幸せな毎日
「…え?」
思わず声が出た。
額から流れてきた汗が画面に落ちる。
心臓の鼓動が意味もわからず早くなっていく。
送られてきたメッセージには、今日だけで五十点も減点されていることが書かれていた。
訳がわからない。
今日は朝から織江さんと楽しい一日を過ごしていたはずだ。休み時間のたびに話をして、昼は一緒に昼食、帰りも二人きりで、連絡先の交換もした。何もかもが上手くいっていた。幸せな時間を過ごしていた。仮の期間ではあるが、減点の話なんて一度もなかった。
なのに、なんで⁉︎
こんなメッセージが送られてきた意味がわからない。
今日は朝から予想外のことばかり起きる。一旦落ち着かないと…
僕は焦る気持ちを抑えるように、ゆっくりと息を吐く。織江さんのことだ、何か考えがあってこんなメッセージを送ってきたのだろう。ここで取り乱したら、それこそ幻滅されてしまう。今日一日夢見がちだったけど、僕は今試されている立場なんだ。まずはどこを直さないといけないのか、それが大事だ。減点された理由がわからないとこれから毎日同じことで減点されて、あっという間に持ち点がなくなってしまう。
なるべく丁寧にと心がけてメッセージを書く、
「今日は至らないことばかりでごめんなさい。本当に申し訳ないのだけど、どこで減点になったのか教えて欲しいです。明日からは必ず直せるように気をつけます。お願いします。」
すぐに送信して、返信を待つ。いきなりの減点の知らせには驚いたが、まだ点は残っている。どこを直せばいいかがわかれば対策ができる。一つずつ直して織江さんの理想の男性像に近づけばいいんだ。自分で自分を励ましながら織江さんのメッセージを待つ…
何時間か経った頃、スマホが振動した。すぐに手に取ってみると、織江さんからの返信だ。返信が届くまでの数時間、気が気じゃなくて何も手につかなかった。待ちわびた返信に少しだけホッとしてメッセージを開く。
・朝ギリギリに登校してきた
・私から挨拶した
・授業中まったく発言なし
・昼食の場所取りしてない
・他の女子と話しをしていた
・自分からは話しかけてこない
・連絡先を聞こうともしない
………
・帰りも誘いにこない
織江さんからのメッセージには箇条書きで50個、僕の至らない箇所が書かれていた。直さないといけない箇所が多くて、一瞬気が遠くなる。
だけど、ここに書かれたことを直さないと、僕は織江さんと付き合っていられなくなってしまう。
直さないと、直さないと。直さないと!
今こうして過ごしている時間も惜しい。今から出来ることがあるはずだ。
何とかしないと、明日からは減点されないように…
翌日、僕はいつもより数時間早く家を出て学校に向かう。早朝の学校は静かで、まだ数名の教師と部活の朝練で来ている生徒くらいしかいなかった。誰もいない教室に着いてすぐに勉強の道具を広げる。昨日は結局、寝ずに今日の授業の予習をした。減点対象の一つに授業中に発言しないことが挙げられていたからだ。元々、そこまで成績がいいわけじゃない。普段の授業も苦手な教科は付いていくのでやっとだった。でも、そんなことでは成績学年トップの織江さんとは釣り合わない。すぐに追い付くのは無理でも、追いかけていかなければいけない。その姿勢を見せて行くにはテストだけじゃなく普段の授業からだ。
ただ、一晩徹夜しただけでは、時間が足りなかった。だから早朝の教室でも予習の続きをする。昨日は朝ギリギリに登校したことも減点対象になってしまったから丁度いい。やっぱり委員長たるもの、普段の生活から大変なのだと実感する。認めてもらえるように頑張らないと!
