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3.

 マスターが戻ってきたとき、あんなにも激しく降っていた雨はいつの間にか止んでいた。

 外はすっかり暗くなっていて、森の輪郭がぼんやりと見えるだけだ。一体どうやって帰ろうかと苦笑しつつ、いっそのこと、このままどこかへ逃げてしまおうかと、昏い考えがよぎった。


「重ね重ね待たせてしまって申し訳ない。できたよ。これが、君のためにつくった神さまだ」


 そう言ってマスターが差し出したのは、一枚の絵だった。まるで古いお伽噺の挿絵のような美しい絵にはっと息を飲む。


 囚われの人魚。

 ――その絵を見たとき、最初に感じたことは、不思議なことに、希望だった。


 壜がある。そして、その中には小さな海の世界が広がっている。中央にはごつごつした岩の台座があり、人魚が星を仰ぐように腰かけている。


パンジーの花のような柔らかい薄紫色の胸当てをしていて、尾びれは同色からミントグリーンへと不思議なグラデーションを描いている。額に垂れるようにかかっているティアラは星をモチーフにした繊細な作りで、その華奢な身体によく似合っていた。


 彼女は壜の中に囚われているのだとひと目でわかった。それでいて、悲痛な様子は見えない。腰まである巻き毛の髪はやわらかい花の色をしているのに、硝子のような質感の赤い瞳は凛としていて曇りがない。なにかと戦っているような、決意しているような、そんなまっすぐな目だ。



「彼女の名前はメル。フランス語で海のことをメールというそうだ。それをもう少し愛称っぽくしてみた。――どうだろうか?」


 令佳は言葉を失っていた。絵に魅入られていたのだ。不思議な感動が身のうちにあった。


 ややあって「ありがとうございます」と、それだけ絞り出した。

 マスターは少し不安そうにしていたが、野々花には伝わっているのか優しげな眼差しを令佳に向けているのがわかり、令佳もまたくしゃりと顔を歪めるようにして笑った。


「よし、それじゃあ晩ごはんにしましょう」


 野々花が手を叩くと、マスターがカウンターの中に戻る。


「今日はナポリタンです。喫茶店っぽいでしょう?」

「あの、私……」

「よし、先にお会計済ませちゃおう。夕飯はまかないだから要らないよ。神様作りワークショップ500円……」

「――私、帰ります!」


令佳は、千円札を一枚出して言った。


「え! ごはんは?」


 野々花が弾かれたように顔を上げる。その表情は心底残念だと言ってくれているようで、申し訳なさと、嬉しさが芽生えた。けれども、令佳は首を振った。


「もう暗いですし、家はここから遠いんです。自転車で数時間はかかると思います。それにこれ以上ごちそうになるわけには……」

「――あのね、レイちゃん。私たちもね、誰にでもこうするわけじゃないんだよ。あなたはすごく傷ついてるよね? このまま一人にしたら危うい感じがするよ」


 野々花は、これまでのふわふわとした雰囲気からは信じられないくらい、強い視線で令佳を見据えていた。


「ごはんのお金は気にしなくてもいいし、おうちまで私たちが車で送ってあげる。絶対に悪いようにはしないから。初対面だけど、知らない相手だからこそできることもあると思うんだ。――だからね、少しだけ待っててくれる? 温かいものでお腹を満たして、お話しして、それからゆっくり帰ろう?」


 それから彼女はふわりと令佳を抱きしめた。そうして背中をさすってくれた。

 知らない人に抱きしめられているというのに、いつの間にか、瞳がうるうると熱くなって、後からあとから涙が溢れた。





 ひとしきり泣いたあと、野々花は「私もマスターを手伝ってくるね」と言ってカウンターの中へ入っていった。


「あ、レイちゃん、スマホを見ないようにしてたでしょう? 帰りは遅くなると思うから、ご両親にメールだけでも送っておくのよ」


 野々花の言葉に、渋々頷いた。ほたるは何も言わず、こちらに背を向けて、作業を続けている。




 令佳は、マスターが描いてくれた絵を手に取った。囚われの人魚・メル。――わたしの神様。


 彼女はどんなふうに話すだろう? きっと、凛とした気高い性格だ。お嬢様のような喋り方だろうか。声は高すぎず低すぎない、硬質で、でも、きっと耳障りの良い声だと思った。


(メル様、――メル様。)


 令佳は、心の中で云った。


(家に帰るのが怖いです。両親にどう言われるのかを考えると不安で、胸がぎゅっと締め付けられるみたい。あと、学校にも行きたくない。無視されるのは悲しい。人が不快に思うような発言をしてしまった自分が、恥ずかしい)


 紙の中のメルは微動だにしない。でも、彼女に語りかけてみて初めて、令佳は、自分の中にさまざまな感情があったことを知った。怖くて、不安で、悲しくて、恥ずかしかったのだと。


 不思議なもので、自分の抱えていた感情の輪郭が見えてきたら、どう動けばいいのか、そのヒントがわかってきた。


 不安だけれど、両親にぶつかってみるチャンスかもしれない。これまで辛かった。心の内を伝えて、それでもどうしても無理だったら、両親から離れる方法を探してみよう。留学だとか、今は無理でも、遠くの街へ進学するとか。


 学校のことも考えた。不快な言動だったことは謝ろう。でも、友だちだから、できれば事情は知ってもらいたい。わかってもらえないかもしれない。でも、まずは伝えてみるべきだ。


