終わる世界でⅠ(改訂版)
――――――――ぽつり、と。
静かに響き渡る雨音に瞼を持ち上げて、視界を開いた。
霞む視界の半分を埋め尽くすのは、気持ち悪いくらいに湿った黒い前髪。滴る雫が髪先を伝って真下へ落下するのを目で追って、そこで自分が今まで軽い眠りに落ちていたことに気づいた。
酷く気分の悪い夢を見ていたような気もする。内容は何だったのか、ハッキリとは覚えていない。が、後味の悪さから察するに、大分と酷い夢見だったらしい。
嘆息がこぼれた。
かれこれ一日以上は飲まず食わずとはいえ、今が眠れる状況でないことは身に沁みて分かっていたというのに。
万が一、隊長にでも見られたら罵倒されても文句は言えない。
頭から足先まで、余すことなく全身をすっぽりと覆う黒いローブの中で、僅かに身じろぎ。
先ほどまで降っていなかった雨が、ざあざあと音をたてている。
雨量としては大したものではなさそうだが、この湿気は如何ともし難かった。
ジメジメとした気持ちの悪さは動きに支障が出るものではないが、無視するには不快だ。平時ならともかく、いまこの状況――――――『探索任務』の遂行下においては、こんな程度のことがストレスになる。
何より最悪なのは、この雨には長時間うたれないほうが良いということ。
『――――――――状況報告。現在、探索中の『下界』上空に、積乱雲が通過中。汚染された『下界』の大気を孕んだ雨だ。長時間当たり続ければ皮膚が爛れる。利用可能な地形があれば積極的に活用せよ。雨を凌げる個所を発見次第、各員『共有地図』にアップロードされたし』
耳元にぶら下がる耳飾り。蒼色の石が淡く光を放つと音声が響いた。
「………了解」
周囲を警戒しながらゆっくりと立ち上がった少年は、ローブを流れる水気を払った。
降る雨でぬかるんだ地面を踏みしめて、周囲を一瞥。全て一色に染め上げられた視界に目を細めた。
僅か数十メルタ先の景色を完全に覆い隠すほどのソレ。濃霧というにはあまりに色濃く、異質な『霧』。
視界不良どころの話しではない。文字通り、一寸先の視界を灰色一色に染め上げるほど。
少年は小さく嘆息し、窮屈そうに口元を覆う黒塗りの仮面に触れた。
口元から鼻の中間部分までを覆う『仮面』は、流麗な文様が刻みつけられ、それが薄らと蒼色の輝きを放ちながら、漂う灰色の霧を跳ね除けていた。
物理的とは思えない不自然な軌道で、仮面の周囲にある霧だけが取り除かれている。
――――――『仮面』の機能は良好………けど、大気濾過機能も保って5時間くらいか。
“活動限界”をそう判断した少年は今の今まで身を預けていた樹の幹から背を離した。
想像を絶する巨大樹。灰色の霧に包まれて聳え立つそれは見上げても先端を窺い知ることは出来ない。霧に覆われていることもそうだったが、何より幹の太さが尋常ではない。数十人が両手を繋いで輪になって漸く、その樹の幹の太さに匹敵するだろうか。それほどに巨大。
樹齢にすればどれほどになるか。永い時を生き続けた大樹はしかし、途方もない生命力に満ちるどころか、生命の息吹を感じさせない、灰色の石同然と化していた。
少年の背中が離れた途端、無数の罅が生まれ、砂塵がパラパラと地面に落ちる。
「現在位置は」
ローブの内側から取り出したのは一本の棒。そこから光が溢れだすと正方形のカタチを描きだした。
光る『画面』に指で触れ、サッと動かす。
「………『拠点』から西方に三千メルタ、『ファレリスの灰樹林』か」
視線の先に浮かび上がるのは、少年の背を預けていた巨大樹と同等の大きさを持った木々。無数に林立する巨大樹、その中で耳が痛い程の静寂と孤独を堪えるように、身を震わせる。
全く度し難い。何度来ても慣れることは出来ない。
だが、当然だ。ここではこれが正しい。何もない虚無こそが、この場の理。緑の植物も、水も、青空も、太陽の光ですら、この地に降り注ぐことはない。
この、灰色に閉ざされた世界――――――『下界』では、それらすべてが死に絶える。
――――――たったひとつの、例外を除いては。
ゾクリ、と。
背筋が凍りつくような感覚とともに空気が、震えた。
今まで響いていた雨音すらも、畏れ慄くかのように一瞬、静まり返った。
「―――――――っ」
息を呑む。
