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#5もしも素直になれたなら

 五歳の俺はたまたま公園で出会った男の子と遊んだ。男の子は外で遊ぶのが普通だから。出会った子と一緒にかけっこやキャッチボールをした。

 本当はブランコに乗りながらお話をしたい。おままごとをしてみたい。キレイな石を集めて料理を作る真似をして、少し高い声を作って友達の名前を呼ぶ。そんな遊びをしたい。

 五時になったらチャイムが鳴るから、家に帰りなさい。誰もが知っていること。それが嫌で仕方がなかった。

 気が付くと、目の前には家があった。俺のじゃない。空乃の家。

 自分の家じゃなくても良いじゃないか。誰のものだとしても、家は家だ。

 玄関のチャイムを鳴らすと、空乃が出てきた。とても驚いている。約束もしていないのに、俺が家に来たのだ。それはびっくりするだろう。

「かあさーん!ひとちゃんだったぁー!」

 空乃が家の奥にいる母親に声をかける。空乃の母親も玄関まで出てきた。

「ひとちゃん、もう五時過ぎているから早くお家に帰りな?」

 空乃の母親が言っている『お家』がここじゃないことは分かっている。それでも、動く気になれなかった。

 十二歳の俺はいつも通り小学校に通う。これくらいの年になれば男女で分かりやすく変わってくる。男子はいつまでも変わらないが、女子はグループを作ったりおしゃれをしたりする人が増える。俺もそれに混ざりたかった。

 俺は普通じゃない。母に怒られるからと必死に教師を説得して手に入れた水色の名札はいつまで経っても違和感が消えない。それは普通の人には起こらないこと。

 朝から母とけんかして平手打ちをくらった頬は未だに熱を帯びている。碌に手当てをせずに教室へ入ると、席が近い男子に保健室へ連行された。

 俺は男じゃない。膨らむ胸も、低くならない声も、月に一度来るアレも、それを証明している。それを母は認めない。

 俺は普通じゃない。家に帰りたくないと思う。それは普通の人は思わないこと。

 どこか遠くに、誰も俺を知らないどこかへ行きたくなった。

 今、家には誰もいない。自分の財布だけを持って駅へ向かう。学校から帰る時よりも足取りは軽い。

 海を見たいな。財布の中身を確認する。一番近くの海辺の町になら行けそうだ。

 すぐに家に帰らなかったことは今まで何度もある。しかし、一人で遠くに行くのは初めてだ。

 心が踊る。久しぶりの感覚だった。

 男に染められた私でも、心は健在らしい。

   *

 最悪の目覚めだ。

 昔の記憶を夢に見るなんて、弱ってるな。しかも二部構成だった。なんかあったっけ。考えても原因は分からない。

 気分は最悪だけれど、時間は俺を待ってはくれない。仕方ないが、身支度をしなければ。

「あの時みたいに、またどっか行きたいな。」

 誰にも聞かれないようにぼそっと呟く。姉なんかに聞かれたら母にチクられる。

 今日も、いつもと変わらず学校へ向かう。

 この電車を反対方向に乗れば…。寝過ごしたふりして終点まで乗っていけば…。

「やっぱ、いいや。」

   *

『―――って、いつもにこにこしてるよね。』

『正直、キモくない?』

『ねー。心から笑ってないっていうか、愛想笑いだし。』

『私がどうしたの?』

『いつから聞いてたの。』

『何も聞いてないよ。どうしたの?』

『何でもない。』

   *

 随分と寒い日が増えて、もう完全に冬と言って良い季節になった。高校に通い始めてからだいぶ時間が経った。

 学校では定期的に席順を変えるようで、今日も席替えの日だ。クラスメイトとは仲良くなって来てはいるけれど、まだ話し慣れていない人もいるからいろんな人と交流ができる席替えは嫌いではない。

