終わる世界でⅡ(改訂版)
五年前のことで鮮明に覚えているのは、あらゆる色が失われた灰色の世界を我武者羅に駆け抜けたことだけだ。
荒い息遣いと地面を踏みしめる乾いた音。
全身の血は熱く沸騰し、肺は際限なく空気を求め続ける。
「―――――――はぁ、はぁ――――――っ」
仮面越しに酸素を求めようと必死に唇が閉口を繰り返しているのに、ちっとも空気を吸いこめた気がしなかった。
挙句の果てに、痙攣し始めた唇を血が滲むほどに噛みしめながら、灰色の霧を全身で切り裂き走る少年の疾走は休むことなく続いた。
どれだけ走り続けたのか。
考えることも馬鹿馬鹿しくなるくらいに走って、走って、走り続けた。
自分の体がとっくに限界を超えていることに気づいたのは、全身の感覚という感覚が消えて崩れ落ちるように膝を着き、地面に倒れこんでしまってからのことだった。
体を動かそうとしても、もう、ピクリとも動かない。早鐘のように脈打つ心臓の鼓動が轟く中で、少年は掌を開いた。
ドロリと粘り気を帯びた真っ赤な血に染まった掌が視えた。
掌だけではない。足元も、背中も、首も、全身の至るところにそれは泥のようにこびりついていた。
―――――――――ここは僕が食い止める!君は逃げろ!
「…………どうして。俺たちなんかを、助けたんだ」
上官から命じられた初任務。既に開拓された地域の巡回任務、生命の危険とは程遠い、何の変哲もない命令。
『魔獣』の生息区域から外れている。戦闘など在り得ないと、当時部隊を率いる役目にあった上官は得意げに語っていた。
そのはずだったのに。
突如として顕れた『奴』と向かい合うことができたのは、“彼”だけだった。
上官は、誰よりも早く逃げ出していた。無様にも背を向け、悲鳴を挙げながら脱兎のように。
即座に状況を判断し、動いたのは“彼”。
逃げろ。
“彼”はただそう叫んだ。
余りの恐怖に蜘蛛の子を散らすように部隊の全員が逃げだした。
脳裏に蘇るのは、無様にも逃げ出しながらも振り返った先にあった光景。
足は捻じれ、腕は引き千切られ、胸にはぽっかりと風穴が空いて。人体にはこんなにも沢山の血が流れているのかと思うくらいの鮮血を流し続けて。もう死んでしまうというのに。人生の終着点に到達して尚、それでも彼は、笑みを絶やしていなかった。
仲間を護れて、本当に良かった。そんな感情を顔に浮かべながら、本当に、最期の最期まで笑って逝った。
「――――――クリス。クリスハルト」
決して返事が返ってくることなどないと知りながら、力なくその名を呼んだ。
「…………俺、は」
両足に、力を込める。
もう体力なんてこれっぽちも残ってない。小刻みに痙攣する全身には、これ以上の駆動に耐えられるだけの余力が無い。
自分が一番それを理解している。だというのに、それでもなお、心が器を動かしていく。
引きずるように身体を酷使して、震えながら立ち上がる。
霞む視界の中、真っ直ぐに前だけを見る。
「だって」
本当に立ち止まってしまったら、命をかけた“彼”の行動が無駄になる。
どこまでも続く、終わりのない灰色の回廊を見据えた少年は、誰かが願った通りに、歩きだす。
力強さなんて微塵もない、頼りない小さな歩幅で。
「―――――――は―――――――っ」
大きく、その一歩を踏み出して。
――――――――とん、と。
奇妙としか言いようのない軽さが少年の感覚を戸惑わせた。
「――――――――ぁ」
視界が傾く。
いや、違う。これは体全体が傾いているんだ。
歩調が乱れ、膝から地面に崩れ落ちる。
軽い、軽い、軽い。
左半身だけが、酷く軽い。
まるで、本来そこにないといけないものが、ごっそりと消えてしまったかのような異常な軽さ。
「――――――――――ぇ」
『少年』は己の左腕が、肩口から先が、跡形もなく無くなっているのを見た。長袖だったはずの衣服は肩から先がない。無理やり引き千切られたように、力なく垂れさがっていた。
