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僕は、昨日のあの席にいた。
朝起きて窓の外を見ると、昨日彼女が言っていたように晴れていた、なんてことはなく、今日もどんよりとした天気で雨が降っていた。見る前に窓を打つ水滴の音で気づいてはいたが、一応確認のために目を向けた。その天気を見ていると、昨日の彼女を思い出した。今日のことを楽しみにしていて、晴れだと信じて疑わなかった彼女。
残念だけど、世の中ってのは不条理で不合理なものなのです。
彼女もこうしてこのどうしようもない世界を知っていくのか。と、僕は悲嘆に暮れた。
そして、例によって今日も景色が退屈だったので、朝食から食堂で食べることにした。食堂には、ちらほらと他の患者がいた。朝でも割といるんだな。と考えながらざっと見渡していた目を、昨日の場所へと向ける。空いていた。よかった、という安堵感よりも、あんなに良い場所なのに何故だろう、という疑問が先に湧いた。僕はこの第一号の体たらくを見て、ようやく自分の感性を疑い出す。しかし、ここは本当に良いものだと思うんだけれど。人は、食事の場所などさして拘らないものなのだろうか。
僕は食事を終え、机に顔をだらしなく突っ伏して外の景色をぼうっと眺めていた。外に咲いている何種類かの色とりどりの花を見て、少し驚いた。病院の花壇なんてもっと淡白なものだと思っていたので、こう華々しいものだと思ってなどいなかった。考えを正さないとな。と、虚ろげにそんなことを考えていた。花って綺麗なものだなあ、色鮮やかで……。そうして外を眺めていると、段々と意識が溶け落ちてゆくのを感じた。僕は抗することもせず、ただその随に身を任せることにした。
―――どこかあたたかい。
夢を見ていた。輪郭を捉えることはできないが、確かにそこにある夢。何か、懐かしい感じがする。『これは、記憶?』見えるはずのなかったいつかの、心の情景の数々。僕が捨て去った、いや、封じ込めることにした心の罪人たち。
僕は空虚で、空漠とした世界で一人、自分以外誰もいない映画館にいるように、それを眺めた。彼らは生きているかのようだった。もしかしたら、本当に生きているのかもしれない。一人の映画館、ここより大きな世界で、まるでお伽噺のように輝いている彼らを見ていると、確かにそう思えた。鳥や蝶のように気ままに飛び交う彼らを、僕は必死に目で追おうとした。しかし、無数に存在する彼らをすべて見るのは、この小さな両目では叶わなかった。僕は肩を落として、いつの間にか立ち上がっていた身体を、仮構の席に下ろす。
『また、見ているだけ?』誰かが囁く。――うるさい、少し休憩しただけだ。そう言って、誰かも気にせず僕は再び立ち上がる。そして、僕は彼らのいるその場所へ近づこうと、一歩踏み出す。
刹那、全員の動きが静止する。どうやらこちらの存在に気づいたようだった。僕が驚きで固まっていると、彼らはみるみるうちに黒くおどろおどろしい姿へと豹変し、夥しいほどのその何かが、一斉に僕へと押し寄せてくる。彼らの顔は見えない。これは、復讐だろうか。自分たちを無理やり封じ込めて逃げた僕への、呪いの姿なのだろうか。ごめんよ。そう告げ、僕はそれに呑み込まれる前にこの世界を終わらせた。『またね……』また誰かの寂しそうな囁きが、崩れかけのその世界から漏れる。
『お兄―――!お――――――にい――――』
「お兄さん!」
その声にハッと目が覚める。声のした方を見ると、隣の席に咲希がいた。彼女の右手が僕の背中に添えられている。寝起きの頭の整理がまだつかずにボーっとしていると、彼女が言う。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを見て問いかける。寝起きの頭をどうにか働かせ、考える。次第に周りの音が嫌というほど聴こえてくる。身体中に嫌な汗を掻いている。顔が強張っているのもなんとなく分かる。先ほどまで見ていた夢のせいだ。
