対等であるために
―――一方ヤトは。
橙五番でソリッドと別れてから、夕方に橙四番へ、そしてそこから最短距離を馬で飛ばし、故郷であるマレッジに到着したのは夜中になってからだった。
故郷マレッジは宿場町ほどの賑わいはないが、それほど小さくもなく。だからこそ住人がひとり姿を消した挙げ句に身も心もボロボロになって戻ってきても、気に留める者などいなかった。
姉を騙したのは、茶髪に琥珀の瞳のテレスという男。
なんとか姉から聞き出した相手の名と容姿。姉の借金先であるこの集団と関係があるだろうと踏んでこの一年探してみたが、結局見かけなかった。
姉には手を出さない約束で借金をすべて自分が負ったのだから、姉の無事くらい確かめさせろと頼み込み、見張り付きではあったが一度だけ姉に会いに戻れた。
自分のせいでと泣く姉は別れた時とは比べ物にならないほどしっかりとしていて、ちゃんと己を取り戻してくれたのだと安心できた。
それからは会うこともなく、大人しく言われたことをこなす日々。
何度かの失敗で自分が荒事に向いていないことはすぐに知られたので、あとは給仕やお使い程度の仕事ばかり。むしろだからこそ一年の間逃げようとも思わずにいられた。
自分が長くアジトを離れる時は、姉には見張りがついていると聞かされていた。うしろ暗い集団だとわかってはいたが逃げ出したいほどのものでなく、それなら大人しくさえしていれば姉に危険はないからと、そう思っていた。
姉についている見張りがどの程度のものか、確認したことはないが。
冷静に考えてみると、自分ひとりにそれほどの価値はない。売るほどの情報も持たないのだ、逃げたところで困ることもないだろう。
そう思い、闇に紛れて自宅へ向かう。
ずっと辺りを警戒していたが、見張りらしい人影はなかった。
自宅の前、肌身離さず持っていた鍵を取り出す。
誰かに取られたりすれば姉を危険に晒すかもしれないからと、会いに戻った時に返そうとした自宅の鍵。ここはあなたの家だからと言って姉は受け取ってくれなかった。
―――いつか帰れるように、と。
そんな願いとともにずっと持ち続けていたそれで、家の中へと入る。
灯りもなく静まる屋内。しかし暗闇に慣れた目に映るのは見覚えある部屋で。懐かしさがこみ上げるが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「姉さん」
物音ひとつしないが、もし起こしてしまったのなら怖がらせているだろうと思ってまずは声をかける。
静けさの中響いた声に、奥の寝室から姉、サーシャが飛び出してきた。
町の外に繋いでおいた馬にサーシャとともに乗る。
ここマレッジから一番近い保安協同団の詰所は橙街道の三番と四番の間の中継所。高低差がほとんどないのは救いだが、行きも急がせた上に今はふたり乗り、加えて夜の闇。行きほどの速さはなく、歩くよりはマシな程度だろう。
結局見張りらしき者がいなかったので、安全を優先して馬車道を進む。街道ほどきれいに整えられてはいないが、均し固められた道はやはり走りやすい。
「姉さん、寒くない?」
着替えて上着を羽織り、ヤトよりも少し明るい青髪は軽く結っただけ。碌に準備もできずに逃げることになったサーシャを気遣い声をかけるが、サーシャはいいえと首を振る。
「ヤトが温かいから大丈夫よ」
「何言ってんだよ」
もたれていいと言っても礼を言うだけ。自分に負担をかけないようにだとわかっていたが、この状態で暖が取れているとは思えない。
「本当よ」
少し笑うような声はすぐに吐息に沈み、サーシャは軽くヤトの胸に頭をつけた。
「……ごめんなさい、ヤト」
「いいからしっかり掴まってろって」
抱え込むように腕を寄せるが、やはりサーシャは身を預けようとはしなかった。
「ヤトにばかり、つらい思いをさせたわね…」
暫くの沈黙のあと、ぽつりとサーシャが呟く。
やはりずっと気に病んでいたのだと知るが、自分がいくら気にするなと言っても聞き入れる姉ではない。
なので、代わりに。
「…悪いことばっかじゃなかったよ」
馬を走らせながら、ソリッド、そしてアリアとライルのことを話した。