「今回は、誰が隣だろう。」

 指定された席へ移動し、全員が移動し終わるまで待つ。私の隣の席の人も移動を終えたようだった。

「またお前かよ。」

「二回目だね、星野君。」

 星野君は心底残念そうな顔をする。失礼ではないだろうか。

 二回同じ人と隣なのは私も残念だけれど、星野君は一番謎が多い人だから色々知るには隣の席で良かったと思う。

 授業が終わって、廊下に出ると他のクラスの女子生徒が数人集まって話していた。

「このクラスの、星野だっけ。変な奴。」

「そーそー。女のくせに男のふりしてる奴。」

「ズボン履いてずるいよね。こっちは寒くてもスカート履いてるのにさ。」

「ねー。」

 女子の陰口は陰湿だ。本人がいないところで悪口を言う。

「陰口は良くないと思うよ。」

「は?」

「校則では女子でもスラックスは履いていいし、寒いならタイツを履けばいい。」

「何言ってるの?」

 女子生徒の一人に睨まれる。ここまで性格の悪そうな人は私のクラスにはいない。

 どう返答すれば良いのかわからなくて、困っていると後ろから肩を掴まれた。

「お前、何してんの。」

 星野君だった。そのまま引っ張られ、人がいない廊下の隅に連れていかれる。

「なぁ、お前に関係ないんだから足突っ込まないでくれる?この間も言ったよな。」

「星野君のために言ったわけじゃない。私が疑問に思ったからあの子たちに聞いたの。」

「それが迷惑っつってんだよ。」

 星野君は先ほどの女子生徒よりも冷たい目で私を見る。

その目にはどこか寂しさのようなものも含まれているような気がした。

   *

 席替えをしてからしばらく経つ。

 最近、隣の席がずっと空席だ。星野君が一週間以上学校に来ていない。寒くなってきたこともあって、体調を崩しているだけかなとあまり気にしていなかった。

 けれど、さすがに長すぎると今日思った。ただの風邪なら、まあいい。けれど、他の理由だったら。

 隣の席に人がいないのは、なんだか物足りない。色々な場面で不便にもなるけれど、それだけではない。

 そう思うのは、星野君がクラスメイトの中では私と関わりが多いからなのだろう。

 いや、他にも理由がある。星野君が欠席し始める前、席替えをした日。あの廊下での出来事が私にとって気がかりなことだった。

 あの日、星野君の機嫌を損ねてしまった。私は私が思ったことを言っただけではあるけれど、それを星野君が不快に思ったならば謝る必要がある。

 このまま冬の長期休みに入るまで会えなかったら、お互い気まずいままあの出来事が風化していってしまう。それは避けたほうがいい。

 人が欠席する理由なんて他人が気にすることではない。しかし、次の日、また次の日と日を重ねていくごとに、だんだんと気にすることができなくなっていた。

 だから、誰かに聞いてみようと思った。

 星野君について一番詳しそうなのは空乃ちゃんだと思う。以前、幼馴染だと言っていたから誰よりも星野君と仲が良いだろう。

「え、ひとちゃん?うーん、何も聞いてないな。連絡してみようか?」

「いいの?じゃあ、お願い。」

 体調不良ならスマホを触ることができない可能性もあるから、空乃ちゃんからの報告は気長に待つことにした。

 けれど、次の日の朝になるまで空乃ちゃんからの連絡はなかった。

「ひとちゃん、携帯触ってないみたいで。既読もつかなかった。」

「そうなんだ。」

「私も心配だし、今日家行こうかな。お見舞いがてら。一緒に行く?」

 そんなに軽々と男の子の家に行って良いものなのだろうか。空乃ちゃんは幼馴染だから行き慣れているだろうけれど、私はたいして仲良くもないただの隣の席の女子だ。

「私、行っても良いのかな。」

「良いと思うよ。ひとちゃんもいろんな人と会えた方が楽しいんじゃなかな。」

 私、けんか中だけれど。

