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#2もしも気持ちがわかるなら

『―――、人の前ではきちんと姿勢を正すのよ。我儘は絶対に言わないで、常に笑顔でいなさい。』

『分かった、ママ。』

『人前で『ママ』なんて呼ばないこと。『お母さん』と呼びなさい。恥ずかしいんだから。』

『分かった、お母さん。』

『笑顔がぎこちない。そんなんじゃ、トモダチができないでしょう。角が立たないように、しっかりとするのよ。』

『分かった。私、頑張るね。』

   *

 夢を見た。誰かはわからない、小さな女の子とその母親らしき人の会話だった。知らない人のはずなのに、どこか懐かしさのようなものを感じながらも、夏でもないのに背中にはじっとりと汗がにじんでいた。

 「なんだったの、あれ。」

 窓の外は明るく、もう朝だと気が付く。時計を見ると起床予定時刻より少し早いくらいだった。目覚まし時計の音が聞こえなかったのはそれが原因か。アラームによって無理やり起こされることよりも最悪の目覚めだ。

 少し早く起きることができたなら、寝坊するよりもましだ。寝起きの悪い優音ちゃんを起こしに行こう。

 部屋に入ると、優音ちゃんは体がベッドから半分ほどはみ出た状態で眠っていた。寝相が悪い。本当に寝ているのだろうか。

「優音ちゃん、起きて。朝だよ。」

「むぅ、なに。みつねぇ?」

 カーテンを開けて部屋の中を明るくする。多少強引でも早く起こさなければいけない。この子は起きることだけでなく、朝食などの行動全般がとても遅い。

「今日から学校でしょ。早く起きないと、一日目から遅刻だよ。」

「がっこう。学校!起きなきゃ!」

 優音ちゃんが勢いよく体を起こす。『学校』という言葉に反応したのだろう。それはそのはず、ここに住み始めてから数日間、優音ちゃんは四六時中「学校楽しみ」だとか「早く学校に行きたい」だとか言っていた。

 珍しく寝起きのいい優音ちゃんに急かされながら朝食を作る。家事に関しては、曜日ごとに当番を決めて交互にやっている。今日は私が朝食を作る係だった。

 たわいもない会話をしながら朝食を取り、身支度をする。

 一度だけ試しに着ただけの制服は汚れもなく、キレイな状態でクローゼットの中にしまってあった。

「光音ー!どうしよう、この紐結べない。」

 優音ちゃんが「紐」と呼んだのはネクタイだった。ネクタイを体に巻き付けた優音ちゃんがどたどたと私の部屋に駆け込んできた。

「どうしたらそうなるの。ほら、こっち向いて。」

「んー、光音ありがと。」

 鏡に映る制服姿の私たちを見ても、まだ高校生という実感が沸かない。制服に着られている、といった感じだ。

 記憶のない私たちが普通の人たちの世界に入っていく。孤児院の中しか知らない私たちが。

 不快ではないことを願うしかない。

   *

 窓の近くの席で良かったと思う。学校は室内以外にもたくさんの物があり、それを観察するのは暇つぶしになる。

「光音?どこ見てんの。わたし、ご飯食べ終わったよ。」

 その暇つぶしを邪魔するのが優音ちゃんだ。私のほうが昼食を早く食べ終わったというのに、あたかも自分が待たされているというようなことを言ってくる。それを許せる私がいるのも事実なのだけれど。

「まだ昼休みは終わらないんだね、何する?」

「何かしようにも、私たちは校舎の構造を知らないから変に出歩けないよね。」

 少しだけ見た校舎の地図は大きくて、校舎の広さがよくわかった。在校生は迷子にならないのか疑問に思った。いつか校舎を散歩でもしようかと思ってはいるけれど、そんな時間があるのか分からない。

「二人とも良い?」

 ふと、声をかけられた。男子生徒と女子生徒が一人ずつ。短い休み時間に女子生徒のほうは名乗っていたような気がするが、正直覚えていない。クラスメイトくらい、顔と名前が一致するようにならなければ。

