1.
令佳は透明になった。
それは、嫌味なくらいに晴れた朝の、教室でのことだった。
「おはよう」
いつも通りに声をかけたはずだった。ところが、誰とも目が合わない。波が引くように令佳の周りから人がいなくなっていく。
その不自然さから、誰もが気づかないふりをしているのだとすぐにわかった。うつむいたままの理月、ばつが悪そうな顔をしている葉菜、いい気味だというように口の端を歪めたチハル。
昨日の失言が原因だったのだろうか。――でも、たった、あれだけのことで?
幼稚園も、小学校も中学校も、令佳はずっと皆勤賞だった。遅刻も早退もしたことがない。
絶対に休まないこと。それは、厳格な両親に決められた約束事だった。
それなのに、気がつくと自転車に飛び乗って、校門を抜け出していた。――あれは、昼休みが終わる前だっただろうか。とにかく必死だったから、ほとんど記憶がない。
制服のポケットには財布とスマホ。それ以外のものは何も持っていなかった。何かに追い立てられるように、一度も振り返ることなく、ただペダルを漕ぐことだけに集中した。目的地を決めることも、地図を調べることもせずに、どこに向かうのか知らないまま。
そのとき令佳の中では、爆発が起きていた。自分なりに頑張ってきたつもりだった。でも、どうして何もうまくいかないのだろう。いつでも息苦しいのだろう。神様がいるなら、どうか、助けてほしい。
そこまで考えて、令佳は自嘲した。わかっている。神様なんかいないのは。
けれども、怒りや悲しさといった負の感情だけではないのが不思議だ。
呼吸が深く抜けたときのような、開放感があった。とんでもないことをしでかしたというのに、ほっとしていた。
どれくらい走ったのだろうか。
ふと我に返ったのは、鼻先にぴちゃんと雨のしずくが落ちてきたからだった。
朝は、あんなにも晴れていたのに。ソーダ水のように透明な空だったはずが、見上げると空の端のほうから少しずつ黒くなっている。
どこか雨宿りできる場所を、と辺りを見渡したものの、田んぼの間にぽつりぽつりと民家があるだけだ。駅もなければコンビニも見当たらない。
いくらも経たないうちに、雨脚がだんだん強くなってきた。肩を濡らし、涙のように頬を伝い、前髪がぺたりと額に貼り付いている。
令佳はだんだん焦りはじめていた。
どこにいっても雨をしのげそうには見えないし、なにより、体がどんどん冷たくなってきた。日中は暖かいから、すっかり忘れていたけれど、まだ春にはなりきっていないのだ。
ふと、こんもりと木が繁っている場所が目についた。山の裾野で、右手のほうに「一夜ヶ池」という看板が見える。
聞いたことがある。そこには確か、湖を囲むような深い森があるのだとか。紅葉が綺麗で、その時期に訪れる人が多いけれど、穴場だと。――もしかしたら、四阿のような、とりあえず雨だけでもしのげるような場所があるかもしれない。
まだ夕方でもないというのに、空はすっかり暗くなっていた。
令佳はこわごわしながら入り口をくぐる。濡れた制服がずっしりと重たく、いやなべたつきがあった。
とにかく進むしかないと、遊歩道に沿って自転車を進めていく。
ややあって、園内の案内図を見つけた。食い入るように見つめても、四阿があるのかはわからない。これ以上進まずに、戻ったほうが良いのだろうか。
そう思って立ち去ろうとしたときだった。空が爆発したように一瞬明るくなった。その一瞬の光が、案内図の柱の陰に隠されるように貼り付いている紙を令佳に見つけさせた。
「喫茶、……ロガール?」
凄まじい破裂音が響いた。きっと遠くで鳴ったであろう雷だったが、令佳は思わず身をすくめた。
屋外で雷に当たらないためにはどうしたらよかったのだろう。テレビでなにか言っていたような気がするが、正解が思い出せない。令佳は、とりあえず、この店を目指してみることに決めた。
喫茶ロガールは、ここから反時計回りに進み、湖のそばの石像を森側に進んだところにあるようだ。
喫茶店なら、暖を取れるかもしれない。歯の根をカチカチと鳴らしながら、令佳は考えた。
そして、雷がいつ来るかと怯えながらも、自転車を奥へ、奥へと進めていった。
数分後、令佳は森の中で立ち尽くしていた。喫茶ロガールは、木の上にあったのだ。
森の少し開けた場所に、双子のような二本の太い木が生えている。片方の木をぐるりと囲むように建物がついており、もう片方の木へとテラスが伸びていた。そして、テラスと地面をつなぐ、木製のしっかりとした階段があった。
どうしたものかと考えていると、カランカランという音とともに、喫茶店の扉が開いた。
そして、頭上から、間延びした声が降ってきた。
「ねえ、君。だいじょうぶー?」