 そんなことは関係ない、と空乃ちゃんに言われてしまった。結局、放課後に二人で星野君の家に行くことになった。

 とても緊張する。私が緊張するなんて初めてのことなんじゃないか。空乃ちゃんはそんな私を気にすることもなく、星野君の家へと私を案内してくれる。

 星野君の家は周りの家よりほんの少し大きかった。

「お姉さんも妹もいるから、広いんだよね。入ったことはないから、中は案外狭いかもしれないけどね。」

 なんて言いながら、空乃ちゃんが玄関チャイムを押す。音が鳴ってしばらくすると、ドアが開いて若い女の人が出てきた。お姉さんだろうか。

「空乃ちゃんじゃん。久しぶりー。あれ、隣の子は誰?」

「久しぶり。この子、クラスメイト。ちょっと前にここら辺に引っ越してきたの。」

「ふーん。」

 二人は親しげに会話をする。空乃ちゃんは星野君と幼馴染と言っていたから、家族の人とも仲が良いのだろう。

「ねぇ、ひとちゃんいる?最近学校来てないけど、どうしたの?」

「ひとみ、今家にいないよ。というか、最近ずっといない。学校も行ってないんだ。」

 あまり興味がなさそうにお姉さんが答える。家族の人も行方を知らないとは、どういうことなんだ。事件性が高くなるのではないだろうか。

「うん。どこ行ってるとか、心当たりある?」

「知らない。友達ん家泊ってるんじゃないの?」

 衝撃的だ。この人はあまりにも自分の家族に無関心すぎるのではないか。

「うーん。そういう話は聞いてないけど…。まぁ、いいや。ありがとう。ちょっと他の人にも聞いてみるね。」

「ん。じゃ、バイバイ。」

 ドアが閉まり、静かになる。さすがに黙っていられずに空乃ちゃんに話しかけた。

「ねぇ、どういうこと?家族の人も知らないなんて、危ないんじゃない?」

「うーん、あの家は昔からこんなだからね。まぁ、予想通りって感じかな。」

 空乃ちゃんも困っているようで、どうしようと呟いている。

「スマホ家に置いたまんまなのかもしれないし、そろそろどうもできなくなってきたね。どこ行っちゃったんだろう。」

「他に星野君のこと良く知っている人って誰?聞いてみようよ。」

 うーん、と少し考えてから困ったように空乃ちゃんがこちらを見る。

「残念ながら、ひとちゃん、そんなに仲良い人いないんだよね。強いて言えば、巡だろうけど。あんまり巻き込みたくないな。」

 巻き込みたくないとは言え、私たち二人ではどうすることもできない。二人で少し考えた結果、人探しには人数が欲しいからと障害物リレーのときに作ったメッセージのグループで聞いてみることにした。この地区の人しかいないから協力がしやすい。

 すぐに星野君以外の全員から返信があり、一度集まることになった。集合場所になった公園に空乃ちゃんと二人で向かう。

 早く見つかって謝ることができたら良いと思った。

「なあ、星野が行方不明ってどういうことだよ。あいつ、最近学校来ねえし。」

 全員が集まって最初に口を開いたのは入鹿君だった。誰よりも焦っているようで、自分を落ち着かせようと必死に自分で自分の手を握っている。

「巡、そんなに焦っても何もできないよ。空乃、詳しく教えて。」

「うん。ひとちゃんにメッセージ送っても既読つかなくて、家行ってみたんだけど、お姉さんには知らないって言われちゃって。私たちで探すしかないよ。」

 空乃ちゃんの話を聞いている途中、私の隣にいた優音ちゃんが半分泣きながら私の袖を握った。最近は日が落ちる時間が早くなってきたから、暗くて不安なのだろう。

 大丈夫、と小さな声で言ってあげる。袖を握る力が少しだけ弱くなった。これじゃあ、今日中は誰かと一緒にいたほうがいいな。

「なぁ、なんかの事件に巻き込まれてたりする可能性もあるってことだろ。それってやばいじゃん。急いで探さないと。あ、でも、探しても見つからない距離にいるかもしれない。どうしよう。」

