罠
暗闇が空に広がり始めた時刻にエレン・ゼウスが自身の部隊と共にアステラ軍の野営地に到着した。見回りをしていた兵士に声をかけるとすぐに総大将、グレン・ガヤの天幕に案内された。
進められた入り口から多少離れた椅子に腰を落ち着かせると突然天幕に薄汚れた白い軍服を纏う男が入ってきた。手を洗ってから、中央のテーブルにおいてある真紅の林檎に手を伸ばす。
林檎をかじながら、少し奥のほうにいたエレンを見つけると目を細めて、軽く唇の端をあげた。
エレンは罠に引っ掛かった獲物の気分になった。
男がゆっくりと果肉に歯を食い込ませては、こぼれそうな果汁を舌の先で舐める。その光景を見ていたエレンが恥ずかしさに耐えられず一瞬目線を手元へ落とす。視界に入った手の肌の色が林檎の果肉の色に似ていると気づくと、目線を男に戻した。
私は果肉。そして目をそらせば負けだ。
勝ち目がない戦でも引き分けの可能性があるとエレンは信じていたが、男の顔に無敵な笑みが深まるばかりだった。
確かアステラ国の宗教の伝えでは、天国から人を追い出すきっかけとなった禁断の林檎に手を伸ばしたのは無知な女だった。
この心を見透かすような視線と人を誘惑して罠に落とさせるような皮肉的な笑みをする男は自身の快楽のためだけに無知な女にあの林檎に手を伸ばさせたではないだろうか。いや、もしやこの男自身が禁断の林檎そのものではないかと目の前の妖しい光景を見ながらエレンは思った。
「こちらにいましたか。お探ししておりました。」とレナード・ディオニスが天幕に入りながら林檎を食べていたグレン・ガヤに言った。
「戦利品か。」とエレンを見つめながら、グレンが挑発的な笑みを見せる。
エレンの軍服を見れば、戦利品ではないことはすぐにわかる。グレンもわかっているが、あえて知らないふりをする。
呆れた表情をしながら、レナードが報告する。
「頼まれた援軍の隊長です、総大将。」
「残念」とグレンが上の唇を軽く舐める。「魔女が自ら来てくれるとはな、少し意外だ。」とエレンに初めて声をかけた。
援軍を依頼した張本人だと信じがたい口調だ。
「早く決着がつけたいだろう。」
「一秒でも早く。」
「ならば私が来るしかあるまい。」
「では一番最初の戦に参りますか、隊長殿。頭のかたい将軍たちがお待ちかねです。」とグレンが天幕の入口にぶら下がっている布を大げさな動きであげた。