諦めと覚悟と
暗闇の中、ソリッドは遠巻きにアジトの様子を見ていた。
馬を飛ばして夜までに赤の五番に到着し、そのまま休まずここへ来た。平静を装うためにも、ヤトが姉を助ける時間を稼ぐためにも、アジトに入るのは昼頃まで待たねばならない。本当なら赤の五番で一泊してから来ればいいのだが、どうしてもそんな気になれずここまで来てしまった。
ふたりがどんな目に遭っているのか気が気でなく。しかしそれでも今は動けず。
中の様子などわからないと知りつつも、それでもここで待つことにした。
真夜中だというのにアジトは騒々しく、ひっきりなしに人が行き交っている。普段はないその様子を怪訝に思いつつ、ソリッドは息を潜めて時を待った。
アジト前には馬車が停まり、何やら慌ただしく積み込んでいる。もしかしてあのふたりも、と身を乗り出したその時、ランタンの光が明らかにこちらへ向けられた。
動きを止めるが、もう遅い。
一瞬の逡巡の後、ソリッドは立ち上がって光に近寄った。
馬車の傍には男が四人。ソリッドを見て、ニヤニヤと楽しそうに嗤う。嫌な気配を感じるも、ここで逃げることはできない。
「えらく早いな」
アリアたちを連れていった大柄な男に尋ねられ、答えようとしたソリッド。その肩を突然男が掴み、反対の拳を腹部に叩き込んだ。
声も出せぬまま、くの字に身体が折れる。
―――何が起こったのかわからなかった。
腹を押さえて膝を着くソリッドを残る三人が取り囲み、蹴り倒して四方八方から痛めつける。嗤いながらの暴行はソリッドが完全に動けなくなるまで続けられた。
「残念だったな」
男のひとりがしゃがみこみ、ソリッドの髪を掴んで顔を上げさせる。
「ガキどもはもうここにはいねぇよ」
その言葉に、ソリッドは己の立場を理解した。
半ば引きずられながら移動させられ、格子の部屋へと放り込まれた。
嗤いながら出ていく男たちをぼんやり見送りながら、ソリッドは痛む身体に顔を顰める。
ふたりはもうここにはいない。
その言葉だけではここではない別の場所がどこを指すのかも、ふたりの無事もわからず。
自分の行動が読まれていた以上、ヤトの無事もわからず。
冷たい床に転がったまま、鉄の味のするつばを飲み込み、ただ息を吐く。
命を懸ければなんとかなると思っていた。
あの眩さに照らされ、温かい言葉をかけられるうちに、自分の価値を見誤っていた。
自分の命にもそれくらいの価値はあるのだと、どこかでそう思っていた。
輝いていたのは自分ではない。あのふたりなのだと忘れてしまっていた。
結局、何もできなかった。
何ひとつ、できなかった。
(……ごめん…)
言葉の代わりに零れるものを、拭う力も気力もない。
もっと早く、自分が手放していれば。
もっと早く、自分が諦めていれば。
あのふたりをこんな目には遭わせずに済んだ。
失うのは自分自身だけで済んだのだ。
―――せめて無事でと祈りながら。
ふたりにとっては自分との出会いは害しかなかったとわかっている。
しかしそれでも出逢えてよかったと思わずにいられない己自身を。今はもう、嘲笑うことしかできなかった。
男たちが再び姿を見せた。
身体はまだ痛むものの、せめての虚勢を張って起き上がる。
「あいつらをどこに連れてった?」
「答えると思ってんのか?」
精一杯強がった声にも、嗤いながらそう返された。
男たちのひとりが手に持っていた器を傾け、片隅にあった毛布や床に垂らしたあとソリッドに向けて大きく振った。幾分格子に阻まれながらも、ぬるりとしたそれが正面を濡らす。
間違えようのない触感に、ソリッドは内心息を呑んだ。
「ヤトを捕まえる協力をするなら命は助けてやる」
ランタンを掲げ、大柄な男が問う。押さえつけるようなその眼差しを怯むことなく見据えたまま、ソリッドは立ち上がった。
