小説のビジュアル問題の続き ~面白おかしい題名なんて毎回思い付きません!悪役令嬢は叫ぶ!~
以前のコラムで、小説が脳内に生成するビジュアルの問題について取り上げたと思います。覚えてない方は読むように(PV古事記行為)。
この点における前回の趣旨は、まとめると「アマチュアの書いたなろう系剣と魔法ファンタジーは文章から読者の脳内に作り出されるビジュアルで個性が出せない」と言う拭い去れない欠点の指摘でした。
と言っても共感覚と言う概念を持つ人なら分かるかも知れませんが、文体や内容から「この小説はクリーム色っぽい」「この作品はオレンジと緑がマーブル」と言う感じの捉え方、また音──音読と言う事じゃなく意味自体はないSE的なもの──とかに変換なんかも出来てる人はいます。ボクダヨ。しかし暇つぶしに無料で読むようなアマチュア作品を、そういう見方してくれるのを作者側で期待するのは全くの無意味でございます。共感覚ってやれって言われてするようなもんじゃなし。
まあ今回そういった話じゃなく、小説とビジュアルのギャップについてはもっと語れることがあるんじゃないかと思いついただけなんです。許して。
ところで小説とビジュアルの関係性と言えば真っ先に「挿絵」が来ると思うんですが、その次にコミカライズ版と言うのが頭に浮かぶのではないでせうか。
そんななろう系の漫画化として最も有名なモノと言えは?
そうだね!黙れドン太郎だね!
原作:kt60の「物理さんで無双してたらモテモテになりました」のコミカライズ版を担当したえんど先生による主人公の例のワンシーンから来た名称ではありますが、この漫画版は他にも「オムツライオン」「でかいホラーマンみたいな骨?」などネットミームを大量生産した事で有名です。
ビジュアルが余りにもアレ過ぎて、と言う悲しい理由ですが。
えんど先生の画力の問題と言えばその通りですが、正確に言えばバトルアクションやモンスター作画に対しての適性があまりにも無かったのです。美少女ハーレムでHしまくりと言う点の絵においてはむしろ本領に近かったし、えんど先生も自覚があったのか最後の方に行けば行くほど戦闘がキンクリされますしね。
物語を文章として書き出す際には絵とか映像を頭に浮かべながらと言う事は多いので、kt60氏による原作で黙れドンを書いた時点ではひょっとしたら平野耕太とか藤田和日郎だったかも知れない。
えんど先生もそんなイメージだったかも知れない。
でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、ロック。
おとなになるってかなしいことなの。サラマンダーよりずっとはやい!
と言ってもこのシーン、実は女の子相手に凄むとこでそこまで怖くするのもどうか。
まあそんな黙れドンも連載終了しえんど先生は現在何をしているかと言うと……。
「うう、できません(能力的に)…!私の仕事は、自分じゃパンツも履けないポンコツ先輩を介護するえっちコメディをお届けする、ことだからっ…!」
「違わないよ?(聖母smile)」
と言う感じで無事限りない大地に旅立ちめでたしめでたし。
さて、小説を読む際&書く際に多くの人は映像イメージを浮かべながらやっているであろう、という点に言及しました。
実は以前のナーロッパコラムに付いた感想で、「読みながら映像はイメージしてない」という興味深いものが一件ありました。私には他者主観の内面など想像もつかず、この人一体どうやって小説楽しんでるんだろうな?純然たる文章的理解力のごり押しみたいな特殊能力かな、みたいなことは色々考えましたが、ここから先はそういうタイプの人には全く無意味なものが多くを占めることをご理解ください。
小説の脳内ビジュアル化については、漫画と切っても切り離せません。
絵の設定されていない小説を読んで脳内に浮かぶ映像が特定の漫画家の絵柄、と言う事は非常に多いです。恐らくは日本人の多くは教科書なんかで文章で親しむより遥かに漫画に慣れ親しんでいると言う日本語学者涙目の状況によるんですが(漫画の文章読むのにもある程度言語能力が必要なのはさて置いて)。そうじゃなくアニメやゲームっぽい映像の場合もあるんでしょうかね?