「巡、落ち着いて。ひとちゃんのことだから大丈夫だよ。今までもよく一人で遠出とかするタイプだったから。」

 空乃ちゃんが入鹿君を巻き込みたくないと言っていた理由はこれだろう。いつもの冷静さを感じられないほど焦っている。

「ねぇ、とりあえず話していても何も進まないし、早速手分けして探さない?携帯持って行ってないならそこまで遠くに行くつもりはないんじゃないの。」

「そうだね。一旦、ひとちゃんが行きそうなところ行ってみようか。」

 空乃ちゃんが挙げてくれた場所はいくつかあって、それを二グループに分かれて行くことになった。私は空乃ちゃんと優音ちゃんと一緒に高校の近くを探しに行く。鮫村君と入鹿君は星野君が通っていた小学校や中学校の近くを探す。

 男子組と別れて、電車に乗る。帰宅ラッシュの過ぎた電車内は空いていた。

「何日も帰ってないってことはどこかに泊ってるのかな。」

「室内だったらいいけどね。野宿の可能性もあるから。」

 一週間以上も家に帰らず、どこにいるか分からない家族を心配しない星野君のお姉さんの考えが分からない。本当は家族の方が探したり、警察に依頼したりするものではないだろうか。

 他人の家庭事情はどうすることもできないから、私たちが見つけるしかない。

 学校の近くにある公園やお店に行ってみても星野君らしい人はいない。たまたま会った学校の先生に聞いてみても知らないと言う。空乃ちゃんが大事にしたくないと言うから詳しくは言わなかったけれど、少しでも情報を貰えたことは良かったと思う。

 男子組も見つけられなかったようで、初めに集まった公園に再度集合することになった。

   *

「まったく、見つからなかった。まぁ、予想はしていたけどね。」

「悠の方もか。私たちも、全然。」

 再度集まった公園。だいぶ時間も遅くなってきた。状況的に早く見つけたいところだけれど、私たちもだいぶ疲れてきた。今日は諦めるべきだ。誰がそう言い出すか、無言の時間が続く。

 静寂を断ったのは空乃ちゃんだった。

「ひとちゃん、前にも急に学校来なくなったことがあって。一日だけだったんだけどね。」

「僕、初めて聞いたけど。」

「中学の時。悠はクラス違ったから知らないんじゃないかな。あの時も探して、結局その日中に見つかったんだけど、一番近い海がある駅のところ行ってたんだ。」

 一番近くで海がある駅は知らない。行ったことがない方面なのだろう。

「ひとちゃん、それから何回もそこ行ってるんだ。だから、今回もそこにいるかもしれない。あそこなら寝泊りもなんとかできそうだし。」

「海か…。ごめん、俺パス。女子だけで行ってきてよ。俺らはこっちでもう少し探す。」

「うん、分かった。じゃあ、早速行こうか。私、案内するから。」

 とんとん拍子で話が進み、また電車に乗る。そういえば、海に行くのは久しぶりだな。今年の夏は孤児院のみんなで海水浴に行った。泳ぎが上手ではない優音ちゃんが溺れないかずっと見ていた記憶がある。

 あの時行った場所は砂浜だったけれど、着いた先にあるのはテトラポットが置いてあるような場所だった。陸の近くなのに深そうな海が広がっている。月明かりのない夜なので、海は黒く染まっていた。

 比較的大きな町には光が溢れていて、海とは対照的だ。

 とりあえず、探しやすい屋外を見てまわることになった。時間がかからないように手分けして探す。屋内に入ってしまっていたら見つけるのが難しそうだ。できれば外にいてほしい。

 海沿いを歩いていると、少し突き出た小さな広場のようなところがあった。おしゃれな手すりがついていて、床にはカラフルなタイルが敷かれている。

 少し海を見たくなって、手すりに近づく。そこにはすでに人がいた。手すりに寄りかかるようにして海を眺めている。暗くなってきていて顔はわからないけれど、だいたい同じくらいの年齢の人だろう。

