今日も二人はエデンの園で
旧約聖書の中で、最初の人間が暮らしていたとされているエデンの園が、どこにあったのか、今ではあやふやになっているけれど、そこにはあらゆる植物が生え、あらゆる動物がいて、最初の男であるアダムは、主なる神がアダムのあばら骨から作った最初の女を伴って、園を耕したり、好きな時に園内に実る果実を食べたりして、のどかに暮らしていたらしい。
アダムは、全ての生き物にふさわしい名前を付けたけれど、女の名前は、その時点ではまだ付けていなかった。うっかりしていたのかもしれないし、良い名前をつけようと、じっくり時間をかけていたのかもしれない。
いずれにしても、名前がまだ無かったせいか、女には少しばかり考えの浅い所があった。
ところで、エデンの園の中央部には、『命の木』と、『善悪を知る木』という、二本の木が生えていた。
主なる神は、「園内のどの木からも、実を取って食べていいが、そのうち、『善悪を知る木』の実だけは、食べてはいけない。必ず死ぬから。」と、アダムと女に命じてあった。
ある日、女はアダムに聞いてみた。
「あの、二本の木のうち、善悪を知る木って、どちらなのかしら?」
アダムは「ええとね。」と、木の方を長いこと眺めていたが、驚いた事に、どちらが善悪を知る木で、どちらが命の木なのか、忘れている事に気が付いた。あらゆる家畜と、空の鳥たち、そして野のすべての獣の名付け親であるアダムは、記憶力に限界があるとはいえ、それらの生き物であれば、顔さえ見れば、かろうじて名前を思い出せる程度には暗記できていたのだが、植物にはまだ、名前を付けていなかったし、エデンの園の中央にあるこの二本の木には、最初から主なる神自身が名前を付けてくれていたので、木について教わった時はしっかり名前を覚えたつもりでも、危ない木だからと関わらないようにしているうちに、いつか膨大な記憶からこぼれ落ちてしまって、改めて女から問われてみると、どちらがその実を食べてはいけない木だったか、あやふやになってしまっている事に気が付いた、というわけだ。
アダムは、「忘れちゃった。今度主なる神が来た時に、もう一度教えてもらっておこう。」と言った。
女は、「そうしてね。だって、命の木の実の方は、食べてもいいのだから。実は私、エデンの園にある実という実を、全部食べてみる、という目標を立てて、毎日新しい実を見つけるのを、楽しみにしているの。でも、あの木のうち、どちらかの名前が分からなければ、いつまでたっても、命の木の実を食べる事はできないわけでしょう?目標が達成できなくなっちゃうわ。」
「確かにね。」
アダムは、エデンの園の管理を楽しんでいる自分と同じように、女もこの園で、楽しみを見いだしている事が、嬉しく、また、微笑ましくも思われた。
そんな二人のやりとりに、そばの草むらで聞き耳を立てている者がいた。
よこしまなへびである。
ちなみに、この頃のへびというのは、他の陸上動物と同じように、地を這わないで済むような脚のある姿をしていた。
二人の話が家畜たちの話題に移ると、へびは用心深く脚音を忍ばせて、草むらから去って行った。
数日後、アダムと女は、午前の園内の見回りを終えて、園の中央の日当たりの良い野原に座って一休みしていたのだが、そこへ、先日のへびがのっそりと現れた。へびはアダムが心地良い陽気に誘われて、草に寝転んで両手を枕にしてうたた寝し始めたのを見計らって、そっと女に歩み寄ると、遠慮がちな声でこうたずねた。
「エデンの園にあるどの木からも実を取って食べてはいけないと、主なる神はおっしゃったのですか?」
女は、動物から話しかけられたのが、オウムとインコと九官鳥以来だったので、嬉しくなって、へびの方に身を乗り出すと、「園の木の実を食べる事は許されているの。でも、『 園の中央にある木の実だけは、死んでしまうから食べてはいけない。』って言われているわ。」と答えた。
へびは、はばかるように、あたりを見回してから、女に頭を寄せ、いっそう声を低くして、「死にはしませんよ。主なる神がその実を食べさすまいとするのは、あなた方が善悪を知って、主なる神のように賢くなる事を恐れての事なんですから。」と言った。
「まあ、そうなの。」
女は、あらためて、背後の二本の木を見た。
どちらも形の良い木で、たくさんの実がぶら下がっていて、またどの実もいかにも食べ頃に熟していた。