「星光音さんと花優音さんであってるよね?学級委員の鮫村悠です。隣は同じく学級委員の海月空乃。よろしく。」

「あ、よろしく。」

 男子生徒、鮫村君ははっきりとした声で聞き取りやすい話し方だった。女子生徒、海月さんの名前も知ることができた。 

 しかし、なぜ話しかけてきたのだろう。学級委員と言っていたけれど、仕事の一部だろうか。気になることはたくさんあるから、ありがたい。

「急に話しかけてごめんね。びっくりしたでしょ。星ちゃんと花ちゃんには伝えておかなきゃいけないことがあって。」

 星ちゃんと花ちゃん。今まで名字で呼ばれたことがなかったから、私にとっては新鮮な響きだ。初対面の相手にも「ちゃん」付けで呼ぶなんて、海月さんは親しみやすい性格なのだろうか。

「伝えることって何?」

「休学明けすぐで驚くかもしれないけど、二週間後に体育祭があるんだ。そこで二人が出場する種目が決まっていて、それが障害物リレーなんだ。」

 体育祭。障害物リレー。聞いたことのないものだ。

「海月さん、『たいいくさい』ってなあに?」

「えっ。」

 優音ちゃんが尋ねると、海月さんは意外だという声を出す。私たちが知らないだけで高校では当たり前にみんなが知っているような言葉なのだろうか。

「ごめん、海月さん。私たち、あまり常識的なこと知らなかったりするから。そういう時は教えてほしい。」

「あ、そうなんだね。体育祭はスポーツをして色分けしたブロックごとに点数を競うお祭りみたいなものだよ。毎年この時期にやっているの。」

「お祭りっ!」

 優音ちゃんが目をキラキラさせる。優音ちゃんがこういう表情をするときは『楽しい』時。

「障害物リレーも分からないよね。校庭に作られたコースの中で走りながらミニゲームをやるイメージ、だと分かりやすいかも。それを六人チームで一人ずつ走る感じ。まぁ、やってみたらすぐわかると思う。」

 なんとなくのイメージはできた。優音ちゃんがもっと目を輝かせたから、多分『楽しい』もの。

「そのメンバー顔合わせと練習が明日の放課後にあるから予定空けておいてね。」

「障害物リレーには僕たちも一緒に出場するから安心して。色々教えることができる。」

「ありがとう。」

 そこでチャイムの音が聞こえた。予鈴がなったら授業の五分前だ、と高校の先生に初めに教えてもらった。

「わ、もうこんな時間。次の授業、移動教室だから案内するね。行こうか、星ちゃん、花ちゃん。」

 次の授業の教科書やノート、筆箱などを持っていることを確認する。忘れ物はしていなさそうだ。先を行く海月さんの後ろ姿を追う。

 何も知らない私たちに色々と教えてくれて、海月さんたちはいい人だ。仲良くなれそうで、良かった。

   *

 高校の勉強に関しては、孤児院にいたときに少しだけやっていたのであまり困らない。ただ、学校の先生の授業は特殊らしく、知らない用語がよく出てくる。今もよく分からない言葉を生徒に伝えて教室を出て行ってしまった。

 クラスメイトはみんな机に向かって何かの問題を解いている。優音ちゃんは近くの席の子に質問している様子があったから、今が何をする時間なのか理解できているようだけれど、私にはその会話が聞こえなかった。

 私も誰かに聞かないと。隣の人に質問してみようかな。隣の席には無表情で淡々と問題を解いている男の子がいる。

「あの、えっと、星野君。今って何する時間なの?先生の言ってること分からなくて。」

 その子の返事を聞いて驚いた。

「教科書の問題解く時間。黒板に範囲書かれてる。」

 声は高く、女の子だった。確かに、小柄ではあったけれど。

「あっ、女の子だったんだ。ごめん。」

「違う、男。」

 星野君は机から目を離さずに低い声で言った。怒らせてしまったのだろうか。いや、私には『怒る』は分からないけれど。

「あ、ごめん。教えてくれてありがとう。」

「…。」

 無視されてしまった。そんなに怒っているのか。

 とりあえず学校の先生からの指示が分かったのだから、それをやらなければいけない。私は範囲のページを探して、問題を解いていった。

 今日の分の授業は終わった。授業はしっかりと受けることができたし、分からないこともなくなったのですっきりとした気分になる。

 ただ、一つある心残りは隣の席の星野君を怒らせてしまったこと。怒らせてしまった場合は許してもらえるまで謝ること、怒らせたままでは相手が不快だから、と先生に教えてもらっている。私にはよく分からない話だけど、先生がいうのだから間違いないと思う。だから、星野君にも許してもらい、怒っている状況を改善させる必要がある。

