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オパラス  作者: 柘榴真
I部
1/9

終わりと始まりと

 空虚だった。変わらず過ぎゆく無聊な日々。僕の日常は常に僕の上に鎮座しており、当然のごとく僕を支配していた。僕はまるで傀儡のように糸を引かれて、そこに縛り付けられている。抗う術が無いのか、はたまた忘れたのか。或いは、楽だったのだろうか。そうしていることで、どこかへ導いてくれると、そう思っていたのだろうか。

 記憶のある頃には僕は既にそうだった。いや、そうではなかったのかもしれないが、何の変化も起こさない僕にとっては今の自分はすべてであり、僕はその思いでしか自分を信じることができなかった。だからだろう、昔の自分を思い出として形容することはできなかった。いつまで続くのか、終わりなどあるのか。途方もないほどの螺旋を彷徨い続けたその先に、何かが待ってはいるのだろうか。



 ――何を探しているのだろう。

人はこのどうしようもない世界に、何を求めているのだろう。

そしてこの世界は、僕らに何を求めているのだろう。

 

 



 変化だった。気づけば僕は真っ白な部屋にいた。そこでは、とても往来や雑踏などは一切切り離されたものであり、そんな非現実的な様相を呈する場所であった。僕はそんな見慣れない光景を前に、ついに世界の色さえ感じ取れなくなったのか。と、自嘲気味に考えていた。そしてその馬鹿げた考えに一頻り整理をつけた後、いくらなんでも思考を始めないとな。と、僕は日常とはかけ離れているこの状況を把握しようとする。 

 まずはなんでここにいるんだろう。何をしてたっけ。あれ、ここってどこだ。どうやって調べよう。

 「……」

 僕は自らへの思考というものがひどくできなくなっていたことに気づき、先ほど感じた嘲りは一層増し、もはや諦観へと変わっていた。

 しかし、如何に忘れていた行為であろうとやらねばなるまい。と意気込み、たどたどしくも結論を推測していく。右腕に繋がったチューブ、部屋の様相から、ここは病院の一室であること。身体を大体見回して傷痕がないことから、おそらく、事故などの外傷が原因で運ばれたわけではないこと。身体中をすべて確認したわけではないので、百パーセントではない。不格好なさまを曝してまで全身を確認したくなかったし、そんなところに傷があると考えると、それは嫌だったので、できる限り先延ばしの問題としようと決め込んだ。

 我ながら情けないなあ。無意識にため息がこぼれる。はあ。

 そして、いつ何が起こったのかを思い返してみることにした。顎に手をやり頭を巡らす。たしか、緑だった気がする、周り一面。そう、森の中だ。と、思い起こせる最後の記憶のスクリーンから、具体的な状況を読み解いていく。


 歩いていたら気持ちよさそうな自然があった。

 ―――もう少し前か。

 少しだけ断片を飛ばす。

 なんとなく遠出していた、電車で。なんとなく降りた、普段感じない空気と風と、その広々とした空間は気持ちがよかった。なんとなく歩いた、全く知らないその土地で。お、繋がった。

そういえばそうでした。と自分の中でやたら言い聞かされたかのような反応をし、うんうんと頷いて見せる。一通り思い出して満足していると、肝心な部分に触れていないことに気づき、はっとする。

そうだそうだ、森の中で何があったんだっけ。

思考のウォーミングアップができてきたので、今一度最後のスクリーンを音声付きで再生してみた。どうやらスムーズに再生できたようだった。

 


『ふう……。結構来ちゃったかな』

 何気なしに入ってみた森の中は、ひんやりと季節を感じさせない涼しさを溜め込んでいた。外では、真上から身が焼けそうな熱量を孕む光を降らし続ける太陽が荘厳と佇み、アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。そんな外界から逃げ込むように飛び入った森の中は予想以上に気持ちがよく、気づけばかなり奥の方まで進んでいた。多くのセミの声も、普段聴くものより五月蝿いはずなのに、なぜだか嫌じゃなかった。

 周りをよく観察しながら進んでいた気がする。自然のものがたくさんあった。というか、自然のものしかなかったか。度々キノコを見かけたのが印象的だった。一見おいしそうなものから毒々しいものまで、何種々であった。その中でも黄色と茶色の色のものを一番見かけた気がする。あれだけあるってことはおいしくないのかな、毒でもあるのかな。とか、やっぱり何処かで聞いたように、おいしそうに見えるものが本当は毒があって、明らかにダメな色をしているものがおいしかったりするのかな。とか、そんなどうでもいいことを考えていた気がする。

