離れゆく手
「いただきまーす!」
「いただきます」
満面の笑みで朝食を食べ始めるアリアとそんなアリアを気にしながら食べるライル。
ここに来て五日目の朝ともなると、なんだかもう見慣れてきたなと思いながら。ソリッドは嬉しそうに食べるふたりを眺める。
あと数日だけここに残すと決めた日からも、ふたりは何も変わらなかった。
自分たちの意思でここにいると言い切ったその言葉通り、家や家族を恋しがることもなく、もちろん自分たちを怖がることもなく。一昨日の朝に一度だけ、アリアがいつかのような寂しそうな顔で空を見上げていたが、すぐにいつもの様子に戻った。
むしろ変わったのは自分たちの方で。自分もヤトもすっかり毒気を抜かれてしまい、頼られ振り回されることすら嬉しく感じる始末。すっかり兄貴ヅラだな、なんて、熱いものが苦手なアリアにはわざわざスープを冷まして出しているヤトに言われたくはないが、否定しきれないことはわかっている。
間違いなく、故郷を出てから今までで一番穏やかで幸せな日々。
何も考えないように。何も感じないように。諦め手放したものを惜しむことにも、かつての選択を悔やむことにも疲れ果てた自分には、もうそうするしかなくて。しかし生きることだけは諦めきれずに意味もない命を惜しんできた。
流され落ちた先ではあったが、ヤトと出会え、そして―――。
この先どうするかを、ヤトと話した。
自分の提案に反対するヤトだったが、自分も探す振りをして逃げるからと説き伏せて、ようやく受け入れてもらった。
もちろん逃げはせず、バレるまで追手を振り回してやるつもりだ。
その間にアリアとライル、そしてヤトと姉が安全な場所まで逃げられるなら、こんな自分の命だって惜しんできた甲斐があるというものだろう。
その決意を労うような、幸せな時間。
とうの昔に忘れてしまっていた輝きに照らされ、温められ。湧き上がる庇護欲に自分にもまだこんな感情が残っていたのかと驚きながら、落ちきっていなかったのかと嬉しくも苦笑う。
それでも、いつまでも、と願うことはしない。
ふたりがいるべきはこんな自分の傍ではないのだと、ちゃんとわかっている。
わかってはいるはずなのに。帰すのが少し、遅くなってしまったけれど。
向けていた視線に気付いたアリアがにこりと微笑む。
「美味しいね」
嬉しそうなその顔は、普通の子どもでしかないのだが。
「ああ」
ゆっくり食べろ、と言ってしまってから、未練がましい己を嘲笑する。
ともに過ごすのはこれが最後。
『回収』が来るのは三日後。
眩く温かな光。
手放さなければならない時がきた。
朝食後、外に出たアリアをライルが追う。
「アリア」
声をかけられ振り返ったアリアは、走り寄ってライルにしがみついた。
「…来ちゃったね」
自分たちがここへ来て以降、遠巻きに様子を窺っている気配には気付いていた。捕まえられているのではないと示すために小屋の外に姿を見せていたが、結局それ以上近付いてくる様子はないままで。
しかし、今近付くのは明らかにそれ以外の気配だった。
「…ふたりとも、大丈夫かな」
心配そうに呟くアリアに、ライルは困ったように小屋を見る。
「ふたりとも優しいから、気にしちゃうだろうけど」
「そうだよね…」
ふたりが纏う黒い影のようなものは日を追うにつれ薄れてはきたが、時折思い出したように存在感を増すこともあった。
「どうしたらわかってもらえるのかな」
それは生来彼らが抱えるものではないのだと。本当なら簡単に振り払えるものであるはずなのだと。
龍の眼から見て誰よりも好ましいと思えるような、そんなふたりであるのだと。
「アリアにはあと何ができるかな…」
この先の自分たちの無事と、彼らへの親愛。それを示す方法。
何かないかと必死に考え、思いついたひとつの行動。
「…ライルお兄ちゃん…」
「アリアがいいなら、いいよ」
真意がいつか届けばと、今は願うことしかできなかった。
小屋の中、テーブルを挟んで向かい合ったソリッドとヤトがこれからの動きを確認をしていた。
