終わる世界でⅣ(改訂版)
「いま、なんて言いました?」
伸べ棒のような保存食を口に咥えていたヒューイの動きが止まった。
「『拠点』へ帰還する」
会議を終えた直後のマードックの台詞はそれであった。
「ちょ、ちょっと、急すぎやしませんか?何があったんです?」
普段は飄々としているヒューイですら真剣な表情を浮かべている。
当然だ。最初に下されていた任務とあまりにかけ離れた指示。事態が呑み込めるわけもない。
マードックは何かを逡巡するような顔を一瞬だけ浮かべた後。
「本部より情報の通達があった。この界域で魔獣の『大侵攻』が起きるそうだ。此度の任務に従事している全部隊、全隊士に即座の帰還命令が下された」
拠点であった出来事の全てを明かした。
『大侵攻』。
言葉の意味だけは知っている。
正真正銘の災厄。かつて、人類が地上を放逐された原因にもなったもの。
一体の魔獣と相対する中でさえ、黒兵たちは死を覚悟する。相手は人知など及ばない怪物である以上、それは当然。しかし、その怪物が何百、何千と群れを成して襲い掛かってくるとなれば、それは災厄と云うしかない。
地平線の彼方を埋め尽くす怪物たちの侵攻、それが『大侵攻』。
到底太刀打ちできるものじゃない。
「うっそぉ、ここ百年以上起きてないのに、なんでこのタイミングで」
「恨み言を言っても始まらん。兎に角、俺たちは即座に帰還し、防衛に就く」
「確かに、神聖アナスタシア皇国が出張ってくるなんて、ただ事じゃないですもんねぇ」
普段の軽い雰囲気の中に理知的な瞳を浮かべ考察するヒューイが呟く。
「―――――――それより、テムジンは何処にいる」
「?」
言葉の節々に感じる強張りに、ヒューイは首を傾げた。
「テムジンなら、山向こうの『城下街』に行ってますけど。物資を補給しないといけませんでしたから………どうかしたんです、隊長?」
「そうか。ここで語らずに済んだことが幸か不幸は分からんが、どのみち避けて通れんか」
「何の話しです?」
「………お前には道すがら伝えよう。俺たちもすぐにテムジンの元へ向かうぞ」
天幕を出たマードックは空を覆い隠す灰色の曇天を見上げ、目を細めた。
「これが運命というものか」
五年前、とある黒兵の探索部隊を悲劇が襲った。
魔獣の徘徊コースから外れた安全圏の探索任務。何のことはない、毎日のように行われるその任務に従事していた黒兵部隊が壊滅した。
それは、大勢の学者や見識者によって安全圏内と判断された場所で、まず顕れないとされていた魔獣による仕業だった。
総勢五百名。そのうち、部隊を統括していた指揮官と隊員一人を除いた全員が死亡した。
数百年前ならいざ知らず、人類の大部分が空に昇り、拠点を築き、安定して下界探索に臨める環境が出来てからは、滅多と起きなくなった規模の悲劇だった。
当時のマードックは救助隊として立ち会った。
そこで彼が目にしたものは、正しく惨劇。筆舌に尽くしがたい光景に他ならなかった。
あの惨劇について現在から遡れるだけの記録はほとんどない。浮遊都市上層部が揉み消したからだ。
五年前の詳細を識る者は、もう数えるほどしかいないだろう。
マードックは、識っている。
浮遊都市のお歴々が何故、その出来事を揉み消そうとしたのか。
脳裏に蘇る光景、それは、見渡す限りの広大な大地に無数に穿たれた巨大な陥没痕。
まるで、流星群でも降り注いだのかと思われる天変地異にも似た光景。
命からがら逃げだした当時の指揮官は、こう語った。
アレは、今まで我らが戦ってきた魔獣とは違う。
アレは、人が抗えるものではなかった。
アレは、その爪牙を振るうことはなかった。
ただ、遥かな空を夜で覆い、数えきれないほどの星を降らせたのだと。
黄金の双角と瞳を併せ持った魔獣。そのものは『光』を操った。そう語り、指揮官は表舞台から姿を消した。
第二浮遊都市はその事実を隠匿した。
識ってはならない。秘匿されなければならない。恣意的な上層部の意向により、記録として五年前の惨劇を知ることは出来なくなった。
超大国が、惨劇を引き起こした魔獣を『第三位階』と格付けしたからだ。
下界探索に従事する黒兵であれば、誰もが一度は会敵したことのある『第一位階』とはワケが違う。
果て無く広がる下界において開拓が進んだ地とは違い、あまりの汚染濃度により、現代の科学力では対処できないが故に人を寄せ付けない深淵。未だ人類が踏み入ることを許さない穢れの坩堝、『無明領域』。
文明の光が届かないかの地に跋扈すると云われる、強大なる古代の魔獣たちを『第三位階』と呼び、そして、五年前の惨劇を引き起こした魔獣はそれらに匹敵する真正の災いであると認定された。
『守護者』がこの地にやってきたのは、それが理由なのだろうとマードックは感じていた。
これは五年前の惨劇の続きだ。限られた人間たちの意思によって隠されてきたものが、明るみになる。