 ここまで思い至ったときには、ずいぶんと心が凪いでいた。




「レイちゃん、こっちにおいで!」


 そのとき、野々花に呼ばれた。

 ほたるの隣に腰かけると、目の前に湯気を立てる鉄板が置かれた。


 一番下にオムレツがあるのが新鮮だった。その上に、ケチャップがたっぷりかかってつやつやとしたナポリタンが乗っている。具はウインナーと、玉ねぎと、ピーマンだ。甘酸っぱいにおいに食欲を刺激されて、お腹が盛大に鳴った。


 隣から笑い声がして見てみると、ほたるが年相応の顔をして笑っていた。

 4人で他愛もない話をして食卓を囲んだ。そして、家まで車で送ってもらった。





 令佳はほたるの隣で小さくなっていた。決意はしたものの、やはり不安な気持ちがむくむくとよみがえってきて、息苦しさを覚えていた。

 すると、ほたるが令佳の膝に何かを乗せた。


「やるよ」


 それは、金色のビーズで作られた、小さなティアラだった。マスターの描いてくれた絵で、メルがつけていたのと同じデザインだ。


「お守り」

「――いつの間に?」

「どうでもいいだろ。俺は手先が器用なんだ。次に来たとき、気が向いたらもっとすごいのを作ってやってもいいよ」


 ぷいっと横を向いて言うほたるが可愛くて、令佳は思わずほほえんでしまった。


「小さいのに偉いね、ありがとう」


 令佳がそう言うとほたるはかっと目を見開いて「4月になったら俺は中学生だ!」と怒鳴った。


「おチビなのを気にしてるのよねぇ」

「男子は中学から伸びることもあるから大丈夫だ」


 ふたりのフォローは、かえってほたるを不機嫌にした。




 あんなにも長い距離だったのに、車だと半分以下の時間で着いてしまった。令佳はくっと浅く息を吸って、車から降りた。

 ほたるは先ほどまでぷりぷりと怒っていたものの、今は気遣わしげにこちらを見ている。そんな彼にひらひらと手を振って、インターホンを鳴らした。鍵を持っていなかったからだ。


 家の庭には珍しく灯りがともっていて、第三者がいるときの顔を貼りつけた両親が大仰に心配して出迎え、野々花やマスターに何度もお礼を言っていた。


 でも、視線の端では令佳を冷たく捉えていることにも気づいてしまい、向き合おうという決意が少しゆらぎそうになった。



「そういえば、八木沢さんは、会社を経営されているとか。お名前を聞いて、もしかして取引先ではないかと思ったのですが――」


 ふとマスターが切り出す。

 父の会社は喫茶店と関係しているだろうか? と思っていると、父もまた怪訝な顔をしている。


「あ、失礼しました。私は黄金崎泉と申します」

「――まさか、黄金崎グループの……?」


 父はみるみる顔を青ざめさせていった。令佳でさえ、その名前は聞いたことがある。マスターの家は、県下有数の名家だったのだ。この家に睨まれたらこの土地ではやっていけないというくらいには。


 そういえば、この店は趣味でやっているのだと、ほたるが言っていなかったか。


「ご息女が妻に大変よくしてくれましてね。もしよかったら、これからも定期的に遊びに来てほしいのです。妻も喜びますし。妻はこちらの出身ではないから、年若い友人ができて喜んでいるのですよ」


 自分よりもずっと年若いマスターに、父は媚びへつらっている。母もまた愛想笑いを浮かべている。――その背中を見て、この人たちは、こんなに小さかっただろうか、とふと思った。


 呆然としている令佳に、野々花が片目をつむってみせる。

 そうして気がついた。この人たちは、令佳が「壜」の中から出られる時間を増やそうとしてくれているのだ、と。


 初対面の令佳にこんなに心を砕いてくれた人は初めてで、春の夜気が刺すように冷たいのに、胸のうちには温かさが広がっていくのを感じた。






 ――あれから十年が経ち、令佳は26歳になった。

 悲しいことも、憤ることも、もちろんたくさんあった。そのたびに令佳を救ってくれたのは、自分のためだけにある小さな信仰だった。


 神頼みはしない。でも、自分の中にあるちょっとしたわだかまりを、メルという名の神様といっしょに考えていく。きっと、これからも。





「何をぼうっとしてるんだ」

「ほたるくん」


 令佳は、隣に立つ青年を見上げた。4つ年下の男の子は、今ではぐんと背が伸びて、精悍な青年になっていた。


「綺麗だね」


 二人は、令佳があのとき思い浮かべた海に来ていた。砂浜に腰を下ろして、水平線に溶けていく夕日に目をやる。

 空の色は、メルの髪の毛のような美しい色をしていた。


「――やるよ」


 ほたるは、やや上ずった声で言うと、令佳の膝になにかを乗せた。それは美しい硝子の小箱だった。

 開けてみると中に指輪が入っている。メルのティアラを模した、星飾りのついた繊細な指輪が。


「け」

「――け?」

「結婚してやってもいいよ」


 あの頃と変わらず素直じゃないところのあるほたるが可愛くて、令佳は、思わず彼にしがみついた。



 もう神頼みはしない。でも、自分の中にあるちょっとしたわだかまりを、メルという名の神様と考えていく。そして、この愛おしい人と生きていく。


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