無言のまま、雨に濡れたローブの中から取り出したのは一振りの剣。柄から鞘に至るまで全てが黒一色に塗りつぶされた剣を手に、身構える。
灰色の霧だけが漂う中でピクリとも動かないまま、少年は髪と同じ真っ黒な眼を見開いて辺りを見渡した。
呼吸が早まる。激しい運動はしていない。それでも極度の緊張と汗が滲むのを感じる。
不自然なまでに大きく開いた瞳孔で周囲を睨み付ける。
薄く、鋭く。既に疲弊していた意識を更に鋭敏に尖らせていたからこそ、見逃さなかった。
異質な靄。視界の隅で、灰色一色だった世界に突如として滲みだした、禍々しい黒い霧を。
巨大樹の陰から溢れ出した、空を覆う灰色の暗雲よりも尚ドス黒い霧を視認した瞬間、火花を散らす勢いで剣を抜き放っていた。
ぬらりと水滴に濡れ、怪しく光を放つ漆黒の剣を構えた刹那、爆発的な勢いで黒い霧が膨張していく。
瞬く間に少年が見上げるほどの大きさへと変貌した黒い霧は不気味な音を響かせながら形を変えていき、やがて巨大な四足歩行動物の如き巨躯へと換わる。
獣の如き姿。
けれど、あんな生物は自然界には存在しない。人を遥か凌駕する巨体は隅々まで脈動する黒い霧を纏い、眼に当たる部分には不気味に灯った真紅の光の双眸があるだけだ。
怪物の口から不気味な音が零れ、怪しい双眸がひたと少年を見下ろしている。
耳飾りに手を触れた。
「………第四十八迎撃分隊に通達」
呼吸を整え、その身に降りかかる悪寒を振り払うように、一度息を吐く。
「――――――――環境汚染要因、『魔獣』と遭遇した。討滅する」
少年の全身が、躍動した。
静から動へ。静止していた状態から一気に最高速へと加速する。
視界に写る景色が早送りのように過ぎ去っていく中で、少年は凄まじい速さで前へと駆けた。
ぬかるんだ足元など関係ない。砲弾の如き勢いで走る少年は漆黒の剣を振りかぶると瞬く間に怪物へと迫り。
《■■■■―――――――――――!!!》
怪物が放った咆哮が生んだ衝撃によって弾き飛ばされた。
金属同士が擦れあうような雑音。不協和音の如き『声』が灰色の大気をかき乱し、降る雨の水滴が壁のように押しだされ透明な衝撃波となって荒れ狂う。
大地が抉られ、巨大樹の幹がメキメキと軋みをあげる中、少年の体が宙に浮かび上がるようにして吹き飛ぶ。
勢いよく大樹の幹へと叩き付けられ、肺の中の空気が根こそぎ吐きだされた。
内臓が不気味に震え、喉の奥から血生臭い何かがせりあがってくるようだった。
「―――――――ぐ、ぁっ」
一瞬意識が遠のく。が、その感覚に身を委ねてしまえるだけの余裕は少年にはなかった。
目の前に巨大な怪物の爪が迫りつつあった。光を呑み込むような黒の凶爪。先端が鋭利に尖ったそれが、轟と大気を引き裂きながら迫る。
「っ――――――――」
反射の動き。
思考を挟んでいては間に合わなかった。
咄嗟に体を投げ出した直後、先ほどまで少年の頭があった場所を怪物の爪牙が引き裂いていく。
大樹の幹が無残にも砕け散る。それは、選択を過てば容易に在り得た少年の未来そのもの。
時間をかければ、此方が不利。
少年は口を大きく開き、奥歯の隙間に忍ばせていた錠剤を躊躇いなく噛み砕いた。
旋風すら巻き起こし、少年の姿がその場から掻き消えた。否、消えたと思うほど素早く移動した。
怪物が双眸で捉えることが出来たのは、瞬間移動したかのように懐へと飛び込んでくる少年の姿だけだっただろう。
異常な加速。明らかに常軌を逸した速度を維持したまま、剣が奔る。
「―――――――――ら、ぁッ!!」
黒の剣閃。
裂帛の気合いで振りぬかれた黒剣が怪物の四肢のうち、前足二本を切り落とした。
《―――――――――――――■ッ!!!》
バッと飛び散る黒い飛沫と共に不協和音の咆哮が響く。
勝機。
前足を失ったのだ。今が好機。後ろ足だけで全身の体重を支えられるはずがない。
剣先が駆ける。恐ろしく鋭い刺突。誰が見ても直撃。狙いを違うことはありえない。数えきれないほど繰り返されてきた“鍛錬”の通りに肉体が動く。頭で思ったことを僅かな齟齬なく伝達する全身から繰り出されたそれは最早、人体が魅せる動きとしてはこれ以上ないほど疾く、鋭い。
ゾッ、と大気を引き裂くような音と共に漆黒の剣が獣の躰奥深くへと突き刺さった。
