだろうなとは昔から思っていた。早くくっつけと思っていた。でも、タイミングがムカつく。
恋か…。青春してるな。俺には一生来なさそうだな。
一瞬頭によぎった顔は無視して、俺は悠のにやにやした顔に舌打ちをした。