出発
グレンが目覚めるとすぐに長椅子に座った。
カーテンのせいで光が遮断され、時間がわからない。ただ聞こえてくる音からすると、いつもの起床時間とあまり変わらなさそうだ。昨日エレンが言った通り、人間の体は周期的だ。軍人なら、時計並の正確さだ。しかしこんなに深く眠ったのはいつぶりだ?数年分の疲れが取れた気がする。
周りを見ると、昨日なかった水の入っている大きな器とタオルがテーブルの上においてあり、向かいの長椅子に見覚えるがある白い軍服が畳んであった。いつも人の気配を感じると目覚めるはずなのに、エレンの紅茶はかなり強かったらしい。毒や多くの睡眠薬の類いに耐性があることを自負していたが、魔女の紅茶は別のようだ。
グレンが立とうとしたら、軍服の上着のボタンが開けていたことに気づく。カモミールの花の香りがする毛布をかけてくれたようだ。
少し困惑を覚えるグレンが右手で髪をかきあげた瞬間、手からエレンからいつもする香りと同じのがしていた。そうか。欲求不満による夢だと思ったことは真夜中の出来事だったのかとグレンが妖しく微笑んだ。
「おはよう」と既に軍服を来て、髪をきっちりまとめているエレンが2つのティーカップを持って現れた。「よく眠れたか。」
「ああ、こんな狭い長椅子でこんなによく眠れるなら屋敷においている大きい寝台は無意味に感じるほどだ。」と立ちながら、グレンは言った。
「グレンの問題は寝台ではなく、常に気を張っていることにある。」
また名前だ。エレンが気付いていないなら、とりあえず何も言わないでおこう。
「そんなに周りにいる人間を信用できないのか。」
グレンは少し困ったように笑った。
「そういう問題じゃないんだ。」とこれ以上語らない意思表示として、グレンが顔を洗い始めた。
エレンもこれ以上聞かなかった。
タオルで顔を拭き終わったグレンがついでに濡らした髪を後ろに流す。
「下ろしているときのほうが実年齢に見える・・・」とエレンが呟く。
意外と思っていることを素直に口にする人だなとグレンが感心する。
「だからこその髪型なんだ。」
「そうか」
「しかし、昨夜不思議なことが起きた」とグレンが言いながら、エレンが持っているティーカップに手を伸ばす。「今までする方だったのに・・・人生初めて夜這いにあった。」
エレンがグレンを驚いた顔で見つめた。
「女性に唇を奪われる日がくるとはね。」
エレンが両方のティーカップを落とした。
絨毯の上に落ちたためか各カップが真っ二つに割れた。
グレンがしゃがんで破片を集め始める。少し遅れて隣にしゃがんだエレンの手首をグレンに手首を掴まれ、抵抗ができる前に引っ張られた。バランスを崩したエレンが全て計算された動きであるかのように難なくグレンに抱き止められる。顔をあげると、その男は初めて会った日の妖しい笑顔を見せていた。顎も掴まれ、エレンの心を惑わす青い瞳が楽しそうにこちらを覗きこんでいる。
沈黙。
『隊長、アステラ国軍第一隊のレナード・ディオニス隊長がガヤ総大将を向かいに来ています。』とエレンの部下が入り口から声をあげて告げる。
『すまない、すぐ行くと伝えてくれないか。』とグレンがエリーニュス語で言うと、エレンが益々驚いた顔をする。
『分かりました。・・・隊長は?』
『奥で探し物。』とグレンはエレンから目線をそらさずに言う。
『分かりました。』
少しの間の沈黙の後、グレンが囁く。
『残念。時間切れだね。』と指の腹でエレンの頬を軽くさすってから、立ちながら彼女も立たせた。『ティーカップ、弁償するよ。ある意味私のせいだからね。』
エレンはただ絶句したままグレンを見ている。グレンが鼻で笑う。
破片をテーブルの上においてから、長椅子においてあった軍服をとると『カーテンの向こう側で着替える。』と去りながら、アステラ語で最後に言い残した。「出発は今日兵士の夜ご飯後だ。」