「『英雄』クリスハルト・カーラヴェインはもういない。だが………彼の遺志を継いだ者はいる」
彼の独白は誰に聞かれることもなく消えた。
「毎度あり!保存食三日分と水包西瓜を三つ分だよ!」
露天商の親父から品物を受け取ったテムジンは、それらを背中のリュックに詰め込んだ。
「あとは」
小さなメモに記載された「補給リスト」を順番に消していく。
「残りはひとつか、確か……この通りの向こうに取扱店があったっけ」
顔を上げた。
建ち並ぶ無数の家屋。あばら家とまでは言わないが、黒く薄汚れたボロボロの家屋ばかりが軒を連ねている。
ただそれでも、周囲の通りを道行く人の数は多かった。
様々な身分、服装の老若男女が行き交う。
時折交わされる商いの声は、この地が人間の住まう生存圏であることを表していた。
浄化街。
そう呼ばれるここは、縄張りを作っていた魔獣たちが狩り尽くされたことで開拓された場所であり、下界に点在する数少ない人類圏のひとつだ。
無防備で過ごすことは出来ないが、それでもある程度の防衛策を講じれば、小規模な街を造ることは可能だ。
ここは拠点から近いこともあり、浮遊都市との交流が盛んだ。加えて、超大国の支援物資も定期的に届くと聞く。
街の中央には、大規模な『浄化の帳』発生装置が安置されているおかげで仮面だって必要ない。
街一つを覆うほどの出力を持つ装置は稀だが、こうした場所は他にもいくつか点在している。
滅び去った世界でさえ、人類はしぶとく生き残ってきた。その証ともいえるこの街が、テムジンは好きだった。
「親父さん」
「お?どうした、兵隊さんよ」
ついさっき商品を販売していた露店の親父に声をかけていた。
「この街に住んでどれくらいになる」
「ああ、そうさなぁ……かれこれもう十年になるかね。女房と一緒になってからはあっという間に感じたなぁ」
「十年か」
「おう。あんたら兵隊さんや『真人様』にも助けられているからな。ありがてえこった」
粗野だが、快活な笑顔にテムジンも目元を緩めた。
「――――――ところでよ」
「ん?」
「兵隊さんの隣で物欲しそうに西瓜を眺めてる嬢ちゃんは、アンタの知り会いかい?」
気がつけば、間隣りに白いローブをすっぽりと被った小柄な少女が立っていた。
少女だと分かるのは、鼻から下の整った顔の造形からだが、テムジンは少女が纏っている浮世離れした気配の方が気になった。
「いや、生憎とこの街に知りあいはいないんだけど」
その視線がリュックからチラリと見えている西瓜に夢中であることは、リュックを左右に動かすたびに追従する顔からして明らかだ。
「………もしかして、西瓜食べたいのか?」
コクリ、と迷うことなく頷く彼女。
「ガハハ!モテてるな、兵隊さんよ!」
「いや、俺じゃなくて西瓜なんだけどな」
「良いんだよ、相手を虜にするのはまずは胃袋からってな!俺も女房と結婚したころはよぉ――――」
などと何事か語り始めた親父殿は放置して、テムジンは少女と向き合った。
「仕方ないな……ひとつだけだぞ」
差し出された西瓜を暫く眺めていた少女は、華奢な両手を伸ばしてそれを受け取った。
「―――――――ありがとう」
ゾッとするような声音だった。
何てことはないお礼の言葉。しかし、同じ人が発したモノとは思えないほどの何かに満ち満ちた声に、全身の産毛が逆立つような感覚を得た。
親父殿も同じだったようで、首を傾げながら頻りに二の腕を擦っていた。
その時、吹き抜けた微風によって白ローブが取り払われたことで、テムジンたちは息を呑んだ。
西瓜を受け取っているのは、美しいという言葉では済まないほどの整った顔立ちをした少女だった。
流れるような銀色の長髪に、紅玉の如き輝きを内包する真紅の瞳。
色白の肌がそれらを際立たせ、まるで御伽噺から飛び出してきた存在であるかのような幻想的な容姿に、一瞬とはいえ思考を停止させた。
だが、驚きを露わにしたのは、初めて視線を合わせた紅玉の瞳の持ち主のほうが先だった。
「『第二守護者』?どうして、ここにいるの?」
「は?」
「あなたは、近衛で、『ははさま』の守護をしているはず」
信じられないモノをみたと言わんばかりの顔だ。
「アナスタシアから、私を、追ってきたの?」
コテンと首を傾げる少女に、あのさ、と声をかけた。
「何か勘違いしてるみたいだけど、俺は君と会うのは初めてだぞ」
ピタッと固まった少女。
「うそ。だって、その髪、その瞳、その顔――――――」
言いかけた言葉を途中で止め、じっと真紅の瞳が向けられる。
何かを確かめるような眼差しに居心地が悪くて仕方なかった。
「………少し、違う?でも、同じ?」
どんどんと近づいてくる少女の顔。注視することに夢中にっているのか、暖かな吐息を感じるほどにまで顔が接近してきた時点で、テムジンは一歩退いた。
(何なんだこの子は?)
