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オパラス  作者: 柘榴真
I部
5/9

ユバルの奏を

 突然、目覚まし時計のように僕の空想を終わらせた少女。彼女はこちらを眺めながら、にこにこと微笑んでいる。もう会うこともないと思っていたため、僕は咄嗟に言葉が出てこなかった。

 「こんにちは、何回か呼んだんですよ?でも気づいてくれなくて」

 彼女は言い訳のように言う。おそらく僕が驚いた表情でもしているのだろう。何してるんだ、このマヌケ。恥ずかしさからか、悪態をつく。もちろん自分に。

 「心臓止まるかと思ったなあ」

 そう言うと、彼女は慌てた。シャレにならないもんなあ、ここじゃ。

 彼女は少し落ち着いた後、僕に問いかけた。

 「でもなんであんなに驚いてたんですか?」

 「いや、また会うと思ってなかったから」

 僕は素直に答える。

 「またって言ったじゃないですかー」

 「いや、あんなのテキト―に、社交辞令で言ったもんだとさ」

 これもまた素直に答える。

 「えー、ひどい。私嘘なんてつきませんよー」

 「そういうことじゃなくさ、結構そういうものじゃない?『また』っていう言葉。それに大人になってくると、よりその意味が強くなってきてさ」

 と、『大人』という狡い単語を使って言い訳をする。こんな大人にはならないと決めていたのに!……多分。

 「うーん、大人のこととかはよく分からないいんですけど『また』っていうのは、願いだと思うんですよ」

 「願い?」

 「はい、また会いましょーっていう約束でもあると思うんですけど、また会えたらいいですね、

また会う時まで元気でいましょうね、っていう『願い』が籠められてるんじゃないかなって」

 「……」

 「あ、あれ?私変なこと言っちゃいました?」

 恥ずかしさからか彼女のほおが紅潮する。

 「いや、素敵だと思うよ」

 「え、あ、そうですか……」

 今度は照れからか、顔全体が赤く染まる。

 『願い』『また会えたらいいですね』『また会う時まで元気でいましょうね』。その言葉が僕を締め上げる。以前、僕は信じることのできない言葉、そう思った。しかし、この言葉は僕には言うことなどできない言葉であり、言ってもらえる権利すらない言葉だった。そもそも僕は彼に見捨てられていたのだ。信じることすら痴がましいのだと、そう気づいた。

 そんなことを考え込んでいると、視線を感じた。彼女がこちらを窺っているのが分かった。僕はそんなネガティヴ志向な考えは止め、陽気な会話にでも勤しむことにした。こんなことを考えてちゃ、彼女にも悪いし。

 「そういえば、さっき何を楽しそうにしてたんですか?」

 「楽しそう?」

 「はい、えーと、私が話しかける前に。窓の方見てて」

 楽しそうに、というのは、にやけてて、ということだと分かった。このマヌケ!と罵ってやりたいところだったが、これでは自分があまりにも哀れで可哀そうだったので止した。

 「あぁ、外を見てたんだ。中庭。いいでしょ?」

 窓の向こうに指をさす。彼女の視線がつられて走る。

 「あ、花壇。きれいですね」

 そうだろうそうだろう。と、見つけたばかりの第一号を自慢げに横目で眺めながら、頷く。

 「よく行くんですか?」

 「ん?」

 行く?

 「今日は雨ですもんね。普段はあそこでごはん食べたりするんですか?」

 羨望の眼差しで問いかけてくる。目を合わせ辛い。

 「あー、いや、そんなんじゃないよ、行ったことないし。見てるだけ見てるだけ」

 「え?なんでですか?行けばいいのに」

 あれ、確かに行くのもいいのか?うーむ、……、よく分からない。

 「うーん、いいかなぁ」

 いいかな、は否定のニュアンスの、いいかな。よく分からないので考えるのを止め、そう決めた。

 「えー!行きましょうよ!あそこで食べたら、きっとおいしいですよ。最近は雨が続いてますけど、晴れたらきっと!」

 「え、うーん……」

 「じゃあ決まりですね!次晴れたときはあそこでごはん!お弁当持って来ますね!」

 やたらとテンションが高い。君が行きたいだけだよね、絶対。

 「そうです!私が行きたいんです!一緒に来てくださいね?」

 口に出ていた。僕としたことが。

 黙っていると、病院食を代わりに食べたことを告げ口する。と脅された。最近の女の子は怖いなあ、はふう。と、半ばやけっぱちになり、結局折れた。

 

 その後も、僕たちは少し世間話のようなものをしていた。

 「今日も雨ですね―。どんよりです」

 「うん……」

 「どうかしました?」

 僕が黙って考え込んでいると、彼女は気づいたようで、僕に問いかけてきた。こうした妙な鋭さと言うのは、女の子は皆持っているのだろうか。などと考えながらも、僕はその問いに答える。