焼き付くような熱感が脳裏を貫いた。
滲みだす赤い染みが、噴き出すような鮮血へと変わる。
声は出なかった。痛みを認識することすら出来なかった。
どうしようもないほどの喪失感、失くしてはいけないものを取りこぼしてしまったような虚無感だけが心を蹂躙した。
―――――――まさか。
体を震わせながら振り返って、その存在を目視した。
漆黒の霧に覆われた、『獣』。
そのようにしか表現できなかった。
禍々しい漆黒の霧が寄り集まり、四足歩行動物にも似た形を成している。漆黒の霧で構成された躰にびっしりと浮かび上がる黄金の光の線が、不気味に明滅を繰り返す。
獣が持つ天を貫くような捻じれた二本の角の真下、禍々しいまでの輝きを帯びた黄金の双眸が、静かにこちらを睥睨していた。
獣を前にして出来たのは、ただ呆然と見上げることだけ。
「―――――――どう、して―――――なんで」
脳が、目に映る全てを拒絶している。
ここにいるはずがない。
ありえないんだ。
だって、あいつが命をかけて足止めした。
してくれたんだ。
なのにどうして。
おかしいだろう。
お前はここにいちゃいけないはずだ。
お前がここにいたら、全部を投げうった“彼”は―――――――。
意味のない言葉の切れ端の羅列が、口から勝手に零れだす。
――――――――ここで死ぬ。
最期に浮かんできた言葉は、何の捻りもない感傷だけだった。
恐怖はなかった。ただ、悔しかった。
彼のありったけの献身と命を捧げた代価として“今”を得たのに、それを活かすことの出来ない自分自身が、腹立たしくて、悔しくて仕方なかった。
空虚さと惨めさと、怒涛の勢いで溢れだす諦観の念を隠すように、宙を見上げて。
遥か虚空の宙が、朝焼け色に染まった。
頭がそれを認識するよりも早く、全てを焼き尽くすような紅蓮が目の前を埋め尽くした。
遥かな空から堕ちてきた『焔』は反応すら許さずに毒の大気ごと大地を、空間を、『獣』をも焼き払った。
あまりの衝撃に『少年』の体が埃か何かのように後方へと吹き飛ばされる。二転三転と大地の上を転がり、全身の至るところを打ち付けながら、必死に体勢を立て直した後で目にしたのは―――――赤の世界。
見渡す限りの砂の大地は溶岩の如き紅蓮に煮え立ち、黒い蒸気が立ち上る中で少女を見た。
近づくことさえ不可能な圧倒的熱量。紅蓮の海と化した炎の中に、一人の少女が重力を無視するかのように、ふわりと降り立つ。
黒の長髪が、熱風に煽られて宙を舞う。
少女の両手には二振りの紅刃。刃それ自体が煌々と紅蓮の光を放っていた。
「―――――――はい、失敗しました。私の剣が触れる刹那に逃れたようです」
少女の耳元に吊るされた耳飾りが淡い光を帯びていた。
「相手は『第三位階』。『神罰隊』の『二十席』から『三十席』までの上位席次を保有する『機士』の派遣要請を。各自、『神機』の開放を以って敵を捜索、発見次第討滅してください」
少女が纏う黒の外套が翻る。紅蓮の炎に照らされた背には、『逆十字』の紋様が刻まれていた。
ゆっくりと、黒髪の少女が振り返りこちらを見た。
「―――――――――――ぁ」
呆然と目を見開いた少年に向かって、彼女が何事かを囁いた。
聴こえない。何も、聞こえない。
無音の中で、少女の小ぶりな唇がいくつかの形を描き、言葉を紡ぐ。その意味を脳が理解した瞬間、少女の胸元で輝く『一』と刻まれた黄金の徽章が見えて。
――――――――夢視は終わりです。疾く目醒めなさい、十三番目の星の仔よ。
「――――――――っ!」
霞む視界に飛び込んできたのは、黄ばんだ天幕の天井だった。
耳に聞こえるのは鋭い風の音色。嵐のように吹きすさぶその風の所為か。バタバタと揺れる頼りのない天幕の壁を眺めてから、酷く全身が冷たいことに気がついた。