 なんとなく隣を見ると、その人は見覚えのある顔をしていた。

「え、星野君…。」

「…は?なんで、お前。」

 どこからどう見ても隣にいるのは私たちが一生懸命探している星野君本人だった。なんで、と言われても、あなたを探していたからとしか言えない。

「なんで、俺なんか探して…。あ、お前。空乃たちに連絡するな、絶対。面倒なことになる。」

 帰る気はないのだろう。スマホを取り出して空乃ちゃんに報告をしようとしたのがわかったのか、止められた。

 このまま、はい分かりました、と帰るわけがない。でも、空乃ちゃんに連絡はしなかった。周りには人がいない。偶然ではあるけれど、二人きりになれた今、私は星野君と話がしたかった。この間のことを謝る。そして聞きたいことを聞く。ここまで迷惑を掛けられているのだ。それくらいしてもいいだろう。

「この間はごめんなさい。星野君を不快にさせてしまって。」

「いつの話?」

「席替えの日。廊下で星野君、怒っていたでしょ?」

「あー。前のことなんてどうでもいいよ。」

 多分、許してもらえた。これで目的は達成できた。

「なんで学校にも来ないでこんなところにいるの?」

「お前には関係ないだろ。もう暗いんだし、帰ったら?」

 こんな言い方、まるで自分はここを離れるつもりはないと言っているみたいだ。

「星野君も帰ろうよ。」

「嫌だ。」

「なんで?」

「あんなところ、もう帰りたくない。」

 あんなところ、とは学校のことだろうか。それとも家のことだろうか。帰るという表現を使っているから家だろうか。

「家?なんで帰りたくないの?」

「嫌だから。理由なんてそんなもんしかねえよ。」

「ふーん。じゃあ、星野君はどうしたいの?」

「は?」

 会って以来ずっと海の方向を見ていた星野君がこちらを見る。何を言いたいんだ、これ以上何も言うな、そんなことを考えているような顔をしている。

「家が嫌なんでしょ。そんなところにいるのが我慢できないんでしょ。だから、こんなところにいる。違う?」

 星野君は相変わらず黙って私を見ている。否定しないから図星なのだろう。

「ここにずっといても何も解決しないよ。星野君はどうしたいの?」

 この状況から逃げたい、たったそれだけのことでよかった。なにも具体的に言わなくてもなんとなくわかる。でも、星野君は何も言わない。自分がどうしたいのか分からないのだろうか。

 星野君はまた海の方向を見る。その表情はただ眺めているわけではなさそうだった。

 星野君が何かするのを待つ。このまま会話を終えるような人ではないだろう。今までクラスで見てきた変に真面目なところから、そう思う。

「…俺は。」

「うん。」

「私は、女の子でいたい。」

 そうきたか。急に言われて戸惑う。

 今まで薄々感じていた事。何かと性別を気にする星野君に違和感を感じていた。まだ詳しくは知らないから何とも言えないけれど、なんとなくはわかった。

「…そっか。」

 返答を考えてみたけれど、出てきたのはそんな簡単な言葉だった。でも、このチャンスを無駄にしたくはない。先ほどの言葉は心を開いてくれた証拠だろう。

「辛かったんだね。」

「…っ。」

 こちらを向いていないから分かりづらいけれど星野君の瞳が濡れていた。街の光が反射して涙が光る。

 美しいと思った。

「…っなんで。なんでそんなこと言うの。」

 震える声で星野君が呟く。

「…っ。縋っちゃうじゃんか。」

 星野君は手すりに置いてある両手に顔をうずめる。震える背中をさすりながら星野君が落ち着くまで待った。

 しばらくして、顔を上げた星野君に促されて、手すりを背に二人で地面に座った。汚いだろうけれど、気にならなかった。

「…なあ。聞いてくんね?私のこと。」

「うん。」

 決して目を合わせることがなかったけれど、星野君がぽつりぽつりと言葉を紡ぐから、必死に耳を傾けた。

   *

 俺の母は変な人だ。六人も子供がいるのに旦那に家を出られてから、おかしくなった。姉が二人、妹は双子ともう一人。女だらけのこの家族に、母は男を求めた。

 物心つく前から「お前は男だ。」と言われ続けていたから、小さいころは本気で自分のことを男だと思っていた。父親との記憶がないから、男がどんな生き物なのか知らなかった。だからこそ、自分を男だと思えたのかもしれない。