 帰りのホームルームが終わり、荷物を整理している星野君に声をかける。

「さっきの授業ではごめんなさい。性別を間違えられたのは不快だったよね。私、反省してるから許してもらえるかな。」

「は?」

 『は?』?あまり聞かない答えで驚く。普通は「いいよ。」だとか「許すよ。」といった答えが返ってくるはずだ。孤児院のみんなはそういう答えをしていた。

「えっと、許してもらえるかな。」

「いや、二回言わなくても分かるし。ていうか、引きずってたのかよ。あんなのどうでもいい。」

 星野君は早口で答えた後、教室を出て行ってしまった。

『どうでもいい。』なんて、なかなか聞かない反応だ。やっぱり、孤児院の外に出てからは見たことや聞いたことのないものにたくさん出会う。外の世界、不快ではないかもしれない。

「あ、星ちゃん。ごめんね。ひとちゃん、いつもああいう感じだからあんまり気にしないでね。」

「ひとちゃん?」

 ひとちゃん、とは星野君の下の名前だろうか。まだ、フルネームを覚えていないから不便だ。

「あー、私が付けたあだ名ね。ひとみ、だからひとちゃん。」

「そうなんだ。どうして、海月さんが謝るの?」

 私には『怒る』がないから謝られる理由がない。相手が悲しんでいるときにも謝ることがあるらしいが、『悲しい』も私にはない。

「星ちゃんが嫌な思いしたかなって思ったから。ひとちゃんとは幼馴染だから自分のことみたいに感じるんだよね。」

 長い時間一緒にいると、そういう考え方ができるようになるんだ。初めて知ったことだ。私にはそんな関係性の人はいないな。優音ちゃんは一番仲がいいけれど、幼馴染というほどの時間は共有していないだろう。…多分。