濡れた前髪を、拭うようにしてかき上げると、階段を降りてくる女性が見えた。
その人は、リラの花の色のぴったりとしたニットに、花の刺繍が施されたクリーム色のエプロンをつけていた。足首ほどまである長いスカートは、彼女が歩くたびにふわりふわりと揺れていた。
どうしてだか眩しく感じて、薄目を開けて見てみると、年上なのだろうが、可愛らしい印象の女性が、淡い紫色の傘を私の頭に差し出していた。
「おきゃくさんでいいのかな?」
やや舌足らずな感じで彼女が言う。
令佳がぼんやりとうなずくと、彼女の顔はぱあっと明るくなり、花がほころぶように笑顔を見せた。
「ずぶ濡れだねえ、ちょっと待ってね、すぐにタオル持ってくるから。――あ、とりあえず入って」
彼女はそう言うと、令佳の手を引いた。令佳はびくりと身体を硬くする。他人に触れられたのが、とても久しぶりだったのだ。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃったね。あたしは距離感がおかしいってよく怒られるの。でもね、今日は雨だから、この階段はちょっと危ないよ。エスコートさせてください」
歌うようにそう言うと、彼女はふたたび令佳の手を取り、ゆっくりと、時々こちらを振り返っては笑みを向けながら、カフェの入り口へと誘っていったのだった。
その手は華奢な女性らしい骨格をしていて、そして、ふんわりと柔らかく、温かかった。
階段を登り切って、下を覗く。下から見たときの印象よりも、ずいぶんと高いところにあるのだと感じた。
木から隣の木へと渡る通路では、きちんと足場も柵もあるというのに肝が冷えたが、彼女は気にせず慣れたふうにとんとんと進んでいく。
「ここで靴をぬいでね。すぐにタオルを持ってくるから待ってて」
そう言うと女性は、ぱたぱたと店の奥に消えていった。
「タオルと、あとね、これあたしの服だけどよかったら使ってね。見ての通り狭い店だから、――申し訳ないんだけど、着替えはお手洗いでお願いします」
そう言うと彼女は、手触りの良いふわふわのタオルと、とろみのある柔らかな素材のワンピースを令佳に手渡した。
小さなお手洗いに入ると、グレーや白、淡い紫といった色合いのモロッカンタイルが目を引いた。確かに狭いけれど、よく手入れがされた清潔な場所だった。
手洗いには、リラの花が飾られている。グレーにペイントされた木の壁には、シックな額縁があるのだが、そこには、これまで見てきたものとはやや不釣り合いな、大きな灰色の蛇の絵が飾られていた。
タオルで顔を押さえる。思っていた以上に身体が冷えていたらしく、温かく感じられた。お日さまのにおいと、花のような甘いにおいが混ざっていて、ふわふわと柔らかくて、それだけでも泣きそうになった。
しばらくそうしていたけれど、ややあって、濡れた髪の水けを拭き取り、服を脱いだ。疲れのせいか、身体中が重たい。手洗い台に一旦置いた制服は、絞れるくらいにじっとりと濡れている。きっと母を怒らせてしまうと、憂うつな気分になった。
タオルとワンピースの間には、ビニール袋とカイロが挟まっている。ふわふわとした見た目からは意外なことに、よく気のつく女性なのだと感心した。
着替えを終えて、お手洗いを出ると、甘いにおいが漂っていた。
「おかえりなさい」
女性がほほ笑む。
令佳はどきりとして、視線を伏せ、それから小さく礼を告げた。
店の中は、キッチンとその前にあるカウンター、そしてリビングのような空間という、小さな家のようだった。
「よかったらこちらにどうぞー」
女性が、窓のほうを指し示す。
先ほどは気がつかなかったけれど、息を飲むほど素敵な空間だった。
大きく取られた窓からは、森と湖が一望できる。まるで窓そのものが絵画のようだ。あいにくの悪天候だけれど、晴れた日だったなら、どれほど美しいだろう。
天井からは、イルミネーションのようにたくさんの電球が吊り下げられていて、クリスマスの夜のようにわくわくする感じがあった。
そこには、カフェらしいテーブルがない。かわりに、背もたれのない正方形のマットレスのような、とても大きなソファが空間を埋め尽くしていた。ふつうのソファの座面を二つつなげたような感じだった。
そして、窓のそばには、背もたれがわりなのだろうか、たくさんのクッションが並べられている。
座面に膝を乗せると、ぐっと身体が沈み込んでいくのがわかった。
「あの……、メニューはどちらに……」
令佳が訊くと、女性がキッチンカウンターからひょっこりと顔をのぞかせた。
「今お持ちしますねぇ。でも、今はマスターがちょっと出てるから、サービスであったかいのみものをどうぞ」