 保育園に通うようになってしばらく経った頃、男の子と仲良くしなさいという母の命令を聞いていた俺はふと違和感を感じた。

 本当は女の子と話していた方が楽しい。ピンク色の名札に憧れる。髪の毛は伸ばしたいし、かわいいアクセサリーをつけておしゃれをしたい。

 自分は男よりも女のほうが向いているのではないか、本当は女なのではないか。幼いながらに抱いた疑問は大きくなって、何度か母に相談した。

「何を言っているの。あんたは男なの。いい?」

 今までで一番低い声で言われたその言葉はいつまでも心に突き刺さっている。

 何度言っても同じ言葉が返される。姉や妹はそんな俺を避けるようになった。

 保育園の先生に相談しても、何も対応してくれなかった。

 小学校に上がってもそれは変わらなかった。

 家が嫌いになった俺はよく家に帰らずに空乃の家に行ったり、意味もなく公園に行ったりするようになった。母はすぐに俺を叱り、姉妹達は俺を避ける。

 一人だけ、俺の話を親身に聞いてくれる先生がいた。小学校六年生のときだ。

 初めて、男女でパートを分けて歌う卒業式の合唱で女子のパートにしてもらえた。今までの先生は、男女で分けるときには俺を男側にしていた。親ともめたくなかったのだろう。

 卒業式は無事に終わった。合唱もうまくいった。でも、キレイな形で終わることはできなかった。母が許さなかった。卒業式の後、違う意味で涙を流す俺を姉は笑った。

 初めて生理が来た時、母に言える訳もなくて姉に相談した。ただ、生理用品を使わせてくれれば良かった。

「できる限り使うなよ。ゴミ増えたらバレるんだから。バレたら私もあんたみたいになる。」

 姉はやっていた作業を止めることなく言った。

「あんたには感謝してるよ。男になんてなりたくないもん。」

 もう一人の姉はそう言った。

 この家に俺の味方はいない。そんなこと分かっていたけれど、改めて虚しくなる。

 大人は誰も味方じゃなかった。子供じゃ力の差が大きすぎる。母から、家から逃げることはできなかった。

   *

 話に区切りがついたのか、星野君は黙ってしまった。何を言うべきか分からず、私も黙る。

 なんだか、よく見る夢に出てくるあの子に似ている気がした。親の理想を押し付けられて、うまく生きられない。生きたいと叫んでいるのに、無視されて殺されている本当の自分がいる。その状況は、本当にひどい。

 そんな星野君に既視感のようなものを感じる。本当にそれが既視感なのか、もしくは他の感情なのか。

 星野君のことをもっと知りたい、近くで見ていたいと思う。何より、救いたい。

「逃げたいんだよね。じゃあ、逃げようよ。」

「逃げてんじゃん、今。」

「この方法は危険すぎるよ。他に手を差し伸べてくれる人いなかった?」

「ねえよ、アレからは逃げらんない。」

 大人からは逃げられない、夢を見ているときに一番思うこと。だから、星野君の言いたいことは分かる。でも、きっと。

「大人からでも逃げられる方法、絶対あるよ。」

「嘘だ。」

「嘘じゃない!私は逃げた!」

 急に大きな声を出してしまって、星野君がびっくりした顔をする。でも、一番驚いでいるのは私自身だった。

 逃げた?大人から?

 いや、私には記憶がないからわからない。でも、とっさに出たのは先ほどの言葉だった。

 逃げたのは事実だ。記憶がないことがその証拠。でも、先ほどから感じる星野君への既視感はなんなんだ。

「誰でもいいんだよ。誰か、大人に助けてって言おうよ。私、知り合いに助けてくれる人いる。」

 ブーブー、という音が聞こえた。スマホの通知を知らせるバイブレーションだ。私のスマホはいつ連絡が来てもいいように音が出るように設定してあるから、星野君のスマホの通知ということだ。

