惑うもの
目の前のソリッドを覆う暗い影のような雰囲気が濃くなったことに気付いたアリア。目を合わせてくれなくなったソリッドは、がたりと席を立ち右側の部屋へと入ってしまった。
「アリア」
少し強いライルの声に、アリアはうつむく。
「…ごめんなさい……」
誰に対してなのかわからぬその謝罪に、悪かったな、とヤトが呟く。
「…まぁでも、俺もあいつとおんなじこと思ってっけどな」
そろりと顔を上げたアリアに苦笑を見せて。
「…ほんと。変な子どもだな」
早く食っちまえと促されて、アリアは小さく頷き、冷めたスープをすすった。
あとは無言で食べきったアリア。ヤトに食事の礼を言い、ライルに手を引かれて左側の部屋へと戻る。直後、外からがちゃりと鍵がかけられた。
閉ざされた扉を気にした様子もなく、ベッドにアリアを座らせたライルは優しい表情のままその頭を撫でる。
「…ライルお兄ちゃん……」
「アリアの気持ちはわかるけど、それはふたりには伝わらないよ」
「うん…でもね、違うのにって言いたかったの」
自分がふたりについていくことを決めたのは、ふたりの様子が気になったから。
直接的な悪意も害意もない。どれだけ見ても『いい人』だとわかる。なのになぜだか翳りを含む。
何かを考えているようで、すべてを諦めているその瞳。
ここまでの道中見かけた誰よりも好感が持てるのに、誰よりも気力なく。今にも崩折れそうな危うさを感じた。
薄く彼らを覆うような影は、ここへ着いてから次第に増して。自分たちを連れてきたことへの罪悪感がそれに拍車をかけているのだと気付いた。
だから、違うのだと。
自分たちは自分たちの意思でここにいるのだと。そう伝えたかったのだが。
いつも自分の話を疑わず最後まできちんと聞いてくれるリーとは違う。龍だと知らないソリッドは、自分の言葉を信じないばかりか、最後まで聞いてくれさえしない。
そしてそんなソリッドに龍だと話さず気持ちを信じてもらうには、自分の言葉はまだ足りなくて。
「……わかってもらうのって、難しいね」
「そうだね」
ありがとうとライルに礼を言い、顔を上げたアリアは少しだけ笑みを見せる。
「…アリアに何ができるかな……」
伝わらなくても。わかってもらえなくても。
何かをしなければ変わらないことだけは、わかっていた。
どうして、と。
浮かぶ一言に溜息をつく。
ベッドが二台だけの殺風景な部屋、その一台に寝転がり、両腕で顔を覆うソリッド。
どうしてあのふたりを拐ってきてしまったのだろう、と。
ここへ連れてきてまだ一日も経っていないというのに、浮かぶ思いはそれしかなく。
『回収』まであと八日。正直このまま耐えられるとは思えなかった。
泣きわめいて恨んでくれればいい。
怯えて詰ってくれればいい。
そうすればせめて、自分はそうされて当然の存在なのだと思うことができるのに。
何もかも諦めることができるのに。
自分たちが助かるための身代わりに選んだその相手にこんなに気を遣われて。もう何をどう感じればいいのかわからない。
(……どう、しろってんだよ…)
ここまでなんの成果も上げていない自分たち。温情はこれで最後だと宣言されている。
そう。崖先に立っているのは自分だけではない。だからこそ自分勝手に手を引けなかった。
昔からの知り合いというわけでもないが、同い年だということもあってこうして一緒に行動するようになり、互いの境遇を話すうちに仲良くなった。
ヤトには家族も夢もある。
自分の勝手でそれを手放させるわけにはいかなかった。
調理場での作業を終えて、ヤトは閉じたふたつの扉を見る。
確かにアリアとライルに対しては、ソリッドと同じ疑問を抱いている。
逃げられるのに逃げないふたりは、子どもらしい無邪気さを見せながら、ふとした瞬間子どもらしくない眼差しでこちらを見ていて。何もかも見透かすようなその瞳を見ていると、ごまかす言葉が出てこなくなるのだ。
元々人のいいソリッドに、あの眼差しはおそらくキツい。
ごまかせぬ本心は、すなわち自分たちの弱さ。自分たちが助かるためにふたりを拐ったのだと突きつけられるものでしかない。
なんとか助かりたいと思っていたが、今となってはあのまま諦めた方がよかったかとさえ思えてくる。
自分たちが標的に選んだ幼子は、まだ一日も経たぬうちに自分たちに知らしめた。
本当に、それができるのか、と。
(…どうせそうなんだろうけどな)
迷いためらうソリッドが、それでも退かぬ理由などすぐにわかる。
息をつき、ヤトは右の部屋へと入った。
ベッドの上に仰向けで、両腕で顔を覆っているソリッド。入ってきたことには気付いているだろうに、一切こちらを見ようとしない。
もう一台のベッドに座り暫く待ってみたものの。動く素振りのないソリッドを、ヤトは軽く蹴飛ばす。
「あにすんだよ」
不機嫌そうな顔で起き上がったソリッドがぼやくのを笑って見返すその顔は、納得と諦めを含むもので。
その表情の意味に気付いたソリッドが口を開くよりも早く、もういいよ、とヤトが呟いた。
「俺らには無理だろ」
見開かれたソリッドの瞳がつらそうに伏せられる。
「…けど」
「もういいから。心配かけたな」
自分の事情を知るからこそ、ソリッドは退く選択をしない。
だから―――。
「あのふたり。帰してやろう」
自分から幕を引けば、ソリッドも呑んでくれる。
あのふたりを帰して。自分たちがどうすればいいかは、それから決めよう。
選択肢は、おそらくそれほどないけれど。
「ヤト、でもお前…」
「大丈夫」
根拠も確信もない。それでも言い切る。
「大丈夫だって。きっとなんとかなる」
「んな都合よく―――」
ソリッドの言葉を遮るように、ガチャリと扉が開かれた。
―――少し前。
ヤトが隣の部屋へと入ったことを気配で感知したアリアは、ぴょこんとベッドから跳ね降りた。
「ライルお兄ちゃん」
わかっていると頷いて、ライルは扉の前に立つ。
しゅるりとその身が伸びて元の龍の姿へとなる。次いで輪郭を崩し、水色の体が淡く透けた。
水に紛れることができる水龍。扉の隙間から手を出して、鍵穴に入り込むことなど造作ない。
尤も鍵か扉を壊してしまうのが一番手っ取り早いのではあるが、それをしてしまうと人外であることがすぐにばれてしまう。今のこの状況も疑問に思われてはいるだろうが、このくらいならまだ龍には繋がらないと踏んでいた。
外から解錠したライルは再び人の姿を取る。
「開けたけど。行ってどうするの?」
振り返って問うライルのいつもよりも厳しい眼差しに、それでも視線を逸らさずわからないと返すアリア。
「でも、何か話さないとって思うの」
自分の言葉はまだ足りない上に、すべてを話すことはできない。
しかしそれでも、もっと話すことで伝えられることはあるかもしれない。
心配なのだと、わかってもらえるかもしれない。
「だから、行ってくるね」
言い切るアリアに、ライルの眼差しが仕方なさそうに緩む。
「僕も行くよ」
「ありがとう、ライルお兄ちゃん」
嬉しそうに微笑んで、アリアがライルにくっついた。
ふたりで部屋を出て、隣の部屋の扉を開ける。
言いかけていた言葉を途切れさせてこちらを凝視するソリッドと、はっとして見やるヤト。
「アリアもふたりと話したいの」
ふたりを見つめ、アリアは告げた。