 歩き疲れたので、僕は自分の背中よりも十分に幅のある木に凭れて休憩していた。まあ、僕の背中より幅の広い木なんていくらでもあったんだけど。その数多の中から選んだその木に僕の背中は都合良くフィットし、凭れ心地が良かった。

 この木は僕専用にしよう、こんなに木があるんだから構わないよね。と、僕は勝手に決める。自分が選んだものだからだろうか、なんだかとても素晴らしいもののように思えた。しかし、よくよく考えると勝手に決めるのも悪いなと思い、聞いてみることにした。

 「君みたいなスペシャルでエレガントな木は他にいないよ。良かったら僕の木になってくれない?」

 僕はまるで西洋のどこかの国の人が女性を口説く時のような口調で語りかける。その木もどこか嬉しそう風に合わせてざわめく。それを見て、向こうの人のナンパ術はここまで効力があるなんて。と、長距離歩いた疲れが頭にまで来ていると確信するような思考をしていると、感触、右の太ももに何かが落ちてきた。

緑色の光沢、カナブンだった。僕は座った体勢のまま、急所を曝すように顔を上げ、その上を見る。すると、荒い皮に覆われた木の地平線に、柔らかな曲線を描き凸む箇所があることに気づく。僕は腰辺りまでよじ登ってきていたカナブンを捕まえ、その木のうろに戻してやろうと立ち上がる。

「うげぇ」

 立ち上がり見つめたその先には、虫、虫、虫。

虫という虫が穴の奥や、その周りに集いていた。彼らは僕の存在に気づくと、こちらを窺ったまま固まる。彼らの視線は、僕を疎外させた。『お前はふさわしくない』静寂と自然の音が交わるその空間で、そう聞こえた気がした。僕は手にしていたカナブンを、虫たちが楽しげに集いていた木とは別の木に帰すという小さな反抗を行い、その場を移動することにした。

 なんだか気分が悪かった。あの厭わしい惨状を見たせいか、先ほどまでの気持ちよさなど完璧に払拭されていた。とにかく戻ろうと、来た道をふらふらと身体を横に揺らしながら進んでいく。こんなことならここまで来るんじゃなかったな。と今になってなんとなくで進んできたことを後悔する。

 

―――突然、胸に激しい痛みが襲う。

 「うぐっ!」

 その場に為す術もなく倒れこむ。鈍い痛みが胸の奥で鳴る、響く。その鼓動は、ケラケラと僕を嘲笑っているかのようだった。そのうち、呼吸さえまともに行えなくなる。コヒューコヒューと自分の呼吸音だけが森の中で響く。さっきまであんなに鳴いていたセミの声が静まりかえっている。

なんだ、求愛してる場合じゃないってか、そりゃそうか、人命が係ってるんだからね。と脳内で軽口を叩いていると、何も聴こえなくなった。いや、正確には耳鳴りだけが頭の中で響いている。次第に視界も、緑一色が淵から黒く染まっていく。筆洗の中の静謐とした水面に黒のインクを落とす時のように、それは滲んでいく。意識が遠のいていくのが分かる。

あぁ、あんなもん見ちまったからだ、最低だ、あの木、最悪だ。くそぅ……。

ここで記憶のシークバーは右端へと達し、再生ボタンが再度表示されている。



 一通りの顛末を思い出すと、事態が概ね把握できた。

あんなところで倒れていたのに良く見つけられたなあ。と、見つけてくれた人に感謝と感心をし、予測される自分の状況について考えた。

 病気か何かかな。

 このことは既に可能性として予期していたものだからか、そう大して驚愕も焦燥も感じなかった。

 非日常の事態を整理できた僕は、もうやることもなくなったので普段のペースへと思考を引き戻し、起こしていた上半身を下ろし、ベッドに寝転がる。

その時、ふと重大なことを忘れていたことに気づく。


 これだけは忘れてちゃいけないよな。うん。

 今更ながらも、このようなシチュエーションの際には不可分な様式美、それに倣って言い放つことにした。

 「知らない天井だ」


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