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満仲様の終活 ー 摂津源氏物語集(1)ー  作者: クワノフ・クワノビッチ
3/3

レッツ 極楽へ!

何とか間に合いました。

これで完結です。宜しくお願いします。

 

 二度目の襲撃は、失脚した源高明(たかあきら)に仕えていた者達の仕返しに違いない。

 ……満仲様はそう思っている。


 この事件の四年程前のことだ。花山天皇の父である冷泉(れいぜい)天皇の後継者選びが問題になった。

 冷泉帝は体か弱かったということで、在位期間二年程で退位することになったからだ。

 だが、次の後継者になるはずの肝心の皇子は幼すぎたので、結局、帝の同腹兄弟を後継者にすることになった。

 兄である(ため)(ひら)親王と、弟の(もり)(ひら)親王が候補者だったが、結局、まだ九歳にしかなっていない守平親王が立太子されたのである。

 因みに、守平親王とは後の"(えん)(ゆう)天皇"のことだ。

 守平親王の後ろには、当時、政治の中心をしっかり押さえていた藤原北家の人々がいたからだ。

 一方、為平親王は、守平親王より七歳も年上だったが、もう既に左大臣・源高明の娘婿になっていたので、もし即位したら、高明ら()()の影響が強くなると恐れていたのかもしれない。

 また、藤原氏の中でも、初めは為平親王の後ろ盾をしてくれる人達がいたのだが、度重なる不幸で亡くなってしまい、不利な立場になっていたようだ。

 そして、結局、帝の座は幼い守平親王に渡ってしまった。

 面白くないのは、源高明をはじめとする為平親王の支持者達である。

 そこで一つの事件が起きた。

 いわゆる安和二年(969年) の三月下旬に起こったと伝わる"安和(あんな)の変"だ。

 これは当時、朝廷で()(まの)(すけ) (朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった馬寮(めりょう)の次官)を務めていた満仲様や、前武蔵(むさし)(のすけ)・藤原善時(よしとき)が、

中務(なかつかさ)少輔(のしょうすけ)(たちばな)(しげ)(のぶ)右兵衛尉(うひょうえのじょう)源連(みなもとのむらじ)らが謀反を企んでいる 』

 と()()()()ことが引き金になって起きた事件である。

 本当に謀反が計画されていたのかは、今となってはハッキリ分らないが、とにかく右大臣藤原師尹(もろただ)、太政大臣藤原実頼(さねより)も知ることとなり、大事件に発展していく。

 やがて橘繁延や僧の蓮茂らが捕えられ、また、その関係者として武人としても有名な藤原千晴(ちはる)久頼(ひさより) 父子までもが捕えられ禁獄された。

 そして最後には、為平親王の義父にあたる左大臣・源高明まで疑われることとなり、事件は高明が()()()の員外権師に左遷、つまり配流(はいる)(流刑)にされることで終わったのだった。

 しかし、ここで問題なのは、源高明も満仲様も、実は親戚のような存在だったことだ。

 満仲様の嫁と高明の母は、おば(伯母か叔母かはわからないが)と姪の関係だった。

 もし、本当に謀反が真実だったとすれば、これでは()()()()()()ような話になってしまう。

 だが、源氏という姓を名乗る人々を集団で考えてみると、必ずしも一枚岩ではないのだ。

 帝という父方の血では繋がっているかもしれないが、母方では、身分や後ろ盾の力関係が微妙に違う。見方を変えれば、立派なライバルだからだ。

 そこで、満仲様は敢えて藤原氏に付くことを選んだのかもしれない。

 先々のことを考えると、既に後援者を失っている為平親王や高明に付くよりは、北家にガッシリ支えられている守平親王に()()()方が良いと判断したのではなかろうか。

 それに、高明を出し抜くことで、源氏の中ではトップになれる可能性があるのでは?!

 ……そんな目論見があったのではないかと思えてくるのだ。

 しかし、それは同時に満仲様に()()()()のレッテルを貼ることになった。


 ふん、……ここぞという時に、勝負をしない者など()れ者ではないか?