もしかして、関わってはいけない系の人間だったのか、と今更過ぎることを思った。
「―――――――分かった。あなたは、違うけど同じモノ」
「は、はぁ?」
「名前」
「はい?」
「名前、おしえて」
有無を言わさず詰め寄ってくる少女に、テムジンは泡を食った。
「………テムジン、だ」
「テムジン、テムジン」
その名前を噛みしめるように繰り返す少女を見つめていると、ふと、傍らの親父殿が声を顰めて呟いた。
「あんた、その子のローブ被せてやんな。ここじゃ、眩しすぎる」
親父殿の言葉の意味を理解したテムジンは周囲を見渡し、視線を集めていることに気づいた。
素早く少女の頭を覆い隠す。
「ありがとな、世話になった」
片手をあげて笑う露店の親父に礼を言って、少女の手を引いて歩きだした。
「どうしたの、テムジン?」
「お前が目立ちすぎたんだ。とりあえず静かにしてろ」
ローブの奥できょとんとした顔をしているのだろう少女を思い、背後を振り返る。
(遅かったか)
身なりの悪い数人が後を着けてくるのが分かった。
「仕方ないな」
「ひゃっ――――――」
素っ頓狂ば悲鳴をあげる小柄な少女の体を抱き上げると、テムジンは駆け出した。
「くそ、逃げやがった!
「なんだ、あいつ!早い!」
後ろから聞こえてくる怒号に速度を上げる。
申し訳ないが、彼らに追いつかれることはないだろう。城下街の住人と、黒兵として身体を徹底的に鍛え上げてきたテムジンとでは、肉体性能に天と地ほどの差がある。
というより、元からあのゴロツキなんて問題視していない。逃げなくてもあの場で対処することも出来た。
厄介なのは、気配を上手く隠しながら近寄ってくるもう一人だ。
風のような勢いで疾走するこちらにピタリと張り付いて追ってくる。明らかにただの素人じゃない。
(何者だ)
街の細道に飛び込み、左右を激しく曲がりながら駆け抜ける。
一瞬の減速すらない。最高速を維持したまま、純粋な体捌きのみで裏路地を切り抜けた先。
視線を向けたテムジンが立ち止まった。
「………先回りか」
目の前に薄汚れた衣服を纏った男が立っていた。
「なんだ、あんた。俺に何か用か」
「―――――そいつを、寄越せ」
「知りあいか?」
借りてきた小動物のように胸元でおとなしく抱かれる少女に問いかけるも、ふるふると首を振った。
「だ、そうだ。人違いだ」
「―――――ソレを、寄越せ!」
血走った眼には正気が感じられない。
だが、男の動きは遠くで見ても分かるほど洗練されたソレに他ならなかった。
懐から取り出されたのは銀の短剣。
「武器まで所持しているのか!」
手が霞むほどの速度で振り抜かれ、銀光と化して放たれたそれを咄嗟にしゃがみ込んで回避。
背後の壁に深々と突き刺さるそれを一瞥。驚愕に動きを止めている余裕はない。
みるみる此方との距離を詰めてきた男の蹴りを腕を掲げて受け止める。
腕が軋んだ。
「ぐ、ぅッ」
重い。
此奴の動きは間違いなく武芸を嗜んだやつのそれだ。それも尋常な練度じゃない。この一撃で分かった。こいつ、体術に関しては俺よりも数段上。
「あんた!一体どの浮遊都市の兵士だ!」
言葉は意味を成さない。足だけでなく次々と襲い掛かってくる徒手空拳を受け止め、回避するだけで手詰まり。
目で追うことすら難しい、霞むほどの速度で放たれる肉体と言う凶器を紙一重で避ける。
(エルフィの体術を見慣れていなかったら、もうとっくにやられてる!)
