朝食
「おはようございます、母上」と言いながら、グレンがガヤ邸のダイニング・ルームに入った。
家族用のダイニング・ルームには6人用のテーブル以外、何もおいていなかったが、入口から見て左側の壁が一面のガラスになっていて、美しい緑と赤の庭園が見える。
台所へ行く入口は逆側にあり、そこから忙しなく数々の果物、パンとチーズを使用人の女性が運んでいた。
「おはよう、グレン」と近づいてきた息子に額にキスをしてもらいながら、ガヤ家の代理当主エリーゼが上機嫌に言う。
当主はへフェスだが、キーアンに声をかけられて大臣になったため、家業を継がなかった。その代わり、エリーゼと、へフェスの妻、クララが家業を仕切り、家に関係する決定はエリーゼに一任されている。
「何時に着いたの?」とエリーゼが一番奥の席、当主の席でもある場所、に座る。
グレンは庭園を背にしながら、エリーゼに一番近い右側の席に座った。
「日付が変わる少し前位です」
「よく眠れたの?」
「ああ。ぐっすり」
「息子が母の屋敷で眠れないなんて、恥だわ」とエリーゼが大げさに嘆く。
「否、じいやが入れてくれた紅茶のおかげで危うく朝ごはんに遅刻するところでしたよ」
「信じることにするわ。じいやと言えば、見かけないけど」と珍しくガヤ家の執事がグレンに手紙を持ってきていた。
「いくつかの仕事を頼んだから、もう出掛けている」とグレンはざっと差出人を確認しながら、手紙を仕分ける。エリーゼからの手紙は一番最後に入っていた。「ありがとう。後は私の寝室においてくれ」
執事は無言でダイニングルームから去った。
グレンはエリーゼからの手紙を開く。手紙ではなく、3枚の日程と名前のリストだった。
「全部断ってくれ」とグレンは母にリストを見終わる前に渡した。
「かなり有力候補をそろったわよ」
グレンはただ皮肉っぽく微笑むだけだった。
「わかったわ。・・・殿下に何か言われているの?」
「結婚すべきときにはしますよ」とグレンが髪をかきあげた。
今日のグレンは軍服を着ず、髪も後ろに流していない。
「怒ることはないんじゃない?」
髪をかきあげるときはだいたい怒っているときだ。
「怒っていませんよ」
「口出さない約束だったから、これ以上何も言わないわ」とエリーゼが折れた。
夫を早く亡くしたエリーゼはヘフェスとグレンを一人で育った。将来について選ぶ機会も与えたが、一つだけ条件を出したーどちらかがいずれ当主の座を引き継ぐこと。ただ引き継ぐと言っても、後継者を残すという意味であって、家業を継げという意味ではなかった。それ以外は二人がどんな人生を選ぼうと口を出さない約束をした。
グレンが軍人になりたがっていると知っていた弟思いのヘフェスはその責任を追い、家業も継いだが、キーアンに声をかけられて、家業はエリーゼの手に戻ると同時に、ヘフェスの空きを補うように、クララも家業の手助けを始めた。エリーゼ言わば、ヘフェス以上に優秀な助っ人だ。
エリーゼにとって唯一の誤算は次男が28歳になっても一度も見合いをしようとしないことだった。エリーゼもヘフェスもそうであったように、多くのアステラの貴族は25歳まで結婚している。時期が過ぎれば、結婚の可能性が益々低くなり、戦略的な結びが難しくなる。はずだが、なかなか見合いをしないアステラ国軍総大将のグレン・ガヤは国で一番結婚候補者が多い男だという。
時期国王キーアン殿下の右と左腕と言われているガヤ兄弟と関わりたがらない家柄は今アステラにはない。ガヤ家を味方につけることは国を味方につけると意味するらしい。が、エリーゼにとっては右と左腕だろうと足だろうと、ヘフェスもグレンも愛する息子たちで、死ぬまで心配の対象だ。グレンにはガヤ以外の後ろ楯があってほしいからこそ、有力な令嬢たちを集めたが・・・ヘフェスの言う通りグレンにはたかが結婚で手に入れる後ろ楯が不要かもしれない。
「結婚という手段でしか手に入らないもののためにとってあります」とグレンが呟くと、この子以上に貴族の武器が使える人を見たことがないとエリーゼが思い出した。
2匹の大きいロットワイラーがダイニングルームに入り、グレンの椅子の左右に横になった。
「客人と私と一緒にしばらくこの2匹も滞在します」
グレンは総大将になった年に宮殿と軍の寮に近い屋敷に引っ越した。
「今回珍しく連れていかなかったのね」
「2匹とも体調が悪かったから・・・おいていかれたことに不満のようで、機嫌が悪いです」
「グレンのことが大好きだからね」
「おはようございます」と野営地とかわらず、きっちり髪を後ろにまとめ、ベージュ色の軍服のエレンが入り口に立った。「すみません、遅くなりました」
グレンとエリーゼが立った。
そしてグレンは内心で少し残念に思う。軍服姿以外見られると期待していたのだ。
