119.暗い手
「即興小説トレーニング」にてお題を頂いて書いております。
お題:暗い手 必須要素:自動車保険
随分と呑みすぎたせいで足元がおぼつかないクマタニ。なんとか最寄り駅で降りたのはいいが、ここからまた十数分かけて歩かなければならない。
眠気と吐き気を精一杯堪え、クマタニは一歩ずつ重心を崩しながら進んでいった。
「……ですか」
不意に、後ろからか細い声が聴こえてくる。しかしクマタニは振り向くこともせず帰路へと向かっていく。
声に気づいていないわけではないが、今の状態で返事しても良い方向に左右しないだろうと判断した結果だ。泥酔しているときに絡まれてしまったときの対策法は無視に限る。クマタニなりの経験則である。
「あの……せんか」
まだ背後から人の気配がするも、気にせず歩き続けるクマタニ。
ここで振り向いて「何見てんだコラ!」とイチャモン付けられて金を取られてしまっては元も子もない。徹底無視を心がける。
「……だけでも、あの」
千鳥足の人間にそこまでの声掛けをする必要はあるのだろうかと、クマタニはついつい笑いがこみ上げてくる。
ここまで執拗に声をかけられてしまうと無視するのもいささか心苦しい。だが、けして関わろうとしない姿勢だけは貫いた。
「お願い……どうか、入りませんか?」
徐々に声が近くなるのがわかる。小さな声でもだんだんと聞き取れてくる。
それでもクマタニは反応しない。意地でも無反応を装った。
だが――
「あの、話だけでも」
がしっと右手首を掴まれると、さすがのクマタニも動揺した。
思わず掴まれた部分に視界を移す。 街灯は辺りにないため、暗い手がぼんやりと映っていた。
しまったとクマタニは後悔する。まさかこんな酔っ払いに対して積極的に捕まえてくるとは思いもしなかった。
もはや酔いも醒め始めているクマタニは、観念したようにおそるおそる振り返ると。
「あの、自動車保険に興味ありませんか?」
黒いスーツを着た、涙目の女性がそこにいた。
「……車、持ってないです」
そうしてセールスは終了した。
なにこれえ。
久々?のヤバい回。