まあ基本は漫画であろう、と言う前提で行きます。
小説の書き手が多少以上に漫画のセンスも持ち合わせる場合、文書を作るのと同時並行で頭の中にコマ割り済みのページが出来上がる事があります。実際にそれがスマホやPCやノートに作られることが無いにしろ、脳裏だけで漫画用ネームが中途半端に切られている、と言える状況ですね。
そして文章と脳内漫画のギャップは、まずバトルとかアクションとかの激しいシーンで顕著になります。
例えばこんな感じの見開き。
読み順は右から左です。
完全に下書き以外の何者でもない状態で申し訳ないけどご覧の通り作画カロリー高い感じなので堪忍してつかぁさい。
漫画的ネームが浮かんでから小説にするパターンの場合、絵のまま小説にするなら一撃防いだのを更に押し込んで~、とか野獣の眼光とか狂ったような嬌声が、とか色々入れたくなりますよね。でもそう言うくどめな表現を入れたのは「この見開きを見たまま」ではあっても、「この見開きから受ける印象」の再現にはなりません。
このシーンの印象通りの小説版はこうです(一例)。
──────────────────────
田中は恐るべき速度で山田に接近!
両手の爪による嵐のような乱撃が山田を襲った!
キンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキンキン!
「オラオラオラどうした山田ァ、守ってばっかりかァ?!」
──────────────────────
どういう事かと言うと、この見開きは書き込みや構図とか結構大変なんですが、その反面一瞬で読み飛ばす種類のページでもありますから。作者本人が感じているスピード感を小説の方にも乗せるとこの位短くしないといけないんです。
ダブルクロー田中君やそれに対応する山田君の細かな表現は、スピード感の要らない前後の場面に放り投げるべきなんです。だってここに入れちゃうとかったるくなるし。
漫画の場合、作画カロリーとそのページを見てもらえる時間は必ずしも比例しないものなのです。すごく、悲しみ。
そして厄介なのが、仮にこの小説が書籍化&プロの漫画家によるコミカライズと言う所まで行けた場合です(僕のこれがそうなるって意味じゃないよ)。
脳内ネームから実際の小説の文章上に抽出され残っているのは山田君に急速接近する田中君とキンキンキンキン、そして田中君のドアップだけです。漫画家はこの文章だけを頼りに仕上げないといけません。
ほぼ確実に、↑で出ていた作者の脳内ネームとはまるっきり別物になるでしょう。恐らくはアッサリ流される感じの2~3コマ程度で、下手すると1ページの半分も埋まりません。
仮にスピード感重視の印象ではなく脳内ネーム克明描写版小説を漫画化されても、多分ねっとりうざったい感じになるんじゃないでしょうか。漫画家さんに事実上の添削してもらう前提ならそれでいいかもしれませんけどコミカライズの負担が増える……。
まあ高い圧縮率で不可逆変換されたものから元の形を正確にデコードできる漫画力とかチート能力の類でしょうけどね。それに漫画にするならプロの漫画家の手によりアレンジされた方が上手く行くのも期待できますし(場合による)。
以上は「脳内ネームをそのまま文章化したらスピードが死ぬページ」についての例ですが、逆のパターンもあります。
即ち、事実を描いた文章だけだと足りない場合です。
例えば、山が吹っ飛ばされた姿のシーン。
古代の大魔法かドラゴンのブレスによるものか分からないけど山が吹き飛んだシーンがあったなら、文章による正確な描写自体は「山が吹き飛んだ。」で試合完全終了です。
