覗く闇は深潭へ通じ
ようやく子どもたちが微睡み始めた頃だった。
俄に騒がしくなり、急ぎ歩くような足音が複数近付いてくる。足音は扉の前で止まり、直後扉が大きく開かれた。
ランプの灯りに照らされるのは若い女。
歳はソリッドたちよりいくつか上だろう。纏め上げた栗色の髪に、意思の強そうな深い緑の瞳。細身ながら女性らしい体型がよくわかる服を身に着けているからか、一緒に入ってきた男たちの視線が時折そちらへ吸い寄せられている。
格子越しに冷えた眼差しでじっと見下ろす女から感じるものに、アリアはぎゅっと手を握りしめた。
自分たちを連れてきた男たちも『悪いもの』だと思ったが、今目の前のこの女からは、その比ではない昏さを感じる。
人の悪意はこれほど深くなるのだと、初めて知った。
少し前にいたライルが庇うようにアリアと女との間に身を置いた。その背に我に返り、アリアは騒ぎに目を覚ました子どもたちに心配ないと目で訴える。
女はその様子をじっと眺めたあと、ふっと笑った。
「帰れるなんて思わないことね」
見下ろす瞳に浮かぶのは、明らかな嘲笑。冷えたそれを子どもたちひとりひとりに順番に向ける。
最後にライルとアリアへと見せた視線は、昏い愉悦に満ちていた。
「あんたたちはこれからずぅっと、死なないために必死に働くしかないのよ」
言い聞かせるような強さと静かさで、子どもたちに告げて。
呆然と見上げるその様子を、女は鼻で笑う。
「役立たずはいらないから。殺されないように精々頑張りなさいね」
言い捨てられた言葉が静寂に溶けた頃、染み込んだその意味に、ひとり、ふたりと子どもたちが泣き始めた。
「あんな言葉信じちゃだめ」
広がる悲しみを止めようと、アリアが皆の手を順番に握り声をかける。
「そうだよ。そんなことさせない」
女を見据えたまま、ライルも珍しく強い声で言い切る。
女は全く動じた様子もなくふたりを見てから、そう、と呟いた。
「あのふたりを出して」
「シエスタさん?」
男のひとりが洩らした疑問の声に、シエスタは苛立ちを露にする。
「ここに出して! 早くしなさいっ」
「はっ、はいっっ」
慌てた男たちが格子の扉を開け、ライルとアリアの腕を掴む。涙顔で心配そうに自分たちを見る子どもたちに、ふたりは大丈夫だからと笑みを見せた。
格子の外、シエスタの前へと引っ張り出されたふたり。その身に影を湛えたシエスタは、格子内に残された子どもたちとふたりとを見比べる。
「いつもより随分大人しいと思ったら、あんたたちのせいだったのね」
ライルはアリアの手を握りながら、何も応えずシエスタを見上げていた。
じっと龍の瞳を向けてみても、気圧されるのは周りの男たちだけで。
間違いなくこの中で一番悪意に満ちた存在であるシエスタ。この存在をどうにかすれば逃げるのは容易くなるかもしれないが。龍の力を人に振るうことがどういうことなのか、わからぬ自分にその選択はできなかった。
「生意気ね」
低く呟き、シエスタは応えないライルからアリアへと視線を移す。
「お嬢ちゃんも、人のことを心配してる場合かしら?」
ライルが応えなくていいとばかりにアリアの手を軽くうしろへと引いた。
暫くふたりを見ていたシエスタは、わざとらしく肩をすくめて男たちを見る。
「このふたりは誰が拐ってきたの?」
「ヤトとソリッドが」
顔を見合わせる男たちの中、見覚えあるひとりがそう答えた。
その返答にシエスタは吐息混じりにあぁ、と声を洩らす。
「あのふたり」
ゆらりと立ち昇る暗い影。同じ影を纏うヤトとソリッドと明らかに違うのは。
「本っ当に役に立たないわね」
シエスタはただ影を纏うのではなく、その身から生み出している、ということだった。
アリアはじっとシエスタを見ていた。
目の前の女はどんなにきれいな表面をしていても、その身は決して近寄りたくはないと肌で感じるほどの昏いものに満ちていた。
口を開く度に吐き出される影は向けられた相手を絡め取り、回を重ねるごとに濃くなっていく。