コーヒーと栄養ドリンクで眠気を抑えながら勉強していると、ポツポツとクラスメイトたちが登校してくる。みんな僕が朝から勉強しているのを見て驚き、彼女ができるといいね〜なんて陽気に声をかけてくる。正直、それに笑顔で返す余裕はなかった。曖昧に返答して勉強を続ける。
そうしているうちに織江さんも登校してきた。僕はすぐに席を立って織江さんに挨拶をしに向かう。昨日は織江さんからの好意に甘えて、まったく積極性がなかった。もちろんそれも減点されているので、今日は自分から話しかけに行く。
「お、おはよう!織江さん!」
「七瀬君、おはよ!今日は早いんだね。」
「うん、これからは早く来ようと思って、朝の時間を有効に使えるから。」
「ふふ、偉い偉い。 あ、勉強もしてたの?」
「うん、一応今日の授業の予習をね。」
「なんだか今日はやる気だね。そういうのカッコよくていいと思うよ!」
「ほ、ホント⁉ ありがとう!」
しっかり頑張ってよかった。織江さんから褒めてもらえた瞬間から身体のダルさと眠気が吹き飛んだ。でも、ここで満足したら何も変わらない。このまま昨日減点された箇所を一つずつ直していこう!そう僕は、あらためて決意を固めた。
「では、この問題を解ける奴はいるかぁ?」
「はい!先生!」
「お、七瀬か、珍しいな。じゃあ前に来てやってみなさい。」
「はい!」
「うん、正解だ。しっかり勉強しているな。」
「ありがとうございます!」
正解して先生から褒められると、「お~」とクラスメイトたちから感嘆の声が上がる。僕は自分の席に戻りながら織江さんを見る。彼女は僕を見て満足そうに頷いていた。それを見てホッとする。
よかった。大丈夫だ。なんとかなる。他の教科でもこの調子で積極的に発言していこう。
午前の授業を一晩中予習したおかげで、しっかりと乗り切れた僕は、昼休みになると同時に教室を飛び出す。真っ先に向かうのは学食だ。先生がいない場所では廊下を走ってできるだけ早く学食へ向かう。学食にはまだほとんど人は来ていなかった。一番人気の窓際は学食から一番近い位置に教室がある3年生がすでに座っていたので、僕は少し広めのテーブル席に座り、すぐに織江さんにメッセージを送る。
「学食の席が取れました。もし、よかったら一緒に昼食を食べませんか?待っています。」
少し不自然な感じになるが、丁寧さを意識して文面を作る。送信したら後は織江さんが来てくれるのをまつだけだ。
学食もだいぶ人が来て席がなくなってきた頃、織江さんがやってきた。少し不安なところもあったけど、よかった。来てくれたんだ。僕は喜び勇んで立ち上がり、織江さんに向かって手を振る。織江さんも僕を見つけたようで、こちらに来てくれた。
「七瀬君、席ありがとうね。あ、注文しないで待っててくれたの?」
「う、うん。気にしないで、一緒に食べたかったから。」
「そっか、ありがとうね。」
「僕、このまま席確保しておくから織江さん先に注文してきていいよ!」
「ありがと!じゃあ先に行ってくるね。」
「うん!」
笑顔で注文をしに行く織江さんを見送る。昼食もなんとか乗り越えられそうだ。
昼休み中の織江さんは機嫌が良さそうで、きっと僕はうまくやれているんだと確信が持てた。
午後も、この調子で頑張らないと。
教室に戻ってきた僕が眠気を抑えるために栄養ドリンクを飲んでいると数人の女子生徒が話かけてきた。
「七瀬君、今日はいつもと違うね。」
「やっぱり彼女ができると張り切っちゃうの?」
返答する前にチラっと織江さんを見る。
目が合った。
「うん、相応しい人になれるようにね。あ、授業始まっちゃう前にトイレ行かないと!」
返答は最小限にして僕は席を立つ。昨日は他の女子生徒と話をしたことも減点になっていた。けど、無視をしたらそれも減点になりそうだ。一言返してその場を離れる。これが最善のはず。教室を出る時にもう一度織江さんを見る。彼女はもうこちらを見ていなかったが、表情はよかった。きっとこれでよかったんだ。
その後の午後の授業も午前中のように挙手して発言し、休み時間になったら織江さんのところに話をしに行き、しっかりとした態度で過ごした。これで昨日送られてきた減点箇所のだいたいは気を付けて改善できたんじゃないかと思う。
そして、最後。放課後になり、みんなが部活の用意や帰りの支度をしている中、僕は織江さんのもとに向かう。一緒に帰る誘いをするためだ。
「織江さん。今日は帰りどうかな?予定がなければ一緒に帰らない?」
「七瀬君、今日はゴメン。クラス委員の集まりがあるの、待たせるのは流石に悪いから。」
「そ、そうだったんだね。気にしないで、明日一緒に帰ろう!」
「じゃまた明日ね。」と織江さんは足早に教室を出て委員会に行った。
これはセーフなのだろうか、たぶん大丈夫だ。僕から誘いはしたし、理由は委員会で特に僕に悪い理由があったわけじゃない。今日はこれで終わりなんだ。
自分でもよくわからなかったけど、その時僕は少しホッとしていたような気がする。
昨日とは違い一人で帰る。帰り道の時間も有効に使うために、今までは持っているだけで使わなかった参考書を開いた。
家についてからは、家族が買っていた栄養ドリンクをもらい部屋にこもる。今日をうまく乗り越えられたのは昨日寝ずに勉強をしたからだ。明日の分も今日のうちに予習して完璧にしておかないといけない。明日も授業はあるのだ、当たり前だけど。毎日、毎日授業は進んでいく、それをすべて完璧にこなしていかなければならない。これから、毎日…
暗くなってしまいそうな心を吹き飛ばすように頭を振り、僕は勉強を始めた。
夕飯を軽く済ませて勉強を続けているとベッドに置いていたスマホが振動する。手を止めて確認すると織江さんからのメッセージだった。
今日はきっと褒めてもらえる。認めてもらえる。
そう信じて僕はメッセージを開いた。