同じ部隊に所属する最後の一人、体術技の天才の顔を思い浮かべる。
「!」
男の片足が奇妙な軌道を描く。
地面を抉るように振り下ろされた爪先が、そのまま跳ね上がる形でテムジンの顔面へと振りぬかれた。
爪先を避けた直後に大量の砂埃が舞い上がり、片目に直撃。
しまった、砂か!
「くそッ!」
残った片目で男を見上げた時には既にそれは振りあげられていた。
白銀の長剣。
特に光を反射しているわけではないにも関わらず、白金にも似た異様な反射光を帯びるそれに、テムジンは背筋を氷塊が滑り落ちたような怖気を感じ取った。
まさか。
「死ね」
刃が銀光となって無慈悲にテムジンたちに向かって振り下ろされる。
回避は不可。この鋭利な刃は皮膚を、肉を、骨を断ち切り、少年の上半身を両断する。
その光景を夢想し、男は喜悦と狂気に歪む顔を浮かべて勝利を確信した直後。
飛び散る紅蓮の火花と激しい金属音に動きを止めた。
男の剣は何も切り裂いてなどいない。少年の体にさえ届いていなかった。
激しい戦いの中で、それでもなお振動を与えないようにと優しく抱かれた胸の中で、少女はそれを見上げていた。
「………義腕」
小さな呟きに応えるように、銀の長剣を受け止めた少年の左腕を隠していた布地が、切り裂かれて宙を舞った。
漆黒の左腕がそこにはった。
肩口から生えるその腕は光を映さない純黒。
舞い散る火花は、その腕が漆黒の鋼で象られた義腕であることを何よりも証明していた。
「………黒鋼の、腕か」
虚ろな瞳でギョロリと義腕を見下ろす男。
「生憎と、左腕は五年前に失くしてる」
ギィン、と派手な火花を散らしながら、義腕が剣を弾き飛ばした。
一端距離をとったとはいえ、テムジンの顔に安堵はなかった。
寧ろ、最初よりも顔色は悪い。その原因である男の持つ銀色の長剣に目を留める。
相手は予想外とばかりに顔を歪めているが、それはこちらの方も同じだ。軍人だと思っていたが、あんなものまで持っているなんて予想外だった。
「『神機』持ちの『機士』が、なんでこんなところに」
あの男はただの一兵卒なんかじゃない。少なくとも、あの武器を手にしているというならばそれは。
五年前のあの日、俺を救ってくれた彼と同じ。
「魔獣から人を護るために選ばれた『英雄』が、こんなところで何してる!」
無意識のうちに溢れ出た言葉には、強い感情が込められていた。
抱き留める腕に力が込められたことに僅かに顔を上げた少女は、己を護る少年の瞳に静かな激情が宿っているのを見た。
「………英雄」
男の気配が変わった。
「英雄だと………?く、はは。俺を英雄と呼ぶか」
今の今まで虚ろだった瞳に、明確な意思の光が浮かぶ。
「下らない。英雄など、そんなものは存在しない」
剣の切っ先がこちらに向けられる。
「いや……どうでも良いか。俺にとっては、全て無価値だ。そいつを寄越せ。俺が命じられたのは、それだけだ」
命じられた?