「なあ、助けてくれる人いるかもしれない。」

 そう言って星野君が見せてきたスマホの画面には知らない人の名前からのメールが表示されていた。

『ひとみ、元気にしてる?何か辛いことあったらいつでも言うんだよ。いつでも家来ていいからね。』

「この人、父方の叔母。いつの間にか仲良くなったんだよね。」

「手、差し伸べてくれる人いたね。」

「うん。」

 星野君はそういうと、電話を掛けた。相手は叔母さんだろう。ほんの少しだけ会話をすると、電話は終わった。

「なあ、お願いがあるんだけど。」

「いいよ。」

「俺のことさ、呼び捨てにしてくれない?このまんまだとしても、逃げられたとしても。星野『君』っていうの、やっぱ嫌だから。」

「じゃあ、ひとみって呼んでもいい?その代わり、私のことも名前で呼んでよ。」

 踏み込んだ話をした仲だ。これくらい良いだろう。

「うん、いいよ。ありがとう。」

 初めて星野君、いや、ひとみからの本当の言葉を聞けて、心が暖かくなる。表すなら、『嬉しい』になるのだろうか。『楽しい』と似ていて違うらしいから、きっとそう。

 いや、やっぱり分からない。

   *

 あれから数日経って、長期休みに入った。

 スマホの音が鳴る。通知を確認すると、障害物リレーメンバーのメッセージグループに赤いランプがついていた。

『ひとみ:リレー練習してた時の公園に三時に来てほしい。話がある。』

 あの日、しばらく二人で座っていたところを空乃ちゃんに見つかった。ひとみを見つけたという連絡をしなかったことを怒られた。反省はしていない。結果的には正しかっただろうから。

 ひとみは学校に来るようになった。けれど、あの日以来特に会話もなく、何もなかったかのように過ごした。

 優音ちゃんと一緒に公園へ向かう。久しぶりにひとみと話すからか、なんだか緊張しているようだ。

 公園に着いたときにはひとみ以外の全員がいた。しばらく待つと、ひとみも公園に入ってきて全員が揃った。

「話って、何。」

 最初に話したのは入鹿君だった。ひとみが話し始めやすい雰囲気を作ったのだろうなと感じた。入鹿君は小さな気遣いができる人だ。

「まずは、みんなごめん。めっちゃ迷惑かけた。」

 ひとみが深々と頭を下げる。少しして頭を上げたひとみは泣きそうな顔をしていた。

「あと、探してくれて、その、ありがとう。」

 照れているようなその表情は今まで見たことがなくて、短期間で変わったと感じた。

「気にしてないよ。無事でよかった。」

 空乃ちゃんがひとみに抱きつく。今までなら嫌がりそうなその行為もひとみは受け入れている。私もしたいと思うのは、気のせいだろうか。

「で、本題なんだけど。まず、俺、いや、私。…女なんだよ。多分気が付いてたと思うけど。」

 そうなの、と優音ちゃんが小さく呟いたから、とりあえず黙っていてくれと小突いた。

「今まで男って言い続けてたけど、まあ、色々あって、女として生きることになったから…。」

 そこで、言葉が詰まる。必死に言い方を考えているひとみの手が強く握られていることに気が付いた。

「女の子として接してほしい、ってことだよね。ひとみ。」

 周りがざわつく。私がひとみと呼んでいることはまだ誰にも言っていなかった。

「光音、ありがとう。」

 さらにざわつく。その反応が少し面白く感じた。

「急に変えるのは難しいと思う。もちろん俺も、そうだから。でも、気持ちだけでも。お願いします。」

「変えるよ。ひとみちゃん。」

 そう答えたのは優音ちゃんだった。呼び方も今までと変えている。

 ひとみはその言葉に目を丸くし、その後涙を流した。

 そんな様子を眺めている私の心の中に知らない動きを感じた。この間から感じている、知らない感覚。知ってしまえば今までのようには過ごせない。記憶を失う前に戻ってしまう。そうやって誰かがささやいてくるような気がする。

 変わっているのはみんなだけじゃない。私もだ、ということに嫌でも気づかされる。

 向き合わなければいけなくなるのも、時間の問題だ。

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