「光音。何話してるの?わたしも入れて。」

 自分の身支度が終わったらしい優音ちゃんが話に入ってきた。席があまり近くないから、寂しかったのかもしれない。

「そんな大したこと話してないよ。それより、二人とも。移動教室で行った場所以外の教室まだ行ったことないでしょ?案内するから一緒に行こう。」

「学校探検っていうやつ?楽しそう!行きたい!」

「うん、私も気になる。」

 あの気が遠くなるほど広い校内を海月さんは全て案内できる程覚えているらしい。まだ、一年も経っていないのに覚えられるのか。

 海月さんと優音ちゃんについていきながら、私は先ほどのことを考えていた。学校に行き始めてまだ一日も経っていないのに初めて知ったことがたくさんある。

 明日もまた学校に行きたいと思えた。

   *

 暗い部屋。

 怖くて仕方がない。

 少しの隙間から明かりが見えた。

 手を伸ばす。

 隙間に手をかけ、力を入れる。

 明かりが大きくなる。

 手に衝撃が走る。

 隙間がなくなる。

 暗くなる。

   *

 目を開けた。なんだかひどい夢を見ていた気がする。

「光音。わたし、嫌な夢見た…。」

 わたしの声が部屋の中で響く。返事はない。

 あ、そうだ。今は部屋が二つあるから、別々の部屋で寝ていることを思い出す。

 嫌な夢は二種類ある。

 一つは現実では絶対に起こらないようなことや、まだ起きていないことを見る夢。もう一つは過去の記憶を見る夢。

 多分、さっきまで見ていた夢は記憶のほうではないと思う。わたしは記憶がないから。

 今までも嫌な夢はよく見ていた。ファンタジーな、絶対に起こりえないような夢。その度に、同じ部屋で寝ていた光音に「現実じゃないから大丈夫。」と言ってもらっていた。

 今回の夢は今までのとは少し違うような気がした。でも、覚えている限りではあんな記憶はない。現実じゃないと言ってくれる光音もいない。

 孤児院から出て、先生のいない場所で生活するのは無茶なんじゃないか。少し前から思っていたことが、なんだか現実味を増した。

 高校に行くことが楽しみだったのは本当で、新しい部屋にわくわくしたのも本当で。

 でも、夜になると良くないことを考える。昔からそうだった、多分。

 夜は嫌いだ。暗くて、怖いから。

   *

 今日もいつも通り、朝は光音に起こされて、当番だから朝食を作って学校に行った。授業は知らないことだらけで難しいけれど、楽しい。

 放課後になって、昨日海月さん達が言っていた『しょうがいぶつりれー』の集まりに行く。今日、海月さんに「集合場所は校庭」ということを教えてもらった。

 校庭への行き方は昨日海月さんに案内してもらったけど、忘れた。光音が覚えていたから連れて行ってもらう。

 集合場所にはすでにわたしたち以外のメンバーは全員いた。海月さんと鮫村くんもいた。他は知らない人。いや、クラスは同じだから顔は見たことあるけれど。

「よし、全員集まったね。まずは軽く自己紹介をしようか。まあ、知ってると思うけど僕は鮫村悠。よろしく。」

 よろしく、と海月さんが言ったから、真似をして「よろしく~」と言ってみる。他の人は特に何も言わなかった。

「じゃあ、私。海月空乃。このメンバーでできて嬉しいよ。よろしくね。」

 さっきと同じようにもう一度「よろしく~」と言う。今回は視界の端で誰かが小さく頭を下げるのが見えた。なるほど、そういうこともやっていいのか。

「次はひとちゃんかな。あの二人は最後にしてあげよう。」

「わかった。」

 ひとちゃん、と呼ばれた人が無表情のまま答える。声が高いから女の子かな。

「星野ひとみ。男。」

 男の子だった。星野くんは「よろしく」って言わなかったけど、わたしは言った。海月さんも言っていたから、光音も真似していた。

「じゃあ、次は俺?入鹿巡。あんま体力ないから迷惑かけるかもしれないけど。」

 入鹿くんは小さく頭を下げた。女子三人でよろしくって言う。男の子なのに体力がないのは意外だ。先生は細いのに大きな子も抱っこできるほど力があるし、体力もあるのに。

「私は星光音。よろしく。」

「よろしく~。わたし、花優音!頑張るね。よろしく!」

 二人で自己紹介をして挨拶をする。なんだか、これだけで楽しい。『しょうがいぶつりれー』がどういうものか、いまいちよく分かっていないけれど、楽しくなるだろうなと思う。わくわくが止まらない。早くみんなと仲良くなって、『たいいくさい』やりたいな。

   *

 障害物リレーのルール説明を海月さんから聞いて、私たちの練習が始まった。前に聞いていた通りミニゲームのようなものが五つありそれを六人で順番に走る。それ用の道具が揃っているようだから、早速やってみることになった。

 まず初めに走るのは海月さん。ハードル、と呼ばれる小さなアーチを飛びながら走るらしい。海月さんは運動神経が良いのか、スピードを落とすことなく走っていた。

 二走目は星野君で、紐から吊るされたパンを口で取るミニゲームをする。パン食い競争、と言うらしい。練習ではパンは使わないけれど。

 三走目は鮫村君が校庭に敷かれた網をくぐる。正直、汚いと思う。海月さんに言ったら、土で汚れるのも体育祭くらいでしか味わえないから良い、と返された。

 四走目は優音ちゃん。大きな麻袋に入ってジャンプをしながら進むもの。不器用な優音ちゃんは何度か転んでいた。危ないけれど、海月さんがたくさん教えてくれるみたいだから、本番までには上手になるだろう。

 五走目は私だ。平均台という小さな橋のようなものを渡る。思ったよりも歩ける範囲が細くて落ちそうになったけれど、なんとか落ちずに完走できた。

 最終走者の入鹿君は百メートル走るだけだ。足が早いらしい。らしい、というのは入鹿君の体調を考慮して全力で走らなかったから。自己紹介で「体力がない」と言っていたけれど、体が弱いのだろうか。

 一通りやってみて、分からなかったところや難しかったところを共有する。

 正直、全てが分からない。こんなことをやる意味が分からない。

 だから、言ってみた。すると、鮫村君が答えてくれた。

「確かにその行為一つに意味はないかもしれないけどね。体を動かすことを楽しんだり、こうやってみんなで協力したり、それで本番にどう結果を出せるかわくわくしたり。その時間をみんなで共有することに何か意味があると思う。その意味は人それぞれだろうけど。」

 『楽しい』という言葉が出てきたときから、私には理解できないことだと思った。私にはないから、人それぞれと言われても分からない。

 今日は校庭を使える時間が限られているから解散になった。また、定期的に公園などで自分達で集まって練習をする約束をした。私たち以外の四人は全員中学校が同じで家が近く、私たちも奇跡的に同じ地区に住んでいたから集まりやすかった。

 帰りはみんな同じ時間になるから、集まりがある日はみんなで一緒に帰ることになった。一緒に、と言っても女子と男子で分かれて話したりしている時間がほとんどだったけれど。