 我は当然のことをしただけじゃ!

 気の強い満仲様は、周りの声などは無視して、自分の信じる道を歩んできたのである。


 だが、現実はそれほど甘くない。

 天延元年の襲撃では、満仲邸だけではなく、多くの家が燃え、沢山の人々が焼け出されたからである。

 ただ一つ、不幸中の幸いだったのは、満仲様には"先見(せんけん)(めい)"のようなものがあって、何か大きな英断を行う時には、必ず準備を(おこた)らなかったことである。

 ちょうど"安和の変"の後ぐらいからか、満仲様は国司としてよく知った摂津国に自分達の()のようなものを作っており、そこに活動拠点を移していたからだ。

 そこでは新しい国造りの為に、家族を失った人々や子供達も受け入れることができたのではなかろうか。

 そしてとにかく、帝や藤原氏に気を使う必要がない。

 そんな理由から、多田の地は、満仲様の一族(摂津源氏)が栄える為の"理想の王国"になりつつあった。



 翌日の()の時(午後十時頃) には、以前から造ってあったが供養してなかった御釈迦様(おしゃかさま)の像や、写経等の準備ができた。

 そこで、いよいよ午未(ごび)(午後一時)頃に、寝殿の南面に仏の絵像を掛け、御経を全部並べて置くと、供養が始まったのである。

 そして、供養の後には院源君(いんげんくん)の説教があった。

 まだ、この頃の院源は若かったはずだが、後に多くの権力者達の出家に立ち合い、高名な僧になる。

 実は、この人自身も平家の血を引いていたが、幼くして父を亡くし、比叡山で僧侶になっていた。

 そのせいだろうか、説教を聞いているうちに、満仲様が感極まって声を上げて泣き出したのである。

 源氏、平氏の違いがあるとしても、同じ武門の人間として生を受けた苦悩のようなものが伝わったのだろうか。

 すると満仲様だけではなく、一緒に説教を聞こうと、後ろの方に集まっていた家来や従者らも泣き出す。彼らは皆、屈強な武者なのに()()()()()()である。


 と、まぁ、こんな具合に、 『今昔物語集・第十九巻四 摂津(せっつ)(のかみ)源満仲(みなもとのみつなか)出家語(しゅっけすること) 』 には、説教に感化されて泣きだす男達が描かれているのだ。

 冷静に考えると、泣いている強面(こわもて)のおじさん達なんて、絵的に恐い気がするのだが、それだけ、院源君の話が心に染み入るものだったのだろう。

 いよいよ、これを機会に満仲様は出家する決心を固めたのである。

 それでも人の心は移ろいやすい物なので、出家は日を改めた翌日にすることになった。

 そこでその夜は、満仲様が()()として過ごす最後の夜と、郎等達は弓矢を背負い甲冑(かっちゅう)を付け、多人数で館の周りを囲み警固したという話である。


 翌日、満仲様は()()()出家した。

 そして、それと同時に、沢山の生き物が解放されたのである。

 鷹や鷲も野に放たれ、川に仕掛けられていた簗も壊してしまった。

 倉にしまっていた武具の類も燃やされ、満仲様に長年仕えていた親しい郎等らも一緒に出家したのである。

 すると、その妻や子供らも感極まって泣き出してしまった。


 多くの者達が感動しているせいで、小萩までもらい泣きしている。

 小萩の心の底に沈殿していた感情が、まるで引きずり出されるように涙が溢れ出た。

 ……実は、出家の道を選んだ惟成に離縁を言い渡されたものの、小萩は最初、納得できなかったのだ。そこで、食べ物や衣類などを用意し、改めて惟成に会いに行ったことがある。

