異界の住人
―――僕はいつまで続けるのだろう、この意味もない世界を。
明るい。僕はその眩しさから目が覚める。
いつかの記憶、いや、記憶と言うと少し違うかもしれない。いつかの夢想。何度も繰り返した考え。だから、頭の中に着古した衣服の皺のように、残っていたのかもしれない。僕は考えるのは好きだった。思索に耽るのは楽だった。それは鬱屈なその世界にいなくて済むから。だから僕は事あるごとに、そうすることで、逃げることで自分を保ってきたのかもしれない。壊したがりの世界に、そうされる前に。
部屋の中央に掛けてある時計を見てみると、短い針は丁度北西を指していた。
ありゃ、お寝坊さん。
と驚いては見せたが、身体の倦怠感から薄々気づいていた。寝すぎた日と言うのは大体こんな感じで、頭はぼーっとしていて、身体はだるい。今日もそうだった。時計をまじまじと眺めていると、朝食の時間を過ぎていることに気づく。
しょうがない、朝食は抜きにして、お昼にまとめちゃおう。しょうがないけどね。と寝坊を言い訳に逃げることにした。自分のせせこましい考えにため息が漏れる。
昼食の時間になると両親がおいしそうなご飯を持って訪れてきた。感激だった。久々に食べた母の料理はとてもおいしいものだった。僕に料理を作ることもあと数えられるほどだからか、腕をふるってくれたのだろう。僕はそれを少しだけ寂しく感じた。
今日は、あの日、僕が日常と決別した日に言えなかったことを言いに来たのだろうと感じた。向こうも僕が知っていることに気づいているのかもしれない。お互いにその時を感じ取り、今部屋の中、家族だけで食事しているこの穏やかな時間を、できる限り大事にしていた。まだ離れてから長くはないが、ここがとても懐かしく感じた。
不意に、母の顔が歪む。かすかに嗚咽が漏れる。
聞きたくはなかった。見たくはなかった。しかし、逃げてはいけないのだ。僕がこうすると決めたのだから。父が両手で顔を覆う母の背に手をやり、宥めている。顔はこちらを向いている。「こういうことだ。」そう告げているように思えた。僕は何も言わない。言うことはできなかった。長い沈黙、聴こえてくるのは聞きたくなかった嘆きと、それを少し掻き消してくれるセミの鳴き声だけだった。そうしていると、ついに父の口からその時が発せられた。
「お前は、もう長くない」
知ってる。心の中で呟いた。声に出すことはできない。泣き続ける母を尻目に、父は続ける。「それでも、ここに残るのか。」答えは出ていた。ごめんなさい。と、僕はその想いで言葉を返した。その後のことはいまいち思い出せない。最後は、みんな笑っていたような気がする。僕は、ちゃんと笑えていただろうか。
―――僕は、こうしてまた一つ日常と決別をした。
月が出ている。開いた窓の外を涼しい風を感じながら眺めていた。外の世界、もう戻ることのできない世界。今までは当たり前の世界だった。つまらない毎日で、何もなさず過ごしてきて、たくさんの人が周りにいて、意味のない会話をして、家族がいて、普通の生活をして。そんな日々はもう来ない。
しかし、そこに色付いていたはずのあの日々はもうなかった。
僕は、変わりたかったのかもしれない。何もないけれど、すべてがあったあの日常、それを捨ててまで、僕は何になりたいのだろう。どこへ行きたいのだろう。それともすべてを諦め、ただ終わりを待つだけなのだろうか。
気づけば外からザーザーと音がしていた。雨が降っている。ここ数日晴れが続いていたからか、その分を取り返すかの如くの大雨だった。カエルの鳴き声が一斉に鈍く響きだす。数日ぶりの雨だからだろうか、嬉しそうに鳴いている。反対に、キリギリスだったか、ジージーという虫の鳴き声は止んでいた。雨が入ってくるといけないので、窓を閉める。そして肘をつき、また景色の変わる外をぼーっと眺めていた。
晴れが続いていた先日までとは打って変わって、連日雨が降っていた。今日も雨だった。
いい加減ここから見る雨の景色も飽きてきたなあ。と、何日も同じ景色を眺めていたため、僕は少し気が滅入っていた。
晴れだと何回見てもこんな飽きたりしないんだけどなあ。なぜ?と、ふと沸いた疑問をぶつけてみる。
うーむ、なぜだろう……。……。分からないなあ。
珍しくお手上げだった。いつもなら、自分の中で勝手に理由づけてみたり、強引に屁理屈を並べて説き伏せて見せたりするのだが、今日に至っては、何も浮かんでこなかった。
ぐぐぐぐぐぐ……。
このまま引き下がるのも負けた気がするので、でたらめな答えでも模索していたが、結局数時間粘っても見つけることは出来なかった。数時間と言っても、思索中にあれやこれやと別の議題が浮かんできて、道が逸れに逸れていたので、ずっとそのことを考えていたわけではない。
答えを見つけるには至らなかったが、退屈しのぎとしては、思索に耽るというのは至便であるし、僕の常套手段でもあった。そうしていると、時刻は昼を過ぎていた。僕は答えを見出せなかった悔しさを食事とともに飲み込んでしまおうと、配膳を受け取りに向かう。こうして捉えると、食事というものはとても楽しいものなのかもしれない。そう思えた。
食事を受け取ると、僕は食堂へと向かうことにした。普段なら部屋で食事をとるのだが、今日は外は言わずもがなであるし、気分転換にでもなると思い、食堂へと足を運ぶことにした。食堂へと着き、席を探す。ちらほらと席が埋まっていて、固まって談笑しているところもあれば、個人でいるところもあった。僕は比較的空いている窓の近くの席に座った。窓の外を覗くと広い中庭が見えた。色とりどりの花が咲いている花壇に、その花たちを眺めて座ることのできる椅子が設置されていた。そんな外の様子を見て、僕はここから見る景色も悪くないと感じた。気づいたら食事も結構進んでおり、想像以上にいい場所だな、ここは。と新たな隠れスポットを見つけ、密かににやけていた。まあ、多分誰でも見つけられるし、何より、ここ以外のスポットも知らないんだけどね。それなら、隠れスポット第一号かな。と僕が一人で楽しく食事をしていると、肩にポンと感触が伝わる。
「ん……?」
僕は感触のある方へと目を向ける。
そこにはいつぞやの少女が笑いかけていた。