「お前ならおびき出せるだろう?」
「断る」
足を引きずらないように気を付けながら、一歩、後ずさる。
「俺にだって、それくらいの意地はあんだよ」
もう一歩、下がる。
「そうか」
本気で誘うつもりはなかったのだろう、男は興味なさそうにあっさりと返し、格子の外に吊ってあったランプを手に取った。
「なら、死ね」
男がランプから手を放すと同時に、ソリッドも全力で部屋の奥まで逃げる。
ガシャン、とランプが砕け散り。
撒かれた油に火が移り、格子を越えて燃え広がった。
炎の向こう、男たちが去っていくのが見えた。
先程まで自分がいた場所で揺れている炎を見ながら、壁際まで下がったソリッドはどうしようかと考える。
自分も油を被っている。服を脱いで拭いたところで、完全に拭い切るのは無理だろう。
格子は木製、ある程度燃えれば脆くなりここから出られるかもしれないが、あの炎の壁を越える際に自分にも火がつくのは目に見えている。
しかし、それはこのままここにいても同じこと。
どうせとっくに捨てることを決めた命。もしほんの僅かでも繋げるのなら、あのふたりのことを誰かに託せるかもしれない。
男の言い草を素直に取るなら、ヤトは無事に逃げられたようだ。もしかすると自分を騙すための言葉だったのかもしれないが、どうせわからないのなら無事だと信じたい。
自分の命が、役に立ったのだと思いたい。
揺れる炎を見つめながら、覚悟を決める。
上着とシャツを脱ぎ、油で湿る髪や服をできるだけ拭く。
ふたりのことを誰かに話すまで。それまで命を繋げれば、もうそれで十分だ。
格子を伝い、壁のように立ち塞がる炎。時間とともに火の勢いは強くなるが、ある程度格子が燃えてくれないと破ることができない。
黒ずんでいく格子を見ながら、熱いだろうな、などとわかりきったことを考えて苦笑する。
正直、怖い。
だがそれでも、と、動きかけた時。
炎の奥に、人影が見えた。
「フェイっ!!」
扉の奥に広がる炎にリーが声を上げた。足を止めたフェイが無言で炎を見やると、瞬時にふっと掻き消える。
ボロボロの格子の奥、呆然と立ち尽くす黒髪の男がいた。
何故か上半身裸のその男。黒い瞳を見開いてこちらを見ている。
リーは開きっぱなしだった両開きの扉を潜って部屋へと入る。ここが監禁用の部屋であることは、手前と奥とをわける格子からすぐにわかった。
「お前がソリッド?」
アリアから聞いていた外見と一致はするが、なぜあんな格好なのだろうかと思いながら尋ねると、男ははっと我に返った。
「えっ? あ…」
我に返ってもまだ混乱しているその様子に、仕方ないかと苦笑する。
火が消えたとはいえ部屋の中は焦げ臭い。入ってすぐの足元は黒く焦げ、格子も所々焼け落ちていた。格子の向こうも半分ほどまで焼けた跡が続き、男は最奥で壁を背に突っ立っている。
これだけ近くにまで火が迫ったことよりも、急に消えたことに驚いていることはわかっていた。
龍であるフェイの力に頼ることは止められている。しかし人命には変えられない。たとえアリアの願いがなくとも、ここで誰かを見殺しにするくらいなら罰則など喜んで受ける。
それが自分にとっての優先順位。請負人としてと人として、守るべきものの順番が異なるのなら、自分は人でありたかった。
呆ける男に苦笑して、もう大丈夫だと告げる。
「俺はリー。請負人だ」
こちらも名乗ると更にきょとんと見返してきた。
「リー…請負人…って……」
ぼそりと繰り返したその顔が、次第に驚愕に染まる。
「アリアの!!」
フェイに確認するまでもないその一言。
「ソリッド、だな?」
なんとか間に合ったと、リーは息を吐いた。
 