アリアとライルにはまだ話していないが、今日これからヤトがふたりを連れてここを離れる。
「お前も逃げろよ?」
「わかってるって」
作戦を呑んでくれて以降もう何度目になるかもわからないやりとりも、おそらくこれで最後。何かを堪えるように眉を寄せたヤトが、ソリッドの肩を強く掴んだ。
「…逃げて、請負人になれよ」
できるわけないだろと言いかけて、あまりに真剣なヤトの眼差しに口を噤む。
「俺も宿場町の食堂で雇ってもらうから。そしたらそのうちどっかでまた会えるだろ」
別れるのはアリアとライルとだけではない。上手くいってもいかなくても、自分たちももうこれきり会うことはなくなるのだ。
もし無事に逃げられたとしても自分たちが普通に暮らせるはずもないことは、ヤトだってわかっているはずで。
それでも渡された言葉は、ただ心から自分の無事と再会を願うもの。
もしかすると自分の覚悟は気取られているのかもしれないと、そんなことを感じながら。自分を見据えるヤトに、内心の礼とともに苦笑を返す。
果たされるとは思えない約束をするのはガラではないが。
それでも、今は。
「…わかったよ。また、どっかでな」
叶うとも思えない未来を胸に抱き。
力に変えることができるなら。
扉が開き、外に出ていたアリアとライルが帰ってきた。出立を促そうと、ソリッドとヤトが立ち上がる。
「ふたりとも―――」
「アリアはね、ふたりのことが大好きになったよ」
アリアの突然の報告に、ソリッドは続く言葉を失った。
「初めに思った通り、ふたりはとってもいい人。一緒にいたら嬉しくなるの」
傍に来たアリアはにこにこと自分たちを見上げ、さも当然のように告げてくる。
「…何をいきなり……」
呆然と見返すだけのソリッドに代わり尋ね返すヤトに、アリアは微笑みその金の瞳を向けた。
輝きが増したような、そんな錯覚。
見つめるそれは幼子のそれではない、見守るもののそれであるのに。
じわりと滲む汗に、アリアを見たまま動けなくなる。
眼下の少女は恐ろしくも悍ましくもないのに、恐怖に似た何かに身が強張って目が逸らせない。
微笑むその少女はどこまでも愛らしく、それなのに瞳に浮かぶのは包み込みような慈愛。
固まるヤトと呆けるソリッドに、張り詰める空気を緩めるように吐息をついて。
「アリアはね、ホントはアディーリアっていうの」
「僕はユーディラル。ほかの人の前では口に出さないでね」
違う名を名乗ったふたりはどこか嬉しそうな表情のまま手を伸ばした。ソリッドとヤトの手を取って、小さなその手でぎゅっと握りしめる。
「ここに来たのも、これからのことも。アディーリアたちが自分で決めたことだから、心配しなくて大丈夫だよ」
「僕たちはふたりのことを信頼してる。…どれだけ信頼してるかは、きっとそのうちわかるから」
見つめる二対の金の瞳に先程までの圧はなく、ただ穏やかに向けられていて。
「僕たちは自分たちで帰ることができるから。ふたりも自由になってね」
「今までありがとう。アディーリア、ふたりなら大丈夫だって信じてるよ」
手に伝わる温かな感触に、ソリッドとヤトははっと我に返る。
「さ、さっきから何言って…」
「ほんとはってどういう―――」
問われる言葉の途中で手を放したアリアたちが振り返った瞬間。
乱暴に小屋の扉が開かれた。
入ってきた見覚えある男の姿に、ソリッドとヤトが瞠目する。
大柄なその男は場の四人を一瞥ずつし、あとから入ってきたふたりに指示を出した。
「そいつらか。連れてくぞ」
ズカズカと踏み込んできた男たちに、アリアとライルが手首を掴まれる。
「まっ―――」
見上げる視線に気付いたソリッドの言葉が途切れる。窘めるようなアリアとライルの眼差しに、それ以上言葉が継げない。
黙り込むソリッドたちにそれでいいとばかりの笑みを見せ、抗いもせず連れていかれるふたり。
「ご苦労だったな。片付けてから戻れ」
最後に残った男がそう告げてから小屋を出る。
ばたりと閉まった扉。
立ち尽くしたまま、動けなかった。
 