女はへびにうながされるまま、片方の木の、より美味しそうな実をもごうとした。
その時、アダムが浅い眠りから目を覚まして「ううん。」と背伸びをした。
「あ、アダム。」
女は振り返って、眠そうに目をこするアダムの横にしゃがむと、先ほどのへびの話を熱心に語って聞かせた。
園の中でも最も特別な実の味を、いよいよ知る事ができるという喜びと、アダムにも実を食べさせれば、主なる神のように賢くなり、もっと素敵な男性になるに違いない、という期待感もあった。
アダムは、寝ぼけ眼で女の話を聞いていたが、聞き終わると、「まあ、そう急ぐなよ。まずは、主なる神に、どちらがどの木なのか教えてもらおう。」と言った。
「どちらが命の木でも、もう構わないのよ。だって、たとえ善悪を知る木の実を食べても、私たち、死なないんだから。それに、主なる神を待っている間に、実は熟し過ぎてしまうと思うわ。ほら、今ならあんなに美味しそうに熟しているじゃない。あなたも、食べられるものなら食べてみたいって、この前話していたじゃないの。ね。死なないんだし、むしろ私たちのためにもなる事なのよ。何にも心配する必要はないの。早く食べてしまいましょうよ。」
女は、実を食べる事をアダムに賛同してもらいたくて、うきうきした調子で矢継ぎ早に言葉を重ねた。
しかし、アダムは、「うーん。」とか、「そうだなぁ。」と、煮え切らない返事ばかりして、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。
「どうしてあなたは、こんなに良い話を、ぐずぐずしてどうするか決め切らないの?」
しびれを切らした女が、半ばあきれてたずねると、アダムは起き上がって座り直してから、
「僕らは、主なる神に作られて、このエデンの園を管理しているんだから。そんな偉い人に背くような事は、すべきじゃないと思うよ。」
「まあ。」
女は、普段大人しくて願い事は大抵聞いてくれるアダムから、きっぱりと断わられて、傷付くと同時に言葉に詰まった。
そこで、味方をしてくれないかと、へびを探したが、どこに行ったのか、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
「いいわ。あなたって、いくじなしね。じゃあ、主なる神が来るまで、待ってあげる。でも、主なる神が来るまでよ。分かったわね。」
女から念押しされても、アダムは結局、明確な返事をしなかった。
女は、しぶしぶながら、それで辛抱するしかなかった。
しかし、善悪を知る木の実を食べてみたいという誘惑が、女から消え去ったわけではない。
現に、今も、二本の木にたわわにぶら下がった瑞々しい果実の方を、時折遠く近くから、物欲しそうに眺めている女の姿を見かける事がある。(へびがそのそばに寄り添っていた事すら、一度や二度ではないのだ。)
それに、たいていの若い女は、甘い物には目がないと相場が決まっている。
彼女の目の届くところに、ひけらかすように特別な効能のある甘味をぶら下げておけば、どうなるかくらい、主なる神には考えてほしかったと筆者は思う。
実際、この状況は、食べることが主な生きがいになっている女にとっては、あまりにも誘惑が強過ぎたとさえ言える。
甘い物が大好きな読者の皆様の中にも、この主なる神の采配について、意地が悪過ぎるのではないかとお考えになった方も居られるのではないだろうか。
しかし、筆者は一方で、主なる神というのは、案外抜けたところもある、不完全な存在だったのかもしれない、という見方もしていて(専門知識は豊富だが、世間知らずな科学者、といった印象)、そうなると、物事を行き当たりばったりで決めるものだから、結果として問題が生じやすくなっているのではないか、という推論も立つ。
それが事実であれば、女やアダムがもし、近い将来善悪を知る木の実を食べてしまったとしても、それは主なる神によって置かれた環境や、周囲からの影響による不可抗力もあっての過ちなのだから、主なる神には、そんなにひどい罰を、彼らに与えないでほしい、と筆者は嘆願したくなる。
彼らは主なる神と同じで、抜けたところもありながら、根本的には、どこにでもいる、実に素朴で愛すべきところの多い、善良な人々なのだから。
完