まだ終わらない。そこから真横へと剣を一閃。ざっくりと怪物の腹部が切り開かれた。
真っ赤な血と内臓が溢れ出ることはない。この怪物にそんなものはない。あるのはただ、不気味な黒い靄と、怪物の体内からこぼれる、綺羅と輝く赤い光。
静止はなかった。溢れる光の中心、怪物の体内の奥底へと剣を叩きつけた。
破砕音。
甲高い硝子が砕け散るような、儚い音色が木霊した。
確かな手ごたえ。
「―――――――終わりだ、怪物」
そんなことを吐き捨て、剣を引き抜いた途端、怪物の巨体は爆散した。
黒々とした霧が虚空へと散っていく。怪しい真紅の双眸から光は失われた。
音はない。静寂を保ったまま、怪物の巨躯は少年の剣を前に砂塵となって崩れ落ちた。
残されたのは激しく肩を上下させた少年だけ。
「――――――――『核』の破壊を確認、戦闘………終了」
ふらつき、膝から崩れ落ちる。
全身を襲う激痛と痙攣に必死に耐え、少年は呻く。
「『肉体活性剤』に感謝だな」
先に噛み砕いた錠剤の“反動”に歯噛み。こうなるだろうと予想はしていた。だから行動自体に対する後悔はない。そうしなければあの怪物を討つことは叶わなかった。
少年が持つ素の身体能力では、先の戦闘はできなかった。あれだけ早く動けたのも、尋常ならざる剣を振るえたのも、あの錠剤があればこそだ。
唯人があの怪物を討つには、それ相応の対価がいる。先の錠剤とて、少年を含め全ての『黒兵』に配布されたもの。原則1錠しか配布されないそれを2錠持っていたことは弁明の余地もないが。
「――――――エルフィの奴に感謝だな」
震える体に鞭打って立ち上がり、先ほどまで怪物の巨躯が在った場所を見下ろした。
地面にでかでかと浮かぶ巨大な黒い染みだけが残った。
本当にあの怪物は存在したのか。本当に倒せたのか。何度繰り返しても、そう思う。
………けど、この体の痛みだけは本物だ。
歯を食いしばり、何かを堪えるように少年は拳を握りしめた。
「――――――また一体、倒したぞ」
唇が震える。
その瞬間。
振り払うべきだった悔恨の念に囚われた刹那こそが、この状況に置いて少年が初めて晒した最大の隙だった。
後方。
霧の彼方に浮かび上がる巨大な幻影に気づく。
僅か数秒。何の問題にもならないほどに短い一瞬。
弾かれたように振り向いた時には遅い。致命的な油断は、致命的な結果を生んだ。
真紅の双眸が霧を怪しく照らす。遅れて浮かび上がったのは、黒霧を纏う巨大な怪物の影。
「――――――――――」
驚愕に目を見開く。出来たのはそれだけ。
後はもう、高々と振りあげられた怪物の腕と思しき影が振り下ろされて―――――――
「油断するな、テムジン」
何者かに凄まじい力で首根っこを掴まれ、後方へと投げ飛ばされた。
素早く起き上がり顔をあげれば、大柄な大男の背中が見えた。
少年と同じ黒いローブ。その背に身の丈ほどもある巨大な大剣を背負う男は、霧から飛び出した巨大な異形の腕を、あろうことか素手で受け止めていた。
言葉なく呆然とするテムジンの肩を、誰かが叩く。
「そうそう。随分とらしくなかったね、テムジン。君、眠いからって呆けてたんじゃない?」
傍ら。爽やかさすら感じる声音で言葉をかけてきた青年。
「ヒューイ」
「間に合ってよかったよ」
にこやかに微笑んで肩を叩いてきた青年は大男に視線を向ける。
「隊長。とりあえずアレ、屠りますか」
「無論」
大男の二の腕が盛り上がった。
彼の足元の地面が唐突に陥没、蜘蛛の巣状にひび割れた。途端、その剛腕が唸り、見上げるほどの巨体を持つ怪物の全身が宙に浮いた。
「ふん」
物理的にありえない光景を引き起こした男は、鋭い呼気を吐き、埒外としか思えない腕力でもって怪物を投げ飛ばした。
灰色の霧の彼方へと吹き飛ぶ怪物を見送り、青年は半笑い。
「うわ……相変わらず化け物じみた膂力。敵に同情するなぁ」
「ふざけている場合か、仕留めろ、ヒューイ」
「はいはい、了解っと」
青年は流れるような手並みでそれを構えた。
鈍色の長物。一メルタ程はあるであろう砲身を持つそれ。一般的には銃と呼び称されるものにしては、どこか異質な形状をした武器を構えた彼は薄く微笑んだままトリガーに指をかけた。
「はい、発砲」
轟く発砲音。
甲高く大気に木霊する銃声と共に、吹き飛ぶ最中にあった怪物を超高速の何かが穿ち、貫いた。