「おはよう!」とエリーゼが笑顔でエレンを迎えた。近づいたエレンを抱き締めてから、両手で彼女の顔を包み込む。「久しぶりだね。顔を見せて」
エレンが満面の笑みを見せながら「お久しぶりです。」
グレンはエリーゼのことを羨ましく思う日が来ると想像していなかった。
エリーゼはエレンのことを子供の頃から知っている。なくなった夫、アフェーゴンとエレンの親が親友だったそうだが、それ以上の詳細はグレンが知らない。父の話はエリーゼにもグレンにもつらすぎるから、お互い話題にあまり出さないようにしている。
「ドロティと益々似ってきたわ。彼女は元気にしているの?」
「はい、今村の子供たちに力の使い方を教えています」
「そうなのね!あ、ごめんなさい。あまり触っていけなかったね」
「大丈夫ですよ」
エリーゼは自分の左側の椅子を進めながら、座った。エレンも座るとグレンがやっと椅子に腰をかけた。
「今日宮殿に行く予定があるの、グレン?」とエレンの軍服に気づいたエリーゼが不満そうに聞く。
「いいえ、状況を整えるまでゼウス嬢も私も休みですよ」
人の呼び名を簡単に変えられるグレンに感心しながら、エレンが嫌な顔をした。神扱い以上に嫌いなことは令嬢呼ばわりされることだ。
「良かったわ。エレンといっぱい話したいわ。さて、食べよう!」
「クララは?」とグレンはヘフェスの妻が朝食のテーブルにいないことに驚く。誰よりも時間に正確な人なのにだ。
「体調が悪いから、部屋に引きこもっているわ。医者に見てもらってもなかなかよくならない」
「見ましょうか」とエレンが提案をした。
「お願いできる?エレンなら絶対原因わかると思うわ」
「もちろんです」
「ありがとう」
「坊ちゃんは珈琲で良いですね?」と使用人の女性、クロエが確認しながらグレンのティーカップに珈琲を注ぐ。
「ありがとう」
「こんな黒いものが美味しいと思う人は坊ちゃんとじいやしかいません」と不満そうに言う。「奥様の紅茶はダージリンです。すぐ持ってきます。ゼウス嬢は何がいいですか」
「ゼウス嬢で呼ばわれるのは好きではないので、エレンと呼んでください」とエレンが微笑みながら「珈琲を飲んだことがないので、試してみても良いですか」と上目遣いにグレンをチラッと見て言った。
グレンが珍しく素顔の笑みを見せた。貴族でも総大将でもないグレンをエリーゼですらここ18年も見ていなかった。
「味方がまさにここにいた!」とグレンはいつもの貴族風の多少皮肉が含めていそうな笑みに切り替える。
「お嬢ちゃん、やめた方がいいと思いますよ」とクロエが言いながら、エレンのティーカップにも珈琲を注いだ。
「クロエ、昼食も決めなきゃ。二人とも戦場帰りだから、お肉と思っていたけど、エレンは肉が苦手だったわよね?」
グレンは眉を軽く動かした。食事に制限があったのか。
「よく煮込んでもらえれば、肉でも大丈夫です」
「じゃ、クロエ、煮込み料理ね」
「分かりました。奥様の紅茶を出したら、肉の処理を始めます」
「ありがとう!」
エレンが珈琲を一口飲む。
「どう?」
グレンは人に興味を示すこと自体が珍しい。
「思った以上に苦い」
「砂糖を入れるといい」とグレンが砂糖入れをエレンの近くにおいた。
多少砂糖を入れてから「確か砂糖を入れたほうが美味しい。珈琲はどのように作っているの?」
「珈琲豆から挽くのよ」とエリーゼが答えた。
「その豆、少しもらえますか」
「もちろん。うちで数種類を仕入れているから、店から持ってこさせるわ」
ガヤの家業は貿易である。食料を中心に数々の国と取引している。アステラでは、ガヤ店にないものはこの世にないものだと言われさえしている。
「ありがとうございます」
「珈琲を薬に使うつもりか」
「何かしらの効能がありそうだから、調べてみたいんだ」
「熱心だな」
「力があるなら、世に役立つように使いたいだけだ」
「その気持ち、よくわかる」
そのあと、エリーゼは都の最新情報や隣国の噂を提供した。
エリーゼとエレンがクララの部屋に向かおうとしたとき、「グレン、昼食にケルベロス夫人を誘おうと思うの」とエリーゼがふっと思い出したかのように言う。
「分かりました」とグレンは母と目を合わせる。エリーゼが微笑むと、「出かけますので、昼食も夜食も不要です」
「もっ。わかったわ。誰も誘わない。代わりに明日のオペラにエスコートしてちょうだい」
「もちろんです」
「二人の席、準備させたわ」
母の額にキスしてから、グレンが中庭へ向かった。
「こんな子に育った覚えはないわ」とエリーゼが呟いた。
「いつもエリーゼとヘフェスが折れる側のようですね」
「そうなの。有無を言わせない何かあるのよね…」
「人は立場によって変わるものです」
「うーん、殿下と少し似ているのよね。今の立場は彼らのためにあったようなものだわ。さて、クララを見に行こう」