 大人数で一緒に行動するのは孤児院ではやったことがなかったから新鮮だった。この感覚が優音ちゃんたちにとっては『楽しい』に値するのだろうか。しかし、『楽しい』を説明する際に使うような気持ちが高ぶるような感覚は私にはない。だから『楽しい』とは違うのだろう。『楽しい』が分かれば、今日分からなかった障害物リレーのようなものをやる意味も分かるのだろうか。今は、分からないし分かろうとも思わなかった。

   *

 障害物リレーの練習が始まって数日。練習は順調に進んでいるほうだと思う。個人で練習をしたり、教えあったりしてからバトンを渡す練習をする。

 前半に走る三人は器用で失敗することが少ない。ほかのチームがどうかは分からないけれど、スピードは速いほうだと思う。特に海月さんはそもそも走ることが得意なようで、そのうえハードルの失敗も少ない。

 アンカーの入鹿君は他の人にアドバイスをすることが多いけれど、通しで練習したときに見た走りは運動部の人の中にいても速いほうだと思えるようなスピードだった。部活には入っていないらしいけれど。

 このチームは運動神経が良い人が多すぎる。

 そのなかで浮いているのが優音ちゃんだった。何度練習しても上手にできない。転ぶ回数は多く、スピードも出ない。日に日に増えるばんそうこうが痛々しい。

 もう少し簡単なものに変えてもらったほうが良いのではと提案したこともあったし、他の人たちは交換しても良いと言ってくれていたけれど、優音ちゃんは断った。初めにもらった役割は最後までやりきりたいらしい。

 私にはその気持ちは分からなかった。

 海月さんは優音ちゃんが何度失敗しても根気強くアドバイスをして練習を一緒にしていた。

「花ちゃんの意思を尊重したいの。やると決めたなら、私は最後まで付き合う。」

 海月さんはそう言っていた。

 優音ちゃんの考えも分からないけれど、私はいつまで経ってもこんなことをやる意味が分からなかった。練習をしていくうちに良さがわかるかと思ったりもした。しかし、何度練習をしても分からないし、『楽しい』を感じることもなかった。できないことをできるようにすることに不快感はないけれど、それ以上のものはない。

 そうやっているうちに体育祭本番の日は刻一刻と迫ってきていた。

 本番前日、もう一度鮫村君に聞いてみた。やる意味が分からない。『楽しい』もわからない、と。

「まあ、運動が好きでない限り練習は楽しくないかもね。僕はね、本番こそが一番のポイントだと思うよ。」

 本番、たった一日のために大勢が時間を削って作り上げるもの。それほどの価値があるのか、私はまだ知らない。

「泣いても笑ってもそれが最後。本番特有の雰囲気とか、終わった後の達成感とか。あ、これは真剣にやらないと味わえないけど。」

「達成感…。」

「うん。まあ、いずれ分かると思うよ。とりあえず、明日は手を抜かないこと。それが一番大切。」

 結局、やる意味は分からなかったけど、本番になにか期待のようなものを抱いているような感覚があった。感情が動くのには慣れない。

 その日の夜はなんだか目が冴えて、眠りにつくのが少しだけ遅くなった。

   *

 体育祭本番は校庭全体が不思議な雰囲気に包まれていた。これが鮫村君の言っていた『本番特有の雰囲気』なのだろう。天候に恵まれた一日。大げさすぎる声援。賑やかなBGM。何もかもが初めてで動揺が隠せない。

 ただ、全員が好きなように楽しむ行事ではなくて、仕事に追われている人もいる。海月さんと鮫村君は学級委員だから役割が多いらしい。生徒の待機席にいることが少なくて忙しそうだ。先ほども何かの紙を持って話していたから、仕事の打ち合わせをしていたのだろう。

 私たちは障害物リレー以外にもクラスメイト全員が出場する種目などに出る必要があり、それ以外の時間は席で観戦していた。休学明けすぐという理由で私たちは観戦する時間のほうが長い。

 優音ちゃんはクラスメイトの一人から貰ったカラフルな道具を使って応援をしている。声かけ一つで良い結果が残せるとは思わない。大切な人からならまだしも、出会って半年も経たないクラスメイトから声をかけられても心や体に変化があるわけがない。