指先は痺れたみたいに感覚が酷く鈍いところを見るに、外気温は氷点下に近い数値を叩きだしているに違いない。
吐いた吐息が白い靄となって天井へと昇っていくのを見ながら、視線を逸らした。
暖はある。今も天幕の真ん中で燃える焚火は消えてない。格子状に組まれた貴重な木材がパチパチと音を経てて炭化していく。
「お、起きたねテムジン。どうだい、体の調子は」
鉄の棒を動かして火の番をする青年、ヒューイの声にゆっくりと上半身を起こした。
傍にかけていた黒塗りの外瘻を身に纏う。換気遮断の機能を持つ外瘻を着込めば、すぐに体温が戻ってくる。
羽毛と呼ぶには少し頼りない生地の薄さ。けれど、天幕内の冷気を遮るには十分すぎる効果があった。
「………倦怠感はあるけど、悪くない」
「そりゃよかった。君ってば案の定、副作用でぶっ倒れてね。とりあえず移動して、『結界』を張れそうな場所を見つけて天幕を設営したってわけさ。でも運が無くってね、暫くしたらこの寒さだよ。これなら、もう少し北に行ったところにある『浄化街』まで足を伸ばせば良かったよ」
はぁ、と嘆息したヒューイの吐息が白い。
「気候も天候も、てんでバラバラ。一定の時間経過で気温が数十度変わることだって日常茶飯事。一時間後には冬から夏へ、なんてね。四季なんて言葉がなくなって久しいけど、こうも環境が無茶苦茶だと、ほんとに世界って滅んだんだなぁって思うよ」
彼は半笑いで焚き木を突く。
「あ~……寒いなぁ、もう。嫌になるよね、ほんっと。僕は寒いの大の苦手なんだって、ずっと言ってたのに、隊長ってば、気合で何とかしろ、だなんて無茶苦茶なこと言ってさ。酷いと思わないかい?」
大体さぁ、と呟き、ごろんとその場で横になった。
「僕は生粋の『第五浮遊都市』育ちなわけ。あそこは気象設定が常に常夏みたいなもんだからさ。いくら外瘻を着ても耐えがたいのさ。本当ならもっと木材を燃やして暖をとりたいんだけど」
「木材は貴重だからな……無駄に消費したらあっというまに無くなるぞ」
立ち上がろうとして、ズキリと全身に走った痛みに顔を顰める。
「痛っ………まだ、駄目なのか?」
「そりゃあね。君、副作用舐めすぎでしょ。寧ろ、そんな短時間で立ち上がれるくらいまで回復してる君の体の方が凄いのさ」
「休んでなんて、居られないからな」
ぽつりと呟く。
「状況に変化はないのか?」
「いんや、特には。幸いこのあたりは地形も安定してるし、『魔獣』の徘徊コースからも外れてる。まあ、君が起きる少し前に一体だけ近くをうろついてる逸れ個体はいたんだけどね。『第一位階』程度、僕の遠距離狙撃一発で追い払える程度だし、近づかないように脅しておいた」
傍らに立てかけた銃をコツンと叩き、ヒューイは笑った。
「隊長には」
「いや、報告してないよ。隊長は今、奥の別室で会議中。邪魔なんてしたらま~た統括官に陰口言われそうだし。僕、あいつ嫌いだから」
「相変わらずだな、お前」
「君だって考えてみなよ、グスター統括官だよ。ほんっと、あのジジイめ。さっさとくたばれば良いのにさ。良い年こいて出世欲に塗れてる分、しぶといんだよねぇ、あいつ」
どんどん顔を不機嫌そうに歪めていく。
「『第二浮遊都市』の領主様から『貴位』を授かってるからねぇ。下手うったら不敬罪適応さ。なんであんな奴に『貴位』なんてあげたかなぁ、領主さまは」
忌々しそうに頭を掻く彼から視線を外し、天幕の出入り口へと向けた。
「あ、外に行くなら一応、『結界』の起動確認だけよろしく頼むよ。それだけ動けるなら副作用も大丈夫だろうし」
「了解」
テムジンは天幕から外へ出た。
暖気が一転して寒気へと変わった。
全身を突き刺すような冷気に包まれて尚、テムジンは顔色一つ変えることはなかった。
視線は頭上に。闇に包まれた灰色の空に向けられた。