「……すごいうなされてましたよ?」
「ごめんね。大丈夫。ちょっといやな夢見ただけだよ」
ごちゃごちゃになっている頭の中を一頻り整理した後、彼女を安心させようと言葉をかける。彼女は安堵の表情を浮かべてくれる。
「それにしても、ひどかったですよ。どんな夢だったんです?」
―――どんな夢だったか。いまいち思い出せない。顎に手をあて思い出そうとするが、駄目だ。掴めそうだと思うと、するりとかわされて、どこかへ行ってしまう。そして、その残滓のようなものだけが微かに残っている。
「くう、思い出せない……」
わざとらしく悔しさを言葉に込める。実際には悔しいという感情はなかった。むしろ、忘れられて良かったとさえ思っているかもしれない。
「ありますよね、そういう時。ついさっきまで見てたはずなのに」
「そうだね。ま、こういうのは思い出そうとしてもしょうがないから、素直に諦めるよ」
不意に彼女の体が小刻みに揺れる。
「ぷ、ふふふ……」
どうやら、彼女は笑っているようで、堪えようとしたが溢れた様子だった。
「……なに?」
何かを予感し、あまり聞くのが躊躇われたが、一応聞いてみることにした。
「ふふ……、顔に……跡が…」
ちくしょう。
こんなところで頭を預けて寝ていたため、何かしらの跡が顔に残っているようだ。それを見て笑う彼女。僕の純情はひどく傷つけられたのでした。傷心の僕を尻目に、彼女は話し出す。
「あ、そんなことよりですねー」
そんなこと。
「お外行きますよ!外!もうお昼ですし」
僕は彼女を悲哀の眼差しで見つめる。可哀そうに……、現実を突き付けられると人はこうなってしまうのか。と、ショックからか雨という概念を忘却した彼女を憐れむ。
「なんですかその顔は!」
「なんでもないよ」
棒読みで返す僕を、ほおを膨らませ可愛らしく睨む彼女。
「そんなにむくれてどうしたの?」
僕は戯けた感じに言う。さらに彼女のほおが膨らむ。おお、こりゃすごい。喜怒哀楽や、その表情がころころ変わるのが面白くて、僕は止まるに止まれなかった。
「雨が降っているけれど、外で食べるのはおいしいかもねー」
そう言った途端、彼女の頬がしぼむ、というか、元に戻った。そしてすぐさま彼女の表情は一変する。なんだか嫌な予感がする。古いゲーム機が妙な音を立て始めた時くらいに、嫌な予感がする。ボスを苦労して倒した後だったり、何時間もレベル上げをした後だったりに、計らったようにそれは訪れたものだ。彼女は悪戯な顔をして言う。
「あれ?今日は晴れてますよー?」
瞬間、僕は窓の方へと目を走らせる。眩しい。先ほどまでの曇り空はどこへやら、快晴だった。
「晴れてますよね?」
彼女は先ほどまでとは打って変わって、陽気なリズムに乗りながら言う。僕は顔を窓の方から動かさずに答える。
「晴れていると言えば、晴れているかもしれないし、晴れていないと言えば、晴れていないかもしれないよね。世の中ってさ」
「晴れてますよね?」
僕が滅茶苦茶を言っていると、彼女は僕の視界に回り込んでから、ゆったりとした強めの口調で詰問してくる。
「……はい」
僕は観念して、屈することにした。勧善懲悪。悪は滅びるのだった。
「ふふ、それじゃあ、行きましょうか」
彼女は満足したようで、僕の手をとり、導く。彼女の反対の手には可愛らしい水玉模様のトートバッグが揺れていた。多分お弁当が入ってるんだよね。大丈夫かなあ。弁当の心配というより、崩れてしまったそれを目にした彼女の落ち込みようが心配だった。
年下の少女に手を引かれて歩く。普通に考えたら色々とおかしいのだが、何故だか嫌じゃなく、僕は身を任せた。自動ドアが開き、熱気をあびる。そうして手を引かれて連れて行かれた外の世界は、あまりに眩しくて目眩がした。