しかし漫画のネーム的にこのシーンを思いついたなら、恐らくは見開き、そうでなくともかなりの大ゴマになるはずです。このコマは先述のスピード感で流す戦闘シーンと違い、目を止めて欲しい所になります。
ここでの目を止めるとは時間的に長い、という以上に「読んだ際に感覚的に目を止めている時間を長く錯覚する」つまり“印象に残る”という意味になります。
それを山が吹き飛んだの一文で済ましてしまうのはマズイ。
金髪を逆立てた超人達ならお通しのお新香感覚でポリポリ破壊できるでしょうが、たとえナーロッパなファンタジー世界でも普通はそうじゃないですからね。そういう作品もあるけど。
取り敢えず前後の行を大きく開けて「山が吹き飛んだ。」とやるのは最もお手軽ではあるんですが、それが嫌ならちょっと工夫するしかありません。
例えば、どのような大きさかを数字で間接的に表現する場合。
「A級冒険者が3日掛けて登る急峻なる山岳、その中頃から上が消し飛んだ。」
標高○○mの山が、と直接言うのは扱う数字自体が大きすぎて微妙にイメージが難しいんです。ナーロッパの測量技術との兼ね合いもありますし。スカイツリーを直接見た事あるなら634mがどのぐらいかから頭の中で想像はしやすくなりますが。あ、A級冒険者さん物差し役お疲れ様です。「ウィーッスまたよろしくッス」
またタイムスケールと宗教的荘厳さを組み合わせて物理的にもスケールがでけえんじゃね?と錯覚的に思わせるやり方。
「○×族がこの地に移り数百年見守り続けてきた霊峰の山頂が、大きく抉られていた。」
単純にドドドドドとドを大量に打って擬音でスペクタクル感を演出するのも手です。
山頂付近が青く霞んでいた山が、と空気遠近法を文字にするのもいいでしょう。
あといきなり歴史を語り出して比較するという手法も無くもないです。
「大帝国史上最も偉大とされる皇帝。
彼の最大の偉業は、国土を分断する山脈を切り拓き大動脈となる街道を整備、その後の永きにわたる大帝国発展の礎を作った事とされている。
国中から掻き集めた土魔法使いを含む無数の人夫。計上するのも馬鹿馬鹿しい程の莫大なコスト。そして完了まで100年近く、彼の死後にも渡る事になった長い期間。
それらが惜しみなく投入された大土木工事は文字通り、地図を書き換えた。
そんな、人類史最大の事業が作り出した物に匹敵する余りにも巨大な断裂が、ただの一撃で刻まれたのである。」
まあ最後のに関してはコミカライズの際に花山VSスペックの戦いを観戦していた片平巡査みたいな感じになりかねませんが。長々説明したいんじゃなくあくまで「漫画の見開きでの山破壊シーンに相当する印象を文章で与える」のが目的なのでご利用は計画的に。
さて、今まで「小説のプロットが頭の中で漫画のネーム的に出来る場合がある」人限定で(ひょっとしたら結構数多く存在するかもしれないけど)脳内漫画ネームを文章に落とし込む際に気を付けるべき、工夫すべき事をちょろっと解説してきました。
しかし残念ながら、それが効かないケースと言うのも存在します。
そもそも漫画から小説に変換できないシーンがあるのです。
具体例を挙げます。
例えばスチームパンク的な世界観で、小型艇に乗ってドンジャーク帝国さん(仮)の空中戦艦から逃げるシーンを言うのを描写してみるとしましょう。
私がこれを漫画で描くとしたら、次のような見開きは絶対入れます。
我ながら途中で諦めた感がスゴイ。
しかし小説で出すとしたら、このページに当たる表現は一文字たりとも入れ様がありません。だって文章として語るべき情報が事実上ゼロなんですから。敢えて言うと雲がある事と擬音と位置関係ぐらい?
