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オパラス  作者: 柘榴真
I部
3/9

邂逅

病院での生活はそれほど退屈ではなかった。今までと何も変わらない、同じ一日を同じように過ごす。馬鹿言えそれが退屈なんだ、というつっこみは無視し、僕は窓の外を眺める。景色が良い。この一室は病院の五階にある。僕の住んでいた都会とは違い、人工物で景色を遮られることなく自然を眺められる。広い空、渺茫と続く地平線、遠景の山々、自然の音色も相まって気持ちがよかった。

 だから、同じように過ごすのであればこちらの方が気に入っていた。ただ、病院の食事についてはかなり食傷気味だった。郷に入っては郷に従え、ここに置いてもらっている以上文句は言えないのだが、ただでさえお世辞にもおいしいとは言えないものを、毎日同じようなメニューで食べさせられるのは少々、いや、かなり億劫だった。

 普段、食について関心深い訳でもなかったが、入院してからは妙に気になるようになった。以前の生活では食にはお世話になっていたのだなあ。と毎日のように食事を作ってくれていた母や、食に従事するすべての人々に感謝をしつつ、病院食を食べていた。



 ―――闖入者だった。

 スライド式のドアが勢いよく開き、限界の仕切りにぶつかる音とともに、「おめでとう!」という、僕には一切縁のない言葉が飛んできた。そこにいるのは真っ白なワンピースを着た少女、首には背中からはみ出て見える麦わら帽子の紐が掛かっている。身体中のパーツ全てが小さく、しかしそれに反してひと際大きな目には、長く柔らかな睫毛がかかっている、そんな幼げな顔立ちの少女であった。

 「……」

 僕はスプーンを右手に、今まで食べていた食事の不味さを忘れて呆気にとられていた。

 「あ、あれ!?え……、な、なんで!?」

 僕が聞きたい。

 「部屋を間違えたのではないですか?」

 僕はそのつっこみを胸にしまいこみ、懇切丁寧に言ってみる。

 「あ、そうかもしれません……。し、失礼しました」

 そう言って少女はこの部屋を後にする。彼女は、ドアが閉め切るその時まで僕を、或いはこの部屋全体を訝しげに窺っている様子であった。

 ……。

 僕は少女が去って行った後の扉を少し眺めた後、手元のテーブルにあるものを見る。

食べなくては……。

 「はぁ……」

 一度、『食べる』というモチベーションを出すことができれば、案外一気に最後まで食べられるものなのだが、予想外の出来事に食事が中断されたため、また一からだな。と僕は辟易していた。しかし、いつまでもこうしていられない、よし、食べるぞ。と腹をくくったその時――。

コンコン、と扉が鳴った。 

 「……どうぞ」

 僕は諦めた。

 扉がゆっくりと開く。扉の方を向くと、先ほどの少女が申し訳なさそうにこちらを見ている。

 おどおどとした様子の彼女を見て、ああ、さっきの返事じゃ畏まっちゃうか。と実際彼女に対して恨みがあるわけでもないので、にこにこと言葉を待つことにした。

 「あ、あの……、さっきはすいませんでした」

 「いえ、気にしてませんよ。気にしてませんとも」

 僕はまるで自分に言い聞かせるように言う。

 「それで、お知り合いの部屋は見つかりましたか?」

 「あ、それが……その……」

 なんだか歯切れが悪い。なので、僕は得意の人畜無害っぷりを出して聞き出してみると、どうやら部屋は間違っていなかったらしい。彼女のお友達は確かにこの部屋に入院していたようだ。ただ、数日前に退院していたらしい。彼女はそれを知らず、退院が決まったことをお祝いしに来たら、変な男がいたと、そういうことらしい。

 「本当にすいませんでした……」

 彼女はとほほといった感じに落ち込んでいた。

 「……」

 「あ、あの…、怒ってます?」

 「……」

 彼女の反応を見ていると、どうも少しからからかいたくなってくる。

 「う、うぅ、ごめんなさい……」

 泣きそうになっている彼女を見て、僕はからかうのを止めて、ある提案をしてみることにした。

 「許してあげてもいいです」

 「ほ、本当ですか?」

 彼女の顔が明るくなる。

 「その代わり、これを食べてください」

 そう言って僕は手元に置いてある、まだ手をつけていないお盆の中の幾つかの品目を差し出した。彼女はそれを見て困惑しているようだった。

 「毒とか入ってませんよね…?」

 「……」

 彼女はまた泣きそうになる。

 このままじゃ一向に話が進まないな。と、本当にからかうのは止めることにした。

 「大丈夫大丈夫、普通の病院食だから」

 僕が笑顔でそう言うと、彼女の警戒は解けたようだった。

 大丈夫かなあ、彼女。と、笑顔一つで易々と信じ込んでしまっている彼女を、ひどく心配に思った。まあ騙してた僕が言えたことじゃないけど。

 「嫌いなんですか?」

 彼女が不意に問いかけてくる。好き嫌いのことだろう。食べ物で好き嫌いってないんだよね、まあ、食べ物だけじゃないけど。

 「そういうのじゃないんだ」

 「なら、どうして?」

 「食べたら分かるよ」

 僕がそう言うと、彼女は器の中を緊迫した表情で見つめた後、おそるおそるそれを口に運んだ。

 「……」

 「ね?多分わかったでしょ?」

 「そ、そうですね。毎日ですもんね……」

 彼女は少し言葉を濁してその不味さを表現した。僕なんかよりよっぽど気配りができていて、しっかりしているなあ。と感心した。

 「まあ無理して食べなくてもいいからね?頼んだ僕が言うのもなんだけど」

 「い、いえ!食べます」

 「そう?」

 彼女はそれを黙々と食べ続け、全部食べ終わると少し誇らしげにこちらを見てきた。

 「ごめんね、ありがとう」

 その言葉を発したと同時に、自分のどうしようもなさを実感する。

 「これで許してもらえました?」

 「うんうん。あ、最後に一つ、代わりに食べたことは他の人には内緒ね?」

 「え?……あ、はい!」

 病院食というものは栄養バランスなど綿密に調整されている。人に食べてもらったなど、まして年下の女の子に、なんて言えない。

 

 「……」

 「……」

 お互いに言葉を発しない。僕らは全くの他人同士だし、たまたまよくわからないきっかけで生じた不思議なやり取りの区切りが、今ついたところだ。ここらでさようなら、また機会がありましたら、ってな言葉でお別れの頃かな。まあよくあることだね。

 僕がどう切り出したもんかと考えていると、さっきまで肩まである髪をくるくるといじっていた彼女が沈黙を破った。

 「あの、わたしそろそろ行きますね」

 「あ、うん、時間とらせちゃってごめんね」

 「いえ。では、また」

 彼女は軽く会釈してガラガラという音とともに扉の向こうに消える。

 彼女の方から切り出させてしまって申し訳なかったな。最近人とまともに会話していなかったから許しておくれ。と、僕は言い訳付きで胸の内で謝る。

 ふと、最後の言葉が頭の中で繰り返される。

 『では、また』

 また、か。

 人生の中で幾度となく聞く言葉。『また会おう』、本当にその意味で使われることはあまりない言葉。別に、あの子がどうとかいう訳ではない。ただ、その言葉が放たれる度に、自分が一人、また一人といなくなっていくような、そんな感覚に苛まれる。それに、いつ消えるかもわからない今の僕にとっては、その言葉は一番信じることができない言葉なのかもしれない。

 「またね……」

 誰もいない部屋で零した言葉。どのような含意があるか、自分でもわからないその言葉は行く先も見つからずに狼狽して、縋るように僕を見つめてきた。


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