 だが、そこには、もう別の女がいた。

 別の女、……というよりも、昔の妻、つまり"糟糠(そうこう)の妻"の姿があったのである。

 その(ひと)は、花山天皇の御代になる前、貧しかった惟成の生活をずっと支えていた人だった。

 以前、蔵人所(くろうどところ)雑色(ぞうしき) (天皇の秘書的なことをやる部署の雑用係という感じか? ) を務めていた頃の話だ。花見をする為に、各人が持ち寄りをしなければならなくなった。惟成は飯の担当になったのだが、食材を買う金がなかったので、この女は自分の髪を対価として支払ってまで食材を揃え、夫の顔を立てたそうだ。


 ……ちょっと痩せたかしら、でも良いお顔をなさっている。

 小萩は少し離れたところから、仲睦まじく会話している二人の姿を盗み見て、そう思った。

 ……なんだ、私の出る幕なんてないじゃない!

 そこで、悔しかったが、荷物だけを置いて逃げるように去ったのである。


 元を正せば、惟成と元妻を別れさせ、小萩を妻の座に捻じ込んだのは満仲様だった。

 確かに、身分がそれほど高くなくても、花山帝の信頼が厚く、優秀なだけでなく度胸も充分にある惟成は、満仲様の()()()()()だったからだ。

 だからといって、……やり過ぎではないか!

 そう思い、小萩も惟成との関係について悩んだこともあった。

 だが、惟成自体は誠実で優しい人だったので、やがて小萩は本当に惟成のことが好きになっていったのである。

 とはいえ、それも花山帝の出家で終わりを迎えるのだった。

 ほんの一年程の短い夫婦生活である。

 ……今となっては良い思いである。……の、はずだ。


 大勢の者達と一緒に泣いている小萩の姿を見て、満仲様は内心、安心した。

 いつも気丈に振る舞っている小萩の姿を見ていると、何だか他人行儀でそれはそれでいたたまれない。

 だが、満仲様も()()()()後悔はしている。

 ……惟成が、帝と共に出家するほど()()()()()とは思っていなかったからだ。


 小萩よ、そなたを娘として育てたつもりであったが、結局、親らしいことはできてないようじゃ、……そなたのような()()が幸せにならねば、我は成仏できまいよ!


 今まで、超強気で生きてきた満仲様だが、この時ばかりは殊勝な気持ちになったのである。


 さて、満仲様の出家は無事に済んだが、時間の経過とともに、また昔のような生活に戻ってしまっては元も子もないだろうと、比叡山の僧達は、立ち去る前に粋な(はか)らいをしていった。

 これからも仏道に精進するようにと、満仲新入道は、極楽から迎えが来る時の様子を顕している"来迎仏(らいごうぶつ)"の行列を見せてもらったようだ。

 これは、あらかじめ菩薩(ぼさつ)様の扮装をした者達が、笛や(しょう)の音楽に合わせて練り歩くもので、信仰の深い人の臨終には、菩薩達が迎えに来て、阿弥陀仏(あみだぶつ)が待つ極楽に導いてくれる。という情景を再現しているそうである。

 現在でも、奈良の當麻寺(たいまでら)で行われている 『(ねり)供養会(くようえ)』 等はかなり近いのではなかろうか。


 新入道は、金色の菩薩が金の蓮華(れんげ)を捧げ持って静々と近づいてこられるのを見て、感動し過ぎたか、驚きのあまり縁側から転げ落ちるように庭に下り、拝んだそうである。


 その時、満仲様は、

 我は案外、……極楽に行けそうじゃな!

 と、天性の勘で思ったかもしれない。

 何といっても、満仲様は強運の星の下に生まれた人なのだ。


 その後、充分に出家生活を満喫することができたのだろうか?

 おそらく当時の人としては、とても健康に恵まれていたのだろう。

 満仲様は、入道になってからも十年以上経って亡くなったのである。


  ― 完 ―

今昔物語の話を基に書きましたが、他にもいろいろと見つけた資料をぶち込んで? みました。

良い意味で、武士の黎明期に注目が集まるといいのに……と、思いながら書きました。

もちろんフィクションです。宜しくお願いします。



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