上に貼った見開きに込められた情報と言うのは浮遊感とかスケール感とか緊迫感に迫力、そういう“雰囲気”に属する物ばかりなのです。小説ならもっと情報として意味のある他の所に織り込んでしまうべきです。
でも漫画だったら入れます。
そのほうがカッコイイと私は信仰しているから。
絵や映像で物語る場合、ただカッコイイだけの演出が許される度合いが文字だけよりも遥かに大きいんです。お金のかかったハリウッド映画でもよくあるでしょう、銃弾が飛んで来たら急にスローモーションになってボンデージっぽいねえちゃんがグルグル回るカメラワークの中スタイリッシュに回避する奴。起こった事は「弾を避けた」以上でも以下でもなく、ストーリー上特に重要でもないのに。
つまり「絵でカッコイイ、キマってる」だけで演出に尺やコマを割く価値が生まれるんです。またその場面のテンポや緩急をこの演出で調整する事も可能です。
オーディオドラマでも、セリフやBGMもないのにそこそこの時間ゴゴゴゴゴとかドドドドドみたいなSEだけで起こってる事を表現する事も出来なくもありません。
一方、小説でやっても純粋に空白にしかなりません。
こう言うのに当たる表現をどうしても入れたいなら、次の瞬間に亡き父の乗る飛行船の幻影が嵐の中に一瞬見えたとか、そこまで行かなくとも景色に感動したでもいいので何かしら意味のある描写と関連付ける必要があります。虚無コワイ。
そんなわけで長々と書いてきましたが、この脳内漫画と小説とコミカライズ(あれば)のギャップの心配があんまりいらないジャンルについても付け加えておきましょう。
悪役令嬢ものです。
いや、これでは正確ではないどころか重大な誤謬がありますね。
正しくは「少女漫画を読んで育った女性作家がその文法に則って作った作品」です。
ぶっちゃけ悪役令嬢である必要すらありません。このカテゴリで最も目立って多いと思えるのが悪役令嬢ものというだけで、最早名作となったnot悪役令嬢である「本好きの下剋上」が同種の中では最大タイトルですし。
(と言うか令嬢と言うワードが放送禁止用語に引っ掛かるから一連の作品が事実上アニメ化できないって本当でしょうか?……はさておいて)
少女漫画をある程度以上読んだ方ならわかるでしょうけど、男向けの漫画と比べてあんまり絵的にアクロバティックな事しないんですよね。バトルとかアクションは内容的に必要な場合でもアッサリ終わったりほとんどキンクリしたり。↑↑↑に貼り付けた山田VS田中的なのは、もしジャンプに近い物があったとしてもリボンとか別マとか花とゆめとかで見る事は絶対ないと思います。
いもけんぴとか頭がフットーとかそのキレイな顔をフッ飛ばしてやるとかは違う意味でアクロバティックだけどここでは横に置きます!覚悟の準備をしておいてください!いいですね?
大体男漫画におけるバトルとかアクションの部分には少女漫画では告白とかキスが来るんですから、そもそもゴールと言うかコアが違うんです。
また女性向け漫画で架空ファンタジー世界の架空戦記とか結構有名な作品がいくつもありますが、合戦シーンだけベルセルクだったらそれはそれで困りますよね。ちょっとだけ見たい?ボクモダヨ。
また内容もそうですけど、構図とかでも少年バトルマンガに見られるようなカメラ持った人が飛んだり跳ねたりグリングリンする風なシロモノはあんまり見られません。
映像ギャップが生じ難いと言うのは、このアクロバティックな事をほとんどしないという事に起因するメリットです。アクロバティックじゃない=基本的に会話劇で進むと言う事で、小説と漫画の双方向コンバートが比較的容易になっているのです。
まあ原作小説家・コミカライズ漫画家本人に聞いたら画像化において思った以上の葛藤がある可能性はありますが、少なくとも読者の視点から見たら小説の文章だけ読んだ場合の脳内映像と漫画版のビジュアル的な齟齬、違和感は非常に低いように思います。
だが男が書いた悪役令嬢。てめーはだめだ。
すぐ敵を八つ裂きにしようとしたり軍勢の真ん中に大魔法ぶち込んだり、鍛えすぎてイチモツが生えたマッチョな肉体で落ちながら戦ったりするような連中は少女漫画の文法を学びました風な皮を被るのをやめろ今すぐやめろ。
そんな感じで小説のビジュアルとコミカライズについてエディー・マーフィーの軽妙な語り口の1000回劣化クローンの落としたガムの紙程度の品質で語って来ましたが、いかがでしたでしょうか?
最後に、なろう小説とコミカライズが奇跡のベストマッチを見せている原作:どらねこ、キャラクター原案:レルシー、漫画:小野寺浩二の「魔法?そんなことより筋肉だ!」を推してまとめとさせて頂きます。
まじで小野寺先生のオリジナルですって言われてもわからねえよ、アレ……。