太陽はとっくに沈んで、本来であれば夜空が広がるはずの宙は灰色の帳に閉ざされたまま。朝の日差しも、夜の星光も、如何なる光も遮断する。
見ているだけで気分が悪くなるような空とを隔てるように、天幕の周囲を、薄らと蒼色に輝く『光の壁』が包み込んでいた。
地面に突き刺さる四本の杭が基点となり、光を発生させていた。
簡易型大気浄化装置『浄化の帳』。そう呼ばれる装置が無事に起動していることを確認し、テムジンは憂鬱げに目を細めた。
まるで確かめるように大きく息を吸い、吐いた。
本当に、嫌になる。大気浄化装置なんて御大層なものがなければ、たったこれだけの行為が出来ない。
人類以外の生命は環境に耐えきれずとうの昔に絶滅した。生物の多様性などという言葉は辞書からも消え去った。
だというのに、それでも人は生きていく。
大気も、水も、大地も。
世界に存在するもの全てが汚染された。
―――――――――千年も前に終わってしまった、穢れた世界の亡骸を踏みしめて。
「この戯けが!」
野太い男の怒号が木霊した。
天幕の天井部から降り注ぐ暖かな色彩の光の下、磨き上げられた巨大な円卓があった。
設けられた座席は全部で三十。そこに座すのは、今回の『任務』においてそれぞれ分隊を率いることを任された分隊長が勢揃いしていた。ただ、三十席もある座席に座る誰もが、時折乱れるようなノイズを走らせる立体映像としての仮想体だった。
今回の『任務』において作戦立案、指令伝達を一挙に担う『拠点』にある中央天幕の中において、唯一実体ともいえる肉体を以って参加しているのは、円卓より少し離れた上座に座る禿頭の男と、彼に仕える数人の兵士たちだけだった。そんな数人の兵士たちも怒鳴り声をあげる己の上官の姿を恐々とした顔で見つめていた。
天井で揺れる発光灯の光を反射するほどに磨かれた禿頭の男。ぶくぶくと顔や腕、特に、ここからでは机の所為で見えないが、腹部にこれでもかというほど脂肪が蓄えられていることを、分隊長マードックは知っていた。
よく言って、ふくよか。悪く言えば、肥満。己の部隊員であるヒューイは彼のことを嫌っていたはずだ。益々体に余計な肉をつけた彼を見ればデブと叫びそうだ、と頭の中で想像し、そっと嘆息。
「よりにもよって、『魔獣』どもと遭遇した為に遺跡を前に撤退しただと!?馬鹿者、貴様らの役割は何だと思っている!貴様、貴様だ!言ってみろ!」
ビシッと彼の指先が円卓に座す三十人の内、適当な一人のところを指し示した。
幸運の女神が存在するとしたら、きっと見放されているのだろう。偶然にも運悪く指差された分隊長の一人が顔を顰め、口を開く。
「げ、『下界』に点在するパンドラ文明の遺産を発見し、持ち帰ることです」
「そうだ、分かっているではないか!我らは下界探索任務に従軍する遠征隊だ!『下界』という荒廃しきった末世に散らばる遥か古代のパンドラ文明、その遺産を探索、発見し、それを我らが故郷たる『第二浮遊都市』、ひいてはその“領主”たるエリザヴェータ様のもとへと持ち帰ることが至上の命!そのために我らは態々、この世で最も安全な浮遊都市から『下界』に降下し、任務にあたっているというのに、貴様らは――――」
延々と続く禿頭の男の叫び声に、誰も口を開かない。
誰もが分かっている。この男に反意を示すことは、己の身の破滅を招くことくらいは。
統括官グスター。統括官とは、『下界』探索任務において、総指揮を委ねられた人間。誰でもなれるわけではなく、『浮遊都市』の『領主』から“貴位”を授けられた都市貴族のみが成ることを許される。
生粋の兵士である『黒兵』――――『下界』の探索にその身を捧げた『浮遊都市』の兵士たちとは根本的に考え方、思想が異なる。
作戦中に意見が食い違うなんて言うのは、ハッキリ言って日常茶飯事だった。