彼が構える銃口からは白煙。視認することすら不可能な高速の弾丸。青年の放ったそれが、怪物の額を寸分狙い違わず貫いたのだ。
その弾丸の威力に怪物の巨体が仰け反り、背中から地面へと倒れ伏した。その隙を、男は見逃さなかった。
無言のまま飛び出した彼が背中から引き抜いた身の丈ほどの大きさを持った大剣。黒と赤に装飾された鈍い輝きを放つ剣が、裂帛の気合いと共に振りぬかれた。
剛力一閃。
大気に真空を刻みつけるほどの威力で抜剣された巨大な刃が凄まじい膂力をそのまま伝え、怪物の肉体を文字通り一刀両断した。
甲高い破砕音と共に怪物の体が爆散。深々とした亀裂が大地に刻まれた。
鮮やか過ぎる手並。かくして全ての事は終わった。
その光景をどこか虚無感と共に眺めていた少年は、自分を呼ぶ声に意識を取り戻した。
「テムジン」
「た、隊――――――――ぐっ」
顔を上げた瞬間、頬を殴り飛ばされた。
一回転して地面に倒れたテムジンは頬に感じる灼熱の痛みに歯を食いしばり、殴った張本人を見上げた。
無表情でこちらを睥睨する大男の姿があった。
「何故、援護を待たなかった。一対一で『魔獣』と戦闘を行うことがどれだけ危険か、知らないお前ではないだろう」
「それは―――――――」
「人間と『魔獣』との間には隔絶した差が存在する。単独で挑めば死ぬ。訓練校ですらそう教わるはずだ。それを俺の口から言わせるつもりか?」
何も言い返せなかった。
分かっていた。全部、分かっていた。
それでも。
抑えることが出来なかった。あの怪物を前にすれば、いつもそうだった。
我慢できない。憎くて憎くて仕方がない――――――。
「――――――テムジン、お前が五年前の『虐殺』の生き残りであることは承知している。だが、俺はそれを理由にお前を色眼鏡で見るつもりは毛頭ない」
「隊長」
「反論は認めん」
鋭い眼光が突き刺さる。
「活性剤を連続して服用したな」
「――――――――」
「バレないと思ったか?エルフィからは報告を受けている。あの娘の言葉だ。信憑性には欠けているが、部隊内でそこまでするのはお前だけだ」
男の言葉にテムジンは失敗を悟った。
あの娘、よりにもよってチクったのか、と。
銃を肩に乗せた青年が顔が笑い、呆れたように言う。
「うわ、活性剤を連続して服用なんて、障害が残ったらどうするのさ。確かにアレは正規品で違法な薬物ではないけど、過剰摂取については副反応が大きすぎるって問題視されてるんだから」
「………けど、あの『魔獣』を倒すには」
「遭遇したからって馬鹿正直に戦わなきゃいいのに。曲がりなりにも『三等黒兵』の君なら気配を消して逃げることだって」
「無理だ」
間髪なくそう答えていた。
はぁ、と嘆息した青年は肩をすくめた。
「テムジン。お前の考えを変えようというつもりはない。だが、隊の不和となる要因を見逃すわけにはいかん。身勝手な判断で行った戦闘が如何なる事態を招くかは、お前も――――いや、お前だからこそ分かるはずだ」
ぐうの音も出ない、とはこのことか。
「………すいませんでした、隊長」
正しい。あまりに正しい言葉に反抗する気すら起きない。
単独での戦闘は避け、仲間との合流の後、戦闘を行う。そうすればあの薬だって過剰摂取する必要はなかった。
ここに居る二人は戦闘のプロ。青年は『準一等黒兵』。隊長に至っては『一等黒兵』だ。あんな怪物の一体や二体、問題なく討滅できたに違いない。
(―――――でも)
止められなかった。あの怪物を前に冷静な判断なんて、到底できない。
いつだってそうだ、アレを前にすれば。全身を焼くほどの憎悪には、抗えない。
それを言葉にすることはない。そんなことを言っても意味がないことくらいは、テムジンにも分かっていた。
「ところでテムジン。君、あの活性薬を重複したのって、今回が初めてだよね?」
とりあえず、周囲に危険が無いと判断した青年が振り返りざまに声をかけてきた。
「この後はキツイ。頑張って、耐えなよ」
「?」
青年に何事かを言い返そうと思った瞬間。
ぐらり、と視界が歪んだ。
全身から感覚という感覚が消えた。
気がつけば、真横に、地面へと倒れていて。
前もってそれを予想していたかのように駆け寄ってくる二人を見上げながら、テムジンの意識は途絶した。