 「雨って結構好きなんだけどさ、夏の雨っていうのはあまり好きになれないんだよね」

 「なんでですか?」

 「雨上がりってさ、空気が気持ちいいじゃない。マイナスイオンとかが空気中に散漫してて」

 「確かにそうですねー」

 「でも夏の雨上がりって、じめじめしてて気持ちのいいものじゃないから」

 「それに―――」

 ―――それに、夏の暑さから人々に救いを乞われ、それに報いるように降ってくる雨。誰かを救うためにやってきた雨は、役目を果たすと地面と空気の熱さに蒸発して消えていく。そんな彼を、地面にまだ残る彼の上を、先ほどの苦しさなど忘れて楽しそうに駆けていく人々。雨上がりのあの居心地の悪さは、そんな彼の嘆きなのだろうか。そのどうしようもないほど救えない彼が、僕は好きになれなかった。嘆くくらいなら、何もしなければいいんだ。

 

 「それに?」

 そんなことを考え黙っていると、彼女の方から聞き返してきた。

 「それに、お祭り行けなくなっちゃうからさ。困っちゃうよね」

 無理やり取り繕う。キャラじゃないことを言っているが、まあしょうがない。

 「なんですかー、それ」

 彼女はそう言うとふにゃっとした笑顔を僕に向ける。子供らしさ、と言ったら失礼かもしれないが、そんな純真な笑顔だった。そう思うと、ふと疑問が湧いた。

 「そういえば君、学校の方は大丈夫なの?今日って平日だったよね」

 病院にいると曜日感覚が薄れていくため、僕は外界の人々の習慣というものに疎くなっていた。

 「今は夏休みですよ―?」

 あ、そうか。そういえばそんな時期だった。僕も大学の夏季休業中にこっちに来たんだった。まあ、今はこんななのでもう辞めました、無職です。無職。哀れなり。

 「あと、咲希(さき)です」

 「え?」

 「私の名前。言ってませんでしたよね?」

 あぁ、名前か。突然だったので、また話を聞いてなかったのかと思った。よかったよかった。

 「あ、そうだね。改めてよろしく、咲希ちゃん」

 「“ちゃん”はいらないです」

 彼女は言う。なんだかそう言う顔に凄みがあったので、僕はおとなしく言うことを聞くことにした。

 「うん、よろしく、咲希」

 「はい。よろしくお願いします」

 「それなら僕も言ってなかったよね、僕は――」

 「お兄さん、です」

 

 言葉が遮られる。

 「……え?」

 突然の言葉に、僕は素っ頓狂な声を出す。

 「名前はネームプレートで前に見ちゃいましたから知ってますよー、ふふ」

 彼女は両手を後ろに組み、悪戯をした子供のような目でこちらを見ている。

 「あ、もしかして嫌でした?それなら――」

 彼女は黙っていた僕を見て慌てて何かを言おうとするが、今度は僕がそれを遮る。

 「いや、それでいいよ。あんまり呼ばれ慣れてなかったもんだから」

 「なら良かったです。」彼女はそう言ってほっと安堵の表情を浮かべる。そして、それからは他愛もない話をしていた気がする。食堂にいる人たちも何度か移り変わり、気づけば昼からここにいるのは僕たちだけとなっていた。こうして誰かと同じ場所でずっと意味もなく話すというのは、かなり久しぶりかもしれない。そもそもあったのかは分からないけれど。いくらなんでも、ない、ということはないとは思う。まあ、あったとしたらそれは、もう見ることのできない日々の情景の奥底にあるものだろう。

 

 「それじゃあ、今日はもう帰りますね。」そう彼女は言い、席を立つ。外はもう、うっすらと暗くなり出していた。「晴れたらお外でお弁当ですからね!明日は絶対晴れますよ!」彼女はそう確信に満ちた顔で言いながら、病院の出口へと向かう。僕も出口まで見送りに、横をついていく。僕たちが出る頃には、食堂にはもう誰もいなかった。そんな閑寂とした食堂を後にし、ナースステーションの前を通る。何か言ってくるわけではないが、その中からやけに視線を感じる。まあ、あまり普通の光景ではないかもしれないので、仕方がない。

出口に着くまでは、明日の話を忙しなくされていた。なんで明日晴れると思っているんだ、晴れの兆候なんて一切ないほどの雨なんだけどなあ。と、晴れを疑わない彼女に、その思考原理を覗いてみたくなった。僕とは正反対かもなあ。ポジティブ志向な思考……。ふふ……。

 そんなくだらないことを考えていると、出口まで着く。

 「それじゃあ、また明日!」

 『また』。

 その言葉を聞き、僕は一瞬固まる。しかし僕はそのことを気取られないように、すぐさま返事をする。

 「うん、またね」

 嘘だった。

願いなんて籠めていない。約束なんてできもしない。それでも、言うしかなかった。彼女に嘘をつくのは、ひどく罪悪感が湧いた。またね、と言わなければいいだけの話。でも、どうしてもそれはできなかった。彼女の願い、そんな儚い想いさえ壊してしまいそうだから。

 彼女は病院の外、中央の幅の広い道を、傘をさして歩く。彼女の小さな背中を隠すように、以前も見た麦わら帽子が首にかかっている。雨なのに。そう思った。僕は彼女が外の通路に出るまで、出入り口の自動ドアの外、車寄せの下で彼女を見送っていた。


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