実際の視界とはまた別の、龍としての意識が見せる、その光景。
ソリッドとヤトが纏うそれは、女の身から立ち昇るように見える影と同じ。人の悪意であるのだと、アリアは知る。
そして、同時に。
「あれ、あなたのなんだね」
まっすぐに金の瞳を向けて、アリアが告げた。
「ふたりが苦しんでるの、あなたのせいなんだね」
深みを増す金の瞳がシエスタを捉える。
突然の言葉にアリアを見た男たちが気圧され声を失う中、真正面からその眼差しを受け止めながらもシエスタは怯まなかった。
「気持ち悪いガキね」
呆れたようにそう言い捨ててから、口角を上げる。
「でも、所詮はまだ子ども。男心はわからないのね」
浮かぶのは、愉悦と蔑み。
シエスタは見上げるアリアから男たちへと向き直った。
「引き払うわよ。子どもを馬車に」
「え?」
「あのふたりは裏切るわ」
突然ぎゅっと手を握り込まれたアリアがライルを見やると、ライルはシエスタを見上げ、何かを堪えるように唇を引き結んでいる。
「ヤトには逃げられそうね。そのうちここにも保安員が来るでしょうけど……」
昏い喜びを浮かべ、シエスタがライル、そしてアリアを見つめた。
「その前に。仲間ヅラしてノコノコ戻ってくるマヌケを始末してちょうだい」
誰のことを言っているのか、気付いたアリアの表情に至福の笑みを向け。
「きっと自分でこの子たちを助けに来るでしょうからね」
アリアの腕を掴み、ライルごと男の方へと引き渡す。
「向こうに行くわよ」
踵を返し、シエスタは部屋を出ていった。
男に腕を掴まれたまま、アリアはシエスタを見送っていた。
投げつけられた言葉をすぐには理解できなかった。
あのふたり、が誰を指すのか。
誰が戻ってくるのか。
戻ってきたら、どうなるのか。
わからなかった。
わかりたく、なかった――。
「アリアっ」
握られる手に更に力が込められる。
「アリア、落ち着いて、僕を見て」
ゆっくりとライルを見る。
「……ライルお兄ちゃん……」
行くぞ、と男に腕を引っ張られる。引きずられるように歩きながら、アリアはライルの手を握り返して振り向く。
「……アリア、の、せい……?」
必死な顔のライルの姿が、じわりと滲む。
「アリアが、あんなこと、言ったから……?」
「違う! 違うから!」
ライルが本当にそう思ってくれていることはわかる。わかるのだが。
「……アリアの、せいで」
冷たい涙が頬を伝う。
「ソリッド、が」
「アリアのせいじゃないっ!」
ライルらしからぬ大声は、自分を心配してのものだと頭のどこかではわかっていても。
それでも涙は止まらなかった。
自分を見たまま泣くアリアに、どうすれば、とライルは思う。
アリアの言葉は不用意な一言というほどではなかった。ただ相手がソリッドとヤトの性格をよくわかっていただけ。そしてそれを、アリアのせいだとすり替えただけ。
しかし、アリアは自分のせいだと思い込んでしまった。
今からどこに連れていかれるのかわからないが、そのあとここで何が起きるのかは示されている。
アリアも自分も望まぬそれを止めるために。今、自分にできることは何かを必死に考えようとは思うのだが、詰め込まれた部屋から建物の外までの距離などたかが知れている。
繋いだ手の先、見せたことのない絶望を浮かべ、ただ泣くだけのアリア。
その心を守るためには、今ここで龍へと戻るしかないと思った。
もちろん龍に戻っても、子どもたちを連れて逃げられないことはわかっている。
だが逃げることはできなくても、追う者を無力化することならできる。ソリッドが来るだろうここを無に帰すことはできる。
戦い方を知らぬ自分がそれをすれば、おそらく犠牲が出るだろうが。
それはアリアも、そして自分も、望まぬことではある。比べるものではないとわかっている。
しかし。
アリアの心とソリッドの命。それを守るためになら。
その責も、その罪も、すべて自分が負えばいい――。