 特に何も得られないまま午前中の全競技が終わり、昼食の時間になった。

 眩しいほどカラフルな文字で各々の思いが綴られている黒板を眺めながら、いつもの昼休みとたいして変わらない昼食休憩をする。優音ちゃんが午前中の感想を興奮気味に話していると、海月さんと鮫村君、入鹿君が合流してきた。

「せっかくの体育祭だし、障害物リレーチームみんなで食べない?ほら、ひとちゃんも。」

 海月さんはそう言って私たちの隣で一人静かに昼食を取っていた星野君を呼ぶ。

「いや、俺はいいよ。」

「そんなこと言って。照れてるんでしょ。」

「照れてねえよ。…仕方ない。」

 しぶしぶ、と言った感じで星野君がこちらに近づいてくる。

 こんなに大人数で食事をするのは久しぶりだ。孤児院では全員揃って食事をしていたから懐かしい。孤児院を出てからまだそんなに時間は経っていないけれど。

 しばらく話をしながら食事をしていると鮫村君が質問をしてきた。

「星、体育祭本番も半分終わったけどどう?楽しさとか分かったかな?」

「分からない。騒がしいし、暑い。どちらかといえば不快な方。」

「あちゃー。まあ、今日は天気よくて暑いからね。仕方ないか。」

 まだ、一番練習していた障害物リレーをやっていないから何とも言えないけれど、今のところは良い印象はない。ただ理解しがたい。それだけだ。

 きっと、分からないままなんだろうな。こんなに普段とは違う場なのに変化がないということはそういうことなのだろう。

   *

 昼食後、午後の競技が始まる前。

 俺は巡と一緒に人気のないトイレの近くに来ていた。体育祭中は使えるトイレが限られているからルールは完全に無視してここに来ている。

「やっと静かなとこ来れた。まじで俺合わねえわ、ああいう雰囲気。」

「今日は星野の親来てるの?」

「来てる。気が休まんねえ。どこで見られてるか分かんねえもん。」

「本当、お疲れ。」

「おう。」

 巡と二人きりの時は少しだけラフでいられる。事情を知っている中で、過剰に反応してこないこいつとは気が合うのではないだろうか。もしくは、反応してないふりをしているだけかもしれないが。

「巡は大丈夫なの。さっき咳してたじゃん。」

「あれは砂埃にむせただけだから平気。今日は最後まで温存しておくって決めてるから。」

「ふーん。お前肺弱いんだから無理すんなよ。」

 巡は気に食わないと言いたげな顔をする。

「無理すんなよって言いたいのはこっちだよ。最近また傷増えてるじゃん。」

「見てないふりしとけ。空乃にばれたら面倒だから。」

「分かってる。」  

 必要以上に踏み込まない。この距離感が俺らにとって大切だ。

「午後も乗り切ろうな。頑張らずに、って感じでさ。な、星野。」

「ああ、巡。」

 俺らは静かにグータッチをした。  

   *

 障害物リレーは体育祭の最終競技の一つ前に行われる。最後のほうの競技は盛り上がりやすく、この障害物リレーも例外ではない。本番の時間が近づくにつれて周りの騒がしさがどんどん増していく。優音ちゃんもわくわくしていると言っていた。 

 競技が始まる直前。出場生徒の待機場所に私たちは集まっていた。周りにいる他のチームの人たちがしているように最後の確認をする。そわそわとしている人たち、大声を出して盛り上がっている人たち。私たちはそのどれにも当てはまらなかった。いつもと変わらない雰囲気のままだった。