そういうと、彼女は木のトレイに乗せられたマグカップを運んできた。
「あの、――いろいろと本当にありがとうございます」
令佳は慌てて彼女に向き直った。
いろいろなことがあって、挨拶だとかお礼だとか、そういう当たり前のことがすこんと頭から抜けていた。
「ううん、気にしないでね。こちらこそ、マスターがいないから待たせちゃってごめんね。これはほうじ茶ミルクです。飲めるかな?」
「――はい」
ひとくち飲むと、びっくりするくらい熱くて、舌をやけどしそうになった。でも、香ばしくて優しい、とてもいいにおいだった。
ほうじ茶には、こういう飲み方もあるのか。令佳は感心した。
食事のあと、ほうじ茶を入れるのは令佳の仕事だった。いつからの習慣だったのかは覚えていないけれど、両親はそれを、花嫁修業だと呼んだ。
食事を終えたら、両親と自分の分の食器をひとりで下げ、すべてを手で洗う。とりわけ冬の冷たい水を使う時期は辛かった。幼いころから令佳の手はいつもひび割れて、クラスメートのそれとはまったく違う質感だった。そんな手を見られるのが嫌で、いつも目立たないようにしていた。
すべてを洗い終えたら、やかんに水を入れて湯を沸かす。その間に、食器を一つひとつ、水気の一滴も残さぬように拭き上げ、食器棚に一枚ずつ音を立てぬように片づけていく。
その間くつろいでいた両親のもとへ、まるで召使いのようにお茶を運んでいく。その後に続く“団らん”の時間が、苦痛だった。話題は勉強や生活習慣のこと、それから将来のことばかり。彼らの話は「べき」で締めくくられることが多く、令佳の思考や行動がそれと違うと、凍てついた目を向けられる。
そのあとで口元だけを微笑みの形にし、両親は言うのだ。これはお前のためなのだ、と。
いつからか令佳は、とにかく受け身でいるようになっていた。聞かれたこと以外には答えない。なるべく正解に近いものを選ぶ。
令佳は、令佳のためには生きていない。彼らのために生きている。
こういうふうに考えてしまうのは悪いことだとわかっていた。だって、令佳は恵まれているのだ。必要なものは買ってもらえる、教育も与えてもらえる。――恵まれているのだ。
「おいしかったです」
令佳は、飲み終えたほうじ茶ミルクをキッチンに運んだ。すると、女性はころころと笑った。
「ここはカフェだから、自分で下げなくてもだいじょうぶだよ」
言われてみればそうだった。令佳ははずかしくなってうつむいた。
「ねえちゃん、ただいま」
そのとき、扉が開いて、冷たい風が吹き込んできた。
「おかえりなさい」
女性の声が弾む。彼女はぱたぱたと子どものように入り口のほうへ走っていく。
そこには、ランドセルを背負った十歳くらいの少年と、すらりと背の高い男性が立っていた。
彼らを見て、思った。
そう、この店の雰囲気は、まるで温かい家のようだったのだ。令佳が思い描く、理想の家庭――。
「今日はお客いるんだ」
「おい、ほたる。失礼な言い方するな」
ほたると呼ばれた少年は、藍色のレインコートを脱いだ。色素の薄い茶色の髪に抜けるような白い肌をした中性的な子で、思わず目を奪われる。
「お待たせしてしまいましたね。野々花、メニューやお冷はお出ししてる?」
男性が訊いた。野々花と呼ばれた彼女は慌ててキッチンに戻っていった。すると彼は、やれやれといった様子で笑ったのだけれど、それは呆れたという感じではなかった。優しく下がった目尻が、愛おしいと告げているようだった。
ほたるはキッチン前のカウンターに腰掛けて、少し濡れたランドセルを丁寧にタオルで拭くと、中から教科書や筆箱を取り出した。背の高い椅子で足をぶらぶらさせながら、勉強をはじめている。
「慌ただしくてごめんなさい。あの子、あたしの弟なの。学校のあとはいつもお店で宿題をして、お店が終わったら一緒に帰るのよ。――といっても、この先の私有地だから、すぐ近くなのだけれど」
野々花がおっとりとそう言いながら、令佳の前にメニューとケーキを置いた。
「はい、これ。チョコシフォンケーキです。マスターからのサービスだよ。お待たせしちゃったからって」
「……! で、でも、さっきもサービスしてもらったので、大丈夫です」
「ふふ、いいよぉ。よかったらまた今度遊びに来て。そのときに注文してくれたらいいから」
令佳がおろおろしていると、カウンターのほうから「もらえるもんはもらっときなよ」と声が聞こえた。
「平日はどうせ客なんて来ないんだから、食べ切れる分しか作ってないんだ。趣味の店だしね」
ほたる少年は、令佳のほうへ目線を寄越すことなく、ノートにシャープペンシルを走らせながら淡々と言った。
「ほたる、お前はまた……」
マスターが呆れたように言った。
本日中に完結予定です。