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オパラス  作者: 柘榴真
I部
9/9


 蝉が鳴いている。今日も先日までの雨を忘れたかのような快晴であった。僕はクーラーを効かせた部屋の中で、閉め切ってある窓の外を眺めていた。日が少し昇ってくると、太陽の光が眩しく、カーテンを半分閉めその光を遮断した。その半分の外の世界は、昨日まで見ていたものとはまるで違い、とても狭く感じられた。

 僕は考えていた。何か特定の事柄について考えているという訳ではなく、ただただぼーっと虚ろに、今にも忘れそうな、いや、もう忘れているかもしれない、そんなものの事を考えながら時間を潰していた。


 『約束ですよ?』

 昨日の言葉が頭に過る。

 その言葉から逃げるようにあちこちへ思考を走らせていたのだと、追いつかれてからようやく気づく。何も考えずにいると、常に時機を逃さんばかりといった様相で、僕の思考に苦痛を苛む何かは現れる。

 彼女の言葉の一つ一つが束となり僕を苦しめる。その言葉たちは叫びをあげながら僕の首を絞め、身体中を鋭利、或いは鈍らな何かでめった刺しにし、ぐりぐりとそれを嬲るように回し、抉る。のたうち回りそうになるほどの苦痛が僕の全身を覆う。僕はその痛みから逃れようと両耳を力強く塞ぐ。しかし、その言葉たちは手をすり抜け直接耳の奥へ、脳へと語りかけてくる。全身を駆け巡っていた痛みが脳へと一気に集中する。脳の細胞一つ一つに干渉が及んでゆく。もはや痛みとも分からぬほどの苦痛、そこに棲みついている正体の知れぬ化物が僕の脳をめちゃくちゃに侵す。やめろ、やめろやめろやめろ、触るな、僕に触るな。その化物は侵攻の手を緩めない。奥へ奥へと、深くまで潜り込み、もはや僕の脳にずっぷり埋まっている。それでも、細かく返し刃が付いていて、裂くもの全てをぐちゃぐちゃに抉るその爪で、暴れ続ける。そして、周りに纏っている言葉どもは狂ったように笑いながら、尚も語りかけてくる。

 『―束ですよ?』『お兄さ―』『こんに―は!』『願―だ――う―――よ』『行―ましょ―よ!』『じ――ゃーん―』『――です』『―た明日―』『絶対―す』『おにい―――』『おはな――な―――』

 脳が支配されていくのが分かる。じわじわと意識が遠のいて行く。何も見えないほど暗く、静かで、なんだかとても落ち着く、そんな深い何処かへと沈んでいく、溺れていく。ひどく疲れ切って、もういっそこのまま終えたいとも思えた。


 うっすらと光を感じる。どうやら瞼が閉じられているようなので、ゆっくりと開く。流れ込む眩しさに目が霞む。目を半開きにしてその明るさに目が馴染んでくると、漸く目を開く。窓の外に目を向けると、日の光が眩しかった。部屋の中央に掛けられている時計に目をやると、昼過ぎだと分かる。さすがに一日以上寝ていたとは考えづらいので、まだ僕の知っている一日だろうと考えた。それにしても、この頃悪夢と呼べばいいのだろうか、そういった類のものしか見ていない気がして、僕はいい加減うんざりしていた。たまにはハッピーでルンルンな気分で目覚めてみたいものだ、と願う。

 そうして考えていると、規則性のある小さな音が廊下の方、遠くから響いて聴こえる。次第にその音が大きくなってゆくのが分かる。おそらく咲希だろう。何度も聴いたので、ある程度の推測はできるようになっていた。聴こえていた音がドアの前で止まり、ノックがなされる、その瞬間に僕は返事をしてみせた。やたらと反応が良く、すぐ開く自動ドアを前にしたかのように、不意打ちをくらい少しの間固まっているのが、扉越しに伝わってくる。そしてドアが開き、ぎこちない顔が覗かれる。

 「どうしたの?」

 「返事が早くてびっくりしちゃって」

 「まあ、わざとなんでしょうけど」

 ばれてる。こうして彼女の反応も次第に薄くなっていくのかと思うと、なんだか悲しかった。これは世の娘をもつ父親の感情に似ているのかもしれないな。などと考えていると、彼女は昨日も持ち歩いていたバッグを漁りながら、言う。

 「そんなことより、今日もお弁当持ってきちゃいました!良かったらまたお外で食べませんか?」

 愛娘弁当とあったら食べないわけにはいかない。僕はすぐさま了承した。


 昨日と同じ場所で今日も昼食を食べていた。先ほど手渡され、今食べている最中の弁当も昨日とラインナップから変わっていて、そしてまた美味しかった。その旨を彼女に伝えると、また嬉しそうに笑い、照れる。こんなに上手なら褒められることなど少なくないだろうに。

 食事をしながら他愛もない話をしていると、途端彼女は体調について尋ねてきた。どうやら昨日のこともあり、それを聞かないといつまでも気がかりである様子だった。「どうも快調だね。先生にも大丈夫だって聞いたから大丈夫だよ」僕は言った。すると、彼女は十年来の溜飲が下がったかのように大きく胸を撫で下ろし、柔らかな笑みを浮かべる。

 僕は騙しているようで心が痛いような気がした。嘘は言っていない。医者にも『とりあえず薬を増やしておきますから、一応は大丈夫かと思います。けれど、苦痛がなくなるわけではありませんので、また苦しくなったら知らせてくださいね。』と言われている。なので嘘ではない。僕が薬だけで済まされているのは、もうじき部屋が変わる、一階層上がるからであった。それが示すことは、ホスピスへの転院というものだった。ホスピス、死との狭間に置いて行かれた者たちのせめてもの安らぎの場。畢竟、治療の困難な患者が、自らの蝋が尽きるのを眺める場所。僕がある程度自由に過ごせていたのも、転院が決まっていたからだろう。

 「そうだ、明後日大丈夫そうだよ。」僕は主治医との会話の中で、最後に外出の確認をとったのを思い出した。それを聞くとやはり彼女は嬉しそうにする。それに今回は仰々しく身ぶりさえしていた。彼女はそんな調子で、弁当箱に一つ残されている卵焼きをほおばる。僕もそれを見て自分の弁当から卵焼きをとろうとする。が、もう無くなっていたので、代わりにプチトマトを口に放り込んだ。


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