 本番だからといって何か変わることはない。通し練習をしたときと同じように走るだけ。特別だと鮫村君は言っていたけれど、そうは思わない。

 これが終わって、『達成感』とやらを味わえるのか。たった数分で何が変わるのか。

 分からない。

「今までたくさん練習してきたからね、私たちは大丈夫。頑張ろう。」

 海月さんの声かけを合図にするかのように入場が始まった。

 第一走者がコースに並ぶ。学校の先生の合図により、障害物リレーが始まった。

 海月さんがハードルを軽々と飛び越えていく。今まで他の人がやっている様子をみたことがなかったから海月さんが飛び抜けて速いわけじゃないことに初めて気がついた。

 それでも、途中でスピードが落ちる人も多かったから、海月さんが走り終わるころには上位にいた。

 二走目の星野君は、バトンをスムーズに受け取って吊るされたパンへ駆け寄る。何度か空振りをしていたけれど、今まで練習してきた中では早めにパンを取ることができていた。

 第三走者の鮫村君も難なく網をくぐっていく。周りの人たちが引っかかる網も器用にかき分けて進んでいた。

 今のところは順調で、順位は二位だ。このままいけば、自分たちのブロックに貢献できるような得点になるだろう。

 バトンは優音ちゃんに渡された。

 優音ちゃんは今まで練習のときにはすぐに転んでいたのに、今日は順調に進んでいるようだった。海月さんに教えてもらった成果が出たのだろう。

 それでも、昨日もたくさん転んで失敗していた。そんな急には成長しない。コースの半分ほどで一回転んだ。しかも、スピードがそれなりに出ていた時に転んだから、思い切り地面に倒れこむ形で起き上がるのに時間がかかった。

 そのあとも少し進んではバランスを崩していた。

 私にバトンが渡される頃には順位は最下位の四位にまで落ちてしまった。

 順位が上のほうが良いのは分かっているため、急いで平均台まで走る。いつもどおりバランスを取りつつ、速めに進んでいく。なんだか体が軽く速く進めるような気がする半面、周りが騒がしく気が散ってバランスがうまく取れない。これが本番でしかない感覚なのだろうか。

 前にいる人との差はあまり離れていないから、アンカーの入鹿君が追い抜いてくれる可能性がある。それでも、三位が限界だろう。

 半ば諦めた状態で入鹿君へバトンを渡そうとする。バトンから手を離そうとしたとき、入鹿君の声が聞こえた。

「大丈夫。俺が何とかする。」

 私からバトンを受け取った入鹿君が徐々に加速していく。そのスピードは今まで見たことがないほどのスピードにまで速くなっていた。三位を抜かすだけでなく、どんどん二位の人との差を縮めていく。そして、追い抜かしていった。こんな姿見たことがない。今までどれだけ力を入れずにいたのだろう。

 気が付くと入鹿君はすでに一位の人のすぐ後ろにまで近づいていた。しかし、ゴールもどんどん近づいている。

 このまま追い抜かせないままゴールするのか、抜かして一位でゴールするのか。

 二人の差が縮まる。ゴールに近づく。ゴールテープを切る。

 結果は二位だった。

 特に余韻を感じる間もなく退場した。この後は出場する競技がないから観戦するだけだ。動かして熱くなった体が少しずつ冷えていく。

 まあ、そこそこ良い順位でブロックに貢献できたなら良いのではないか。特に何も感じない。

「星ちゃーん、花ちゃーん。おめでとお!」

「悔しいけど、良い順位が取れて嬉しいね。」

「まあ、よかったんじゃないの。」

 海月さん、鮫村君、星野君が声をかけてきた。各々の感想を伝え合う。

 『悔しい』も『嬉しい』も分からないけど、こういう時はそのような感情が浮かぶということはなんとなく想像できていた。この体の熱もその一種なのだろうか。

「そういえば、入鹿君は?」

 いつもならこのメンバーでいるはずの入鹿君がいない。アンカーで一番チームに貢献したのにどこにいるのだろう。

「あー、保健室行ってる。」

「そりゃそうだろ。あいつ、あんなトップスピードで走ったから。」

 体調を崩してしまったらしい。

「もとはそこそこの力でしか走らない予定じゃなかったっけ?」

「え、わたしが順位下げちゃったからかな。あとで、謝りにいかないと。」

 優音ちゃんがしょんぼりとする。自分のせいで入鹿君が体調を崩してしまったと思ったらしい。

「花ちゃん、それは大丈夫だと思うよ。」

「え。」

「巡、走るの好きなのに最近抑えてたみたいだから。思い切り走れて良かったと思うよ。あとで、みんなで会いに行こうね。」

 体調を崩してまで走る意味はわからない。でも、なんだか障害物リレーをやる意味、体育祭の良さが少しだけわかったかもしれない。冷めきらない熱が体に、胸の中に残っている気がする。これを『達成感』とか『楽しい』とかなのかは分からないけれど。

 今まで孤児院でも小さなイベントをやってきたけど、こんなに熱くなったことはなかった。

 この人たちに不思議な力があるのだろうか。外の世界に出て初めて知ることが多かった。そのほとんどがこの四人から得たものだった。

 興味のようなものが心のなかに沸いてくる。これも初めての感覚だった。

 やっぱり、外の世界は不快ではないのかもしれない。

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