男の言葉にテムジンが眉を顰めた。
狙いがこの子だというのは分かっていたけど。
「………渡さないというのなら、力づくで奪うまで」
意識を引き戻した時には、もう遅かった。
「調律真核・励起」
男が掲げた剣に白金色の輝きが灯る。
自然現象とは明らかに異なる神々しいまでの発光現象。
目を焼くような光を帯びた長剣を、男はそのまま振りぬいた。
「ッ!?」
刹那、全身が引き攣るような惧れに形振り構わず頭を伏せ、しゃがみ込んだ。
ゾッ!!!!と大気を磨り潰したような轟音が耳元に飛び込んで来たと同時、背後で木材が崩れ落ちるような破砕音が轟いた。
「避けたか。今の一撃なら、楽に死ねただろうに」
恐る恐る背後を振り返れば、そこには真っ二つに引き裂かれた建築物の残骸があった。
鋭利などという言葉では足りない。寸分の粗さもなく、切断面は鏡面にも似た光沢を帯びている。
尋常じゃない斬撃によって両断されたことは言うまでもない。距離は三十メルタ近く離れているにもかかわらず、だ。
それを成したものがあの長剣であることも。
「本物か……!」
「紛い物だと、思うのか」
「だったらなおさら、なんでこの子を狙う!」
「語る必要は、ない」
輝きを纏う剣を振りあげ、男は直進した。
「二度目があると思うな。『神機』の刃を退けることは、もう不可能だ」
白金色の光がいよいよ迫り、止むを得ずテムジンは腰から黒剣を抜き放とうと手を伸ばして。
「そこまでよ」
視界の端で燐光が瞬いた。
碧色に輝く光が彼方から飛来、地面に深々と突き刺さり、男の動きを封じ込めた。
「光の矢?」
碧色の光で出来た一本の矢。それが、男の動きを止めたものの正体だった。
「気配を感じて来てみれば、まさかこんなところで会うなんてね」
聞こえてくる声の主が姿を見せたのは、すぐのことだった。
建物の屋根の上に人影が起つ。
真紅の長髪が宙を舞う。黒と赤に彩られた軍衣を纏う女性が此方を睥睨していた。
彼女の手に握られているのは、巨大な大弓。豪奢な装飾も何もない。しかしその大弓は、如何なる装飾をも凌駕する、神々しい白金色の輝きを放っている。
「指名手配中の咎人ガラド・ロヴァね」
「―――――『流星弓』アストレアか」
「あら、私を知ってるの」
「邪魔をするな、失せろ」
「そういうわけにはいかないわ。同じ『機士』として……いえ、もう『機士』ではなかったわね」
「ほざけ、邪魔をするなら貴様も!」
白金色の輝きを放つ長剣の切っ先が、真紅の女性を捉える。
「だって、もう互いの実力差すら分からなくなっているんだもの。貴方、私の姿を見た時点で逃げるべきだったわね」
碧の燐光が大弓へと浮かび上がると彼女は弦を引き絞る。
矢はつがえられていない。何処からともなく碧の光が集い、彼女の大弓へと集まっていく。
幻想的な輝きが地上を照らす中、静かにそれは解き放たれた。
「『神機』の真名開放すら出来ていない時点で、貴方の負け」
凛とした音色がひとつ。
たったそれだけで、男の両腕は失われていた。
正確には、両腕の肘から先。白金色の輝きと共に剣を振りあげた直後、目にも留まらぬ速さで放たれた何かが、男の肘から先を消し飛ばしたのだ。
「な―――――」
「残念だったわね」
いつ動いたのか。屋根の上から颯爽と降り立ち、一瞬の内に男の目の前に立った女性はそっと胸元に掌を当て。
「紫苑柔術・二の型『凪』」
ぐりん、と男の眼球が不規則な軌道を描き、白目を剥いた。
静かに倒れ伏す男を見下ろし、さて、と女性は呟いた。
「次ね」
「は?」
次って。
テムジンがその言葉の意味を理解するよりも早く、女性の拳が放たれていた。
何の変哲もない、白く華奢な女性の手。それがこちらに向かって放たれたのだと分かった瞬間、先の男の戦闘とは比較にならないほど濃密な殺気に全力で防御態勢をとっていた。
刹那の内に出来たのは、胸元に抱えていた少女を放り投げることだけ。
衝突の瞬間は、視えなかった。
気がつけば背中に強烈な衝撃があって。
気がつけば女性の元から遥か後方へと殴り飛ばされ、壁に叩きつけられていたのだと理解した。
「が、ぁ」
横隔膜が痙攣するほどの衝撃に、息が詰まる。
酸素不足からか頭がぼうっとする、次に何をするべきなのかも思い浮かばない。
今言えるのはひとつだけ、酷いとばっちりということだ。
揺れる視界は徐々に黒く、狭まっていく。
「く、そ……野郎」
「さ~てと、――――って、その軍服は、黒兵?」
こちらに爪先を向けた女性が訝しげな表情で首を傾げる。
その時、銀髪を生やした小柄な少女がテムジンを守るように両手を広げて立ち塞がったのが見えて。
(あの子。折角隠し通せていたっていうのに)
そんなことを思ったのが最後、意識は黒一色に染まった。