このようなことで時間を割いている余裕は、我々にはないというのに。
マードックは再び嘆息した。
――――――千年前にあったという『大天罰』によって、世界は一変した。
当たり前のように享受していた大気は猛毒と成り、大地は穢れ、水は濁った。あらゆる緑が石灰と化し、人類を除く他の生命体の悉くが急激な環境の変化に適応できず死滅した。
何故人類だけが生き残ったのか。それは他の生物にはなく、人類にあったもの、智慧があったからに他ならない。
長い時の中で連綿と積み重ね続けた智慧を以って、人類は唯一生存することに成功した。荒廃しきった地上世界、『下界』を捨て、雲海の上を漂う『浮遊都市』を造りだし、そこに移住するという方法で。
『大天罰』直後の当時、現代から遡れば遥か昔にどのようなことがあったかは分からない。意図的なものなのか、一切の記録が残されていないからだ。ただ、未だ残されていたパンドラ文明の超科学を用いて生みだされた九つの『浮遊都市』の存在が、人類を空へと逃がし、生かし続けるための箱舟となったのは事実だ。
問題なのは、『浮遊都市』が造られてから既に数百年もの時が経っているということ。
如何な超科学によって造られていようが、所詮は人の手によって生みだされたもの。
であれば、結末はみえている。
(第三浮遊都市が二百年前に。そして第六浮遊都市が機能を停止し、『下界』へ墜ちたのが八十年前)
超古代の技術の塊である『浮遊都市』の中枢は『領主』一族を除き、一部の者にしか情報開示が許されていない。
ただ、同じ機構である他の都市が墜ちた以上、ここに居る全員の故郷でもある『第二浮遊都市』とて同じ結末を辿るのは必然。
故に、決起する必要があった。
『浮遊都市』の墜落という悪夢を回避するために、かつてパンドラ文明が存在した大地、即ち遥か千年前に人類が捨て去った『下界』で超科学を秘めた『パンドラの遺産』を手に入れ、人類存続の希望とするために。
いつ訪れるかも知れない墜落。逃げようにも逃げられない恐怖に駆られた人類の総意によって、『下界』の探索とそれに従事する『浮遊都市』の兵士である『黒兵』は誕生した。
彼らは戦うことを宿命づけられた。人類の明日を切り拓く、その為に身命を賭す。
――――――とはいえ。
「発見した『遺跡』はパンドラ文明当時の施設だったに違いない!それをみすみす『魔獣』に畏れを成して撤退など、そこに我ら人類が求める希望があったならばどう責任をとるというのだ!」
唾を飛ばして怒号を響かせるグスターに、痺れを切らしたマードックが手を挙げた。
「発言を」
「きょ、許可します。第四十八迎撃分隊所属マードック分隊長」
この会議の進行役が声を震わせながら言う。
「恐れながら、統括官。『魔獣』の生態は未だ分かっていない部分が多い。状況を冷静に判断し撤退することは、兵士たちの命を守るという意味でも理に適った、必要な判断だったと思いますが」
既に『下界』の探索が始まって二百年。思うように進んでいないのは、何も『下界』の劣悪な環境だけが問題ではない。『大天罰』以降、全ての生命体が死滅した後、入れ替わるように地上世界を席巻したのが、『魔獣』と呼ばれる存在だった。
彼らは『下界』の環境などものともしなかった。彼らはただ顕れ、禍々しい漆黒の霧を身に纏い、大よそ御伽噺にしか登場しない様な怪物の姿でもって人類の前に立ちはだかった。
『浮遊都市』が完成し、大多数の人類が空へ逃れたばかりのころは、地上にも『国家』と呼べるだけの人口と武力を持った生存圏がいくつもあった。
だが、そのすべてが『魔獣』たちによって滅ぼされた。
地平を埋め尽くす程の数万、数十万、あるいはそれ以上の『魔獣』の軍勢によって消えさった大国もあったと聞く。
生態の一切が不明な彼らについて分かっていることはたったひとつ。