「…そう……」
聞き終えたサーシャの、一言だけの呟き。揺れるその声に、ヤトも口を噤んだ。
互いに無言のまま馬を走らせるうちに、少しずつ空も白みだした。まだ街道沿いに植えられた木々は見えないが、もうそう遠くはないだろう。
「…詰所、着いたらさ」
不意にヤトが呟く。
「…俺、すぐ出ていいかな…」
「出るって…?」
静かなサーシャの声に少しためらってから、自分たちがアリアとライルを拐おうとしたことと、連れていかれてしまったことを話した。
「今、ソリッドがひとりでアリアたちを助けに行ってる」
手綱を握る手に、ぐっと力を入れる。
「来るなって言われたし、今更俺が行って何ができるかわかんねぇけど」
何に秀でているわけでもない自分。行ったところでなんの役にも立たないことはわかっている。しかしそれでもその言葉に甘えることはできなかった。
彼らが自分を責めぬことなどわかっている。むしろなぜ来たかと怒るだろうが。
それでも自分は行かねばならない。
信頼していると言ってくれたアリアとライル、そしてひとりですべて背負うつもりのソリッドに。このままでは次会えた時、まっすぐ顔が見られなくなる。
何もできない自分でも、せめて対等でいたかった。
「また、心配かけるだろうけど」
そう謝るヤトに、サーシャはばかねと笑う。
「私のことは心配いらないわ。行きなさい」
迷いなく返されるその言葉。
無事帰れる可能性の低さは、互いにわかっていた。
朝になって到着した中継所で、ヤトはサーシャとともに保安協同団の詰所へと行った。中にいた保安員の制服姿の若い男はふたりを見るなり慌てた様子で立ち上がり、早く入れと招き入れる。
「ヤトさんとお姉さん、だよな。保護依頼が来てるんだ」
「保護?」
そこで初めてヤトは、ソリッドが保安に保護されていることを知った。
「じゃあアリアたちはっ?」
「詳しいことはこちらも知らされていないが、心配はないと伝えろと」
剣幕さに押されながらの男にそう返されて、ヤトは小さく無事なのか、と呟いて。
そのままへたりと座り込む。
何がどうなったのか、自分には全くわからない。
しかしそれでも、三人とも無事なのだと。
別れ際のソリッドの、覚悟を決めた顔が思い浮かぶ。
(……よかった…!!)
うなだれたヤトに、よかったわね、とサーシャが声をかける。
その声自体にも含まれる安堵。
無茶を言う自分をそれでも快く送り出そうとしてくれた姉への感謝も重なり、暫くその場を動けなかった。
落ち着くまで待ってくれた男は、とりあえず話を聞くからと言い、へたり込むヤトの前で手を差し伸べた。
近付いてきた男に、隣にいたサーシャが明らかに身をすくめる。
「すみません! 何か…」
あまりに過剰な反応に男もすぐに距離を取った。
「…いえ、すみません。男の人が、少し苦手で……」
少し、どころではない反応ではあったが、サーシャはもう一度男に謝り、ほら、とヤトを促した。
己の置かれている立場とこれからのことを聞いたヤト。酌量があると聞き、サーシャも涙ぐみながら喜んでくれた。
ヤト自身は今からすぐに赤の五番の詰所に移動となったが、強行軍のため、サーシャはあとから来ることになった。
姉が男性に恐怖心を抱いていることを今まで知らなかったヤト。理由は考えるまでもなく、離れていたとはいえ、気付かなかった自分を悔やむ。ここに姉ひとりを残していくことに躊躇したが、サーシャは大丈夫の一点張りだった。
見かねた男が、女性の保安員を手配することと、到着するまでの数日はここではなく宿で過ごせるようにと取り計らってくれた。
迎えに来た宿のおかみに姉のことを頼んでから、ヤトは数人の保安員とともに馬車に乗る。
途中の詰所で馬車と御者を変えながら、休まず赤の五番に向かうとのこと。
とはいってもヤトは乗せられているだけ。揺れる馬車内、もうソリッドも姉もアリアとライルも安全なのだと、じわじわと実感が湧いてくる。
まだ顔を見るまではと思うのだが、どうにも気持ちが収まらず。
休んでいていいと言われたのをいいことに、頭からすっぽりと毛布を被った。
 




