第零話
いつからだろう、『自分が生きていることは間違いではないのか』と思い始めたのは。
いつからだろう、その思いが、考えが、『自分以外のすべての人は間違っている』という思いに、考えにすり替わっていったのは。
歩道を歩いている時、周りの人逹が自分を見下し、蔑むような目で見ているように思える。
家族は僕を励ましてくれるが、それは表面的なことで、心の奥底では僕を恨み、罵倒したい気持ちを必死に抑えているように思える。
友達は今では僕の気持ちを気にしてか、誰一人として必要最低限にしか話さない事が、僕がいない人、無視するべき人、腫れ物のように扱うべき人と認識されているように思える。
そして、この世界のどこにも自分の居場所がないように思えてくる事を自分は否定できなかったばかりか、肯定さえしてしまいそうになった。
だからだろう、赤の他人は憎悪するべき対象に見え、家族の言葉すら煩わしく、友達だった人もいつしか憎き仇のように思えてきた。
そうなると後は済し崩しに考えが広がっていった。この世界に生きる全ての人が僕を否定し、馬鹿にして嘲笑や阴笑をしている考えが。
そんなことはないと心の底ではわかっていても、この”忌まわしい”考えは僕の心に巣食っている。
その”忌まわしい”考えは常に僕の頭の陰にへばり付き、ふとした拍子に表に現れ出てくる。
まるで、僕を蝕むようにして、この”忌まわしい”考えが現れ出る頻度は上がり。頭にこびり付くようにして、延々とこの”忌まわしい”思考が繰り返される。
只、唯一の救いはこれまでこの”忌まわしい”思考によって普段の生活を送る上で失敗をしていないことだろう。
逆に言えば”まだ”失敗をしていないだけであって、これからこの思考によって僕は失敗をする恐怖に怯えなければ成らないような心持ちになった。
もしも、もしもだが一度でも失敗してしまえば僕の精神は崩れてしまうかもしれない。今でさえ失敗する恐怖を抱えて生活をしているというのに。
恐怖、失敗した時の恐怖、他人から批難の目で見られる恐怖、失敗した時『何故できないのか』と問われる恐怖。
嘗てしてしまったことから、僕は失敗にして恐怖を持っている。行動をした後に起きるであろう取り返しのつかない失敗の数々が。
二度と僕はあの気持ちに成りたくない。いつしかその気持ちは膨れ上がり、失敗を批難するものが悪いと思うようになった。
その恐怖は『自分を責めるものが悪い』『自分を認めないものは悪い』『自分以外の全ての人は憎むべき対象だ』という考えになるのを助長させることになった。
けれどある時、そんな”不誠実”なことを考えている自分が嫌でいなくなりたくなった。
『人とは自分に劣等感を多かれ少なかれ持っているものである』という考えを知るまでは。
それは一種の開き直りに近いものだとわかっていてもそれ以外に自分が縋り付くものはないと思ってしまったから。この考えに僕は感化された。
だから、僕が他人に対して険悪な思いを抱いてしまうのは普通であると思っている。
そう、今の僕にとって全てが憎らしく、煩わしく、忌むべきものとなっていることも人として当たり前のこと。僕は普通である。何一つとして間違っていない。
そのはずなんだ。僕は普通なんだ。