『魔獣』が人類の宿敵であること。それ以外の全てが分かっていない、まさしく正体不明の化け物。
そんな存在を相手にする黒兵たちの命を無駄に散らす行為は避けるべき、マードックはその主張を長年の信念としていた。
「また貴様か、マードック分隊長。つくづく、貴様とは意見が食い違うな」
上座に座す統括官は、己とまるで真逆の思想を持つことは、当の昔に知っていた。故に、この男と真っ向から言い合うのも、今回が初めてではない。
「以前にも言ったはずだ。貴様ら黒兵は『浮遊都市』の手足。『浮遊都市』を存続させるためにある。良いか、貴様らは所詮、駒に過ぎん。大多数の人類が掴みとるべき未来、その可能性の一助となるために“消費”される歯車だ」
その物言いに、マードックは顔を顰めた。だが、怒りに身を任せることはなかった。
「何故、役割を果たさぬ。貴様ら黒兵の命はそのように使われるべきだ。私には統括官としての役割、貴様らには黒兵としての役割がある。そうして人類社会は機能する。あらゆる者に役割はある。その役割を果たさない者は、『浮遊都市』を機能させる歯車としての価値すらない」
「しかし、だとしても私は、彼らの命を預かる者として、貴方の言葉に頷くわけにはいかない」
マードックの主張を聞いて沈黙。後に打って変わって低い声で彼は言った。
「―――――綺麗ごとだな、マードック分隊長。犠牲なくして世界は回らぬ。この世界は、そう優しくは出来ておらん。可笑しなものだ、かつては『機士』であった貴様の口からそのような言葉が出るのか理解に苦しむ。儂が口にしたことを最も強く理解し体感してきたのは、他ならぬ貴様であろうに」
グスターの瞳に怒りとは異なる暗い感情が浮かぶが、一瞬の後にそれは消えていた。
肌を突き刺す程の沈黙が、中央天幕内に満ちる。
誰も口を開けない。無理もない。この場で最も発言権を有するグスター統括官と相対することが可能なのは、マードックを置いて他にいないと誰もが理解しているからだ。
当事者二人が口を開かない以上、第三者が水を差すことは出来ない。
「――――――相変わらず、平行線になっているようだな、グスター統括官。それにマードック」
清涼感のある声が、天幕内の静寂を引き裂いた、というより吹き飛ばした。
目に沁みるような青色の長髪をした男の登場に、もれなく全員が安堵の声をあげた。
「話しは聞いた。だが、私には分隊長の言葉にも一理はあると感じたのだが。如何かな、グスター統括官」
「――――――ウルス統括官、何故…其方がこんなところに」
歯ぎしりし、唸るような声でグスターは男を睨み付けた。
「『魔獣』の生態について判明していることは少ない」
コツコツと硬質な靴音を響かせてやってきた男は薄らと笑みすら浮かべてグスターと相対した。
「『第一位階』は“群れ”で行動する。過去、はぐれの個体を討滅した後、数十体もの『魔獣』の“群れ”が押し寄せたこともあると聞く。仲間を呼ばれる可能性がある以上、不用意に彼らを刺激して、不測の事態を招くのは得策でないと思うのだが」
二人の統括官の睨みあいに誰もが息を呑んだが、先に折れたのはグスターの方だった。
「………“領主”の信頼も厚い其方の言だ、今は儂が退く」
「感謝する」
「だが、儂の意見は変わらんぞ、マードック分隊長。命とはそのように使われるべきだ。この世界では全てを守り切るなどという綺麗ごとは通じん。神ならぬ我ら人間に出来ることなど知れておる。身に余る願いは身を滅ぼすぞ」
かつてのパンドラ文明のように、そう口にした。
「忠告、痛み入る」
ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らしたグスターがもう要はないと視線を切った。
「――――――それで、わざわざ其方が此処に来たのは、このようなことを言うためではあるまい。其方は南西方面の遠征分隊を現地指揮するために『西方拠点』へ赴いていたはずだが」
『下界』の探索任務はここにいる全員だけではない。各方面に分散して派遣された彼らは、各々の担当区域で任務に従事する。唐突に現れたこの男は、ここにいる兵たちとは別方面を一任された統括官だった。
マードックたちが陣を構えるここは中央拠点。対して、彼が派遣された西方拠点とはそれなりに距離があった。
「その通りだとも、グスター統括官。最小限の隊を率いて『下界』を駆けてきたのだ。申し訳ないが、私の部下の休息の為に天幕を借りているよ」
よく見れば、彼の衣服は擦りきれ、汚れた個所が幾つもあった。
「統括官の位にありながら、黒兵どもと戦場を歩むなど。豪気なことだ」
吐き捨てるような物言いにウルスは笑った。
「戦い方はそれぞれということだ。私にはグスター統括官のように情報を正確に収集、統合、分析する能力に欠けている。偏屈な言い方をすれば、統括官には不向きなのだ。根っからの現場肌、と言っても良い」
統括官としての在り方は貴方の方が正しい、と断言するウルスは一転。柔らかな物腰から、触れれば切れるような鋭い気配を身に帯びた。
「話しが逸れたな。ああ、諸君らの聴きたいことは分かっているとも。何故私が此処に来たのか。それは、この場に居る諸君らにどうしても伝えておかなければならないことがあるからだ」
空気がざわついた。
「なに?」
眉を顰めたグスター。他の分隊長たちもみな同じ顔をしていた。
そのような予定はない。担当する方面は違えど、探索任務の開始以前に全ての打ち合わせは完了している。
些細な情報であっても取りこぼすことは命取り。それが下界。人の命など容易く奪い去る、魔の領域。
故に万全を期して任務に望む。
「勘違いしてもらっては困るが、『浮遊都市』で行った事前協議において、諸君らに伝達し損ねたことなど一切ない。そのような不手際は私とて許さないとも。だが、今回ばかりは例外と思ってほしい。いや、本当に申し訳ないが、これは私の意思では如何ともし難かった」
『領主』には追って報告をする。『領主』も納得せざるを得ないだろう、と。
「何せ、『星刻憲章』は全ての権威を凌駕するのだからね」
「―――――――待て」
グスター統括官の引き攣った顔が焦燥感に満ち満ちていた。
「まさか。いや、在り得ない話しだ、だとしても。彼らが介入してくることなど、“領主”の任命式と十年に一度の人類会議ぐらいなもの―――――――」
早口で語り、目まぐるしく脳内で状況の整理と予測を叩きだしていくグスターにウルスは笑った。
「やはり、貴方以上に状況把握に長けた統括官はそういないな。だからこそ、もう一度言わせてもらおう―――――これは私の意思ではどうにもならないと」
ウルスは、そっと身を引いた。
中央天幕の入り口。彼はその入り口に向かって深く頭を下げたことに全員が驚愕した。
『領主』より『貴位』を授かった統括官であることは言わずもがな、如何なる立場の人間であろうと平等に接する人格者であることに加え、自身が非常に優秀な戦士であるウルスを英雄と呼ぶものは多い。
彼にここまでさせることが適うのは、『領主』か、あるいは。
「どうぞ」
ウルスの声で天幕内に入ってきたのは、この場に居る兵士たちが身に纏うものとも、グスターやウルスが着込む黒と赤に彩られた軍衣でもない。
蒼と白に彩られた美しい法衣を身に帯びた少女と、そのすぐ後ろに影の如く付き従う真っ白なローブで全身を覆った人物の二人。
真っ先に視線が吸い寄せられたのは、少女の法衣に刺繍された“逆十字”の紋様。
グスターは呻いた。
「よもや――――――『逆十字』」
静かに、音をたてずに少女は一礼した。
「お初に御目にかかります。私、『神聖アナスタシア皇国』より使者として参りました。サーシャ・七・メイガスと申します」