決別
僕は重大なことを忘れていた。僕のいるこの一室に純白の衣服を身に纏った、所謂看護婦であろう人が入ってきた時に、僕を見てやけに慌てていたものだから、それに気づいた。
ベッドの頭上に掛けられているボタン。
なるほど、こんな形なのか。とそのボタンを見て耽っていると、あたふたとしていた看護婦に体調や記憶について聞かれた。特に取り留めもなく返事をしていると、扉の方から二回音がした後、白衣を着た男と両親が部屋に入ってきた。
あ、もう来てるのか。
両親を見て自分が結構な時間寝ていたことを知った。確かに、部屋の隅にある小さな窓の外は橙色に染まっていて、外からひぐらしの鳴き声が聴こえていた。
看護婦は扉の前に行って何か会話をした後、こちらに一礼してこの部屋を後にした。そしてその扉が閉まる。刹那、全員が僕の方を見る。少し遠目に全員の顔が見える。
あぁ……。
その後は大体の現状を聞かされ、四人で末梢的な会話を続けていた。僕が起きるまでに両親と殆どの話は終えているのだろう。僕自身に聞かれた内容は、家の近くにある大きな病院に移って入院しよう。といった話だった。僕はそれを断った。ここでいいと言った。もちろん両親は拒否されるなどと思っていなかったのだろう、ポカンとしていた。なんで、どうして、そんな言葉が顔に書いてあるようだった。実際、そんな問いをされた。されない方が変だろう。
僕はここが気に入ったからだと答えた。嘘ではない。
両親は怪訝な顔つきでこちらを窺っていた。そして二人で顔を合わせ、長年寄り添っていないとできないであろう目と目を交わすだけでのあのやり取りを行い、その後、父が言った。
「そうか……。そういうことなら、ここにいるといい」
どちらも神妙な顔つきでこちらを見る。
「……」
分かっていた。そう言ってくれるだろうと。知っていたから。
僕は両親に報いることはできなかった。
今後の話を四人で話し終わる頃には、外は真っ暗だった。本来、僕が寝ている間に進められていたであろう構想の殆どが、僕の一言で反故になったからだろう。
いろいろごめんなさいねえ。と、僕のことを心配してここまで来てくれた両親と、こんな時間まで付き合ってくれた医者に心の中で何度も謝った。両親が病院を去る。僕は姿が見えなくなるまでずっと眺めていた。
両親が帰った後、僕は宛がわれた個室のベッドの上でいまいち寝られずにいた。今日一日でいろいろと日常が変わったんだし、仕方ないか。いや、昼からずっと寝てたんだよね、それのせいか。と大した事を考えてはいなく、本当は悩んだり嘆いたりするべきなのかもしれないが、僕にはどうしてもできなかった。
非日常、と言っても何かが変わるわけではなかった。結局はそこに捉われている。誰に支配されているかが変わっただけだった。そのうちこれも、日常へと変貌して僕を操り、どこかで高笑いでもするのだろう。
まあいいさ、勝手にしてろ。と僕はその誰かに言う。
僕にはどうでもよかった。昔からだ。いつからだったか。自分が一番自分に興味がなかったのだろう。なにもできない、なににもならない、なにもない、そんな自分が、どこにもいないように思えた。周りを見渡せば、自我を見ることができた。それは、自分のものでない自我だった。彼らは彼ら同士でいつも楽しげに踊りに耽っていた。そんな彼らをどうしてか僕はずっと眺めていた。そんな中過ごしていたからか、自分を見ることができなくなっていた。だからだろう、自分に降りかかるものすべて、客観的にしか見られなかった。だから病気だと言われても、いまいち分からなかった。
死ぬと分かっても、